ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

比較:影の警察国家(連載第10回)

2020-09-04 | 〆比較:影の警察国家

Ⅰ アメリカ―分権型多重警察国家

1‐2‐3:合衆国機務局と連邦警備局

 国土保安省系統の連邦警察機関の中でも、警備系の機関として枢要なものに、合衆国機務局(United States Secret Service)と連邦警備局(Federal Protective Service)がある。
 これらと紛らわしい連邦機関として、司法省系の合衆国保安官局があるが、こちらは連邦裁判官の発付に係る令状の執行や廷吏業務、連邦犯罪被疑者の護送等、司法関連の執行・警備業務に従事する合衆国保安官を統括する部署である。
 合衆国機務局は、合衆国保安官に次いで、歴史の古い連邦警察機関の一つである。沿革的には南北戦争当時まで遡り、当初は戦時における通貨偽造取締機関として出発し、戦後に財務省の正式な捜査機関となった
 こうした経緯から、連邦警察機関を持たない伝統の中で、例外的な連邦財務捜査機関として機能していたが、19世紀末に当時のクリーブランド大統領の警護任務を臨時に担った後、1901年のマッキンリー大統領暗殺事件を契機に、翌年以降、大統領の警護を正式の任務とするようになった。
 これは便宜的に与えられた新任務であったが、その後、連邦捜査総局(FBI)をはじめとする連邦捜査機関の設置と発展により、捜査機関としての任務よりも警護が主任務となり、正副大統領とその家族のほか、訪米した外国首脳・要人の警護、さらにホワイトハウス庁舎内外の警備まで幅広く担う警備総局としての性格を強めた。
 他方で、沿革に関わる捜査機関としての権限も保持しており、通貨関連犯罪その他の財務犯罪に関する捜査権限を有し、司法省系の連邦捜査機関と重複する部分もある。しかし、現在では警護が主任務であることから、国土保安省の新設に伴い、財務省から移管されたものである。
 もっとも、移管後の機務局は捜査権限を拡大する傾向にあり、サイバー犯罪捜査の分野にも及び、全米各地に電子犯罪特務部を展開している。こうして、合衆国機務局は、要人警護と財務・電子犯罪捜査といういささか不釣り合いな二つの任務を帯びた独特の連邦警察機関として、7000人以上の職員を擁する大組織に膨張している。
 これに対して、連邦警備局は、機務局が警備するホワイトハウスを除き、連邦が所有し、または貸し出している建造物の警備及びそれに関連した法執行を行う機関であるが、主任務は警備にある。ただし、警備任務は1万人を越える契約警備官に委託されており、正式の職員数は機務局よりはるかに少ない1400人ほどにとどまる。
 こうして、合衆国機務局と連邦警備局は、国土保安省系の連邦警備警察機関として、契約職員ともども合わせれば、両機関で2万人を越す要員を擁する連邦警備警察体系を形成していると言える。警備警察は軍に準じた武装警察でもあるから、こうした連邦警備警察の拡大は、警察の準軍事化という現代的な現象の発現でもある。

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近代革命の社会力学(連載第142回)

2020-09-02 | 〆近代革命の社会力学

十九 オーストリア革命

(5)革命の挫折と革新的ウィーン市政
 オーストリア革命は、皇帝の出国後、ハプスブルグ家の統治の廃止と資産没収を決めたハプスブルグ法の制定をもって、ひとまず共和革命としては一段落した。
 しかし、社会主義政党である社会民主労働者党とカトリック保守のキリスト教社会党の大連立という本来ベクトルが正反対の呉越同舟体制が続く中、共和革命後の方向性については定まらず、暗雲が立ち込めていた。
 前回見たように、革命政権を主導する社会民主労働者党は新生ドイツ(ワイマール共和国)との統合を視野に入れつつ、急進的なレーテを取り込むべく、「社会化」を柱とする革新的な政策を展開しようとしていたが、そのいずれもが壁に直面する。
 ドイツとの統合は連合国の強い反対にあい、1919年9月に署名された連合国との間の講和条約であるサン‐ジェルマン条約において否定され、挫折した。これにより、オーストリアは単独の共和国(第一共和国)としての地位が国際法上も確定した。
 他方、民営企業の実質的な国営化を志向する「社会化」政策は、大連立を組むキリスト教社会党や経済界からの反発を受け、労働者の経営参加権を認める経営評議会制度の創設がせいぜいであったが、これすら、形式的なものにすぎなかった。
 こうして内外政策ともに行き詰まりを見せる中、第一共和国の今後を占う試金石となったのが、新憲法公布の直後、1920年10月に行われた最初の正式な国政選挙であった。この選挙で、社労党は3議席の減少ではあったが、「社会化」を懸念する勢力の支持を受けた連立第二党のキリスト教社会党が躍進し、第一党の座を譲り渡すこととなった。
 ここで、連立に残留するか下野するかの選択を迫られた社労党は、レーテからの要請もあり、結局、下野の道を選んだ。これにより、同党が主導してきたオーストリア革命は、一年で挫折することとなった。この後、同党は第二次大戦直後まで、国政においては野党のままであった。
 しかし、首都ウィーンでは、社労党が1934年まで市政を主導し、「赤いウィーン」の異名を取った。ただし、国政で追求されたような「社会化」政策ではなく、公共住宅の整備や医療費無料化、驕奢税などの進歩的な社会経済政策を主要な政策とする革新市政であった。
 この間、社労党が下野した国政のほうは、着実に保守化が進行していった。保守派は「護国軍」なる民兵組織を結成し、社労党や革命派に対する攻撃を強める一方、社労党も対抗上、武装組織として「共和国防衛同盟」を結成したため、両者の武力衝突が頻発した。さらに、隣国ドイツから波及したナチズムが急速に勢力を拡大し、三つ巴の社会騒乱状況となった。
 そうした中、キリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフース首相は1933年、議会を停止し、独裁体制の樹立を目指した。このドルフース体制はイタリアのファシズムを参考にしつつ、社会主義もナチズムも抑圧する中道的独裁を通じて国家の安定を取り戻さんとする疑似ファシズムの性格を持っていた。
 これに対して、1934年2月、社労党と共和国防衛同盟が武装蜂起した。言わば、遅れてきた武装革命となり得る事象であったが、準備不足のため、これは「二月革命」とはならず、革新的ウィーン市政を含め、革命の最終的な墓穴となった。
 この「二月蜂起」は、1000人以上とされる死者を出して鎮圧され、その後、社労党もナチ党もともに禁止された。こうして確立されるかに見えたドルフース独裁体制であるが、同年7月、クーデタ―を企てたオーストリア・ナチス党員によってドルフースが殺害され、あっけなく終幕した。
 これを機に、オーストリアではナチズムが躍進し、1938年にはヒトラーからの圧力により、国民投票という形を取ってオーストリアとドイツの併合が決定され、オーストリアはナチス「第三帝国」の一部となる。
 こうして、強固な革命集団を欠いたため、革命が早期に挫折、保守化する中、ナチズムへと反転、反動化していった経過はドイツとも並行している。

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