二十六 グアテマラ民主化革命
(2)ファシズム体制の成立と抵抗運動
1929年大恐慌は中南米にも波及的な影響を及ぼし、不況と窮乏を招いていたが、そうした中でも、南米チリでは、前々章で見たように、革新的な社会主義革命を誘発したのに対し、中米グアテマラでは反動的なファシズム体制を結果するという対照的な動向を示した。
その点、グアテマラでは1898年から1920年まで、マヌエル・エストラーダ・カブレラが長期独裁体制を敷き、その下で、ユナイテッド・フルーツ社のような米国系農業資本と癒着しつつ、当時は人口の過半数を占めたマヤ人をはじめとする先住民族を、少数派の白人が大土地所有制を通じて支配する構造が確立されていた。
カブレラ体制は欧州でファシズムの潮流が発生する以前の開発独裁型の体制ではあったが、1920年の大地震を契機とする民衆蜂起によるカブレラの失権というプチ革命の後も、独裁の後遺が残り、十数年を経て、今度は大恐慌を契機として、ホルヘ・ウビコのファシズム体制が出現した。
とはいえ、ウビコのファシズム体制は、ほぼ同時期に並立したブラジルのヴァルガス大統領によるボルトガルのファシズムを模したファシズム体制に比すると、イデオロギー色が薄く、ウビコの職業軍人出自を反映して、軍事色の強いものであった。
その点では、スペイン内戦後に成立したフランコ体制に近かったとも言える。実際、ウビコ政権下では本来は民生領域である郵政や教育、音楽等の分野にも軍人を配して、軍国化が推進された。
一方、ファシズム体制は徹底的な反共政策を特徴とするが、ウビコも就任早々に共産党員を大量処刑し、壊滅させている。こうした経緯も、ナチス初期の共産党弾圧政策と類似している。そのため、グアテマラ共産党は革命後に再建されるも、革命過程で強い影響力を持つことはなかった。
ウビコ体制は、ウビコ本人以外に自由人はいないと揶揄されるほど徹底した個人独裁体制に進展し、抵抗運動の余地もない状態に達した。米国資本を優遇して経済的な基盤とする目的からも、第二次大戦が勃発すると、イデオロギー的に近い枢軸国ではなく、連合国側に付いて宣戦布告、国内のドイツ移民経営のコーヒー農園を接収する見せしめ的な制裁措置に出たのも、ウビコのプラグマティックな体制防衛策であった。
こうして内外共に安泰に見えたウビコ体制であったが、国民の全体主義的な統一が不十分であったことが盲点となる。ウビコは翼賛政党として進歩自由党なる一見自由主義的な党名の政党を設立して、自身の政治マシンとしていたが、この党は独裁のカムフラージュ政党であり、実効的に組織化されていなかった。
一方、カブレラ時代からの社会開発と近代化は、グアテマラ白人層の間にも政治意識の高い中産階級を生み出し、1940年代になると、こうした中産階級が反ウビコの抵抗運動の担い手となっていく。終戦直前の1944年6月に発生した平和的な抗議デモは、中産階級の蜂起の象徴となった。