ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第232回)

2021-05-07 | 〆近代革命の社会力学

三十三 アルジェリア独立革命

(6)独立と初期政権
 エビアン合意から二つの国民・住民投票を経て、アルジェリアは1962年7月に独立を果たした。独立後の政権勢力は民族解放戦線(FLN)であった。
 この流れは第二次大戦時のレジスタンス組織がそのまま解放後に政権勢力に平行移動した諸国のレジスタンス革命と類似しており、アルジェリア独立革命もある種のレジスタンス革命であったと言える。
 ただし、多くのレジスタンス革命では、共産系のレジスタンス組織が革命後、改めて共産党または他名称共産党に再編されて政権勢力となった例が多いが、アルジェリアではFLNがそのまま政党化され、今日まで最大政党として存続しているという点で、まさにレジスタンスの記憶が維持されていることに特徴がある。
 その点、FLNは元来、イデオロギーよりも、まさに名称どおり民族解放(独立)の一点で凝集された包括的組織であり、内部には共産主義から穏健なイスラーム主義まで様々な要素があったが、そのすべてが急進化することなく、FLNの旗の下に対立が止揚されていたことも特筆に値する。
 一方、アルジェリアにおいても、多くのレジスタンス革命においてありがちなように、革命後、「裏切者」に対する報復的処断が大々的になされた。
 ここでは特に、戦争中フランス軍に協力した同胞アルジェリア人(アルキ)に対する報復的な大量処刑が殺戮のレベルで断行された。独立戦争は8年近くにも及び、FLNも多大の犠牲を払っただけに、「裏切者」アルキへの集団的憎悪は激しかったのである。
 ちなみに、独立革命前の旧支配階級コロン層は、独立後の報復を恐れ、戦争中からフランスへ続々と引き揚げていたところ、アルキに対してはフランス政府が本国移住を禁じたため、独立後、FLNの報復にさらされる結果となった。
 こうした報復の屍の上に、政党化されたFLNの一党支配体制が樹立される。とはいえ、FLNにはユーゴスラヴィア・パルチザンの指導者チトーのような傑出したリーダーがおらず、政権勢力となったFLNでは早くも権力闘争が勃発した。
 最初の対立は、獄中にあって有力者として台頭していたベンベラと戦争中、FLNの事実上の海外代表機関であった亡命臨時政府を率いていたベンユセフ・ベンヘッダとの間で生じた。この対立はベンベラの勝利に終わり、彼は憲法制定後、1963年9月に初代大統領に選出された。
 ベンベラは非同盟諸国運動に積極的に関わり、第三世界の旗手の一人として国際舞台にもデビューしたが、内政面では、労働者自主管理などユーゴスラヴィアの影響を受けたと思われる経済政策が低開発段階のアルジェリアでは十分機能していなかった。
 一方、FLNを離脱したホサイン・アイト・アーメドは、社会主義勢力戦線(FFS)を結成して反政府活動を開始した。実際のところ、FFSは主に少数派アマジグ‐カビル系に支持された勢力であり、ここには独立戦争中は表面することのなかった多数派アラブ系と少数派アマジグ‐カビル系の民族対立が隠されていた。
 FFSは1963年に大規模な反乱を起こすが、カビル系を超えた全般的な支持を得ることはできず、反乱は翌年までに政府軍により鎮圧され、内戦への進展はなかった。

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近代革命の社会力学(連載第231回)

2021-05-05 | 〆近代革命の社会力学

三十三 アルジェリア独立革命

(5)独立戦争の展開Ⅱ~終結まで
 民族解放戦線(FLN)の壊滅を目前にしながら、アルジェリア独立戦争に画期的な転回が生じたのは、1958年5月のアルジェリアの白人入植者コロン層によるクーデターと、その結果としての第四共和政の崩壊が原因であった。
 当時、フランス本土では国論にも変化が起き、次第にアルジェリア独立を容認・支持する世論も有力となり、国論が分裂し始めていたことに加え、国際社会ではフランスの苛烈な鎮圧作戦に対する批判の強まりと、ソ連をはじめとする東側陣営によるNLFへの支援態勢も構築されていた。
 そうした内外の情勢に対処できない第四共和政に対する不満が、アルジェリアのコロン層の間で高まっていた。かれらは第二次大戦におけるフランス解放の英雄で、いったんは政界を去っていたシャルル・ド・ゴール将軍の復帰を要求し、クーデターを起こした。
 これは当初、アルジェリア駐留軍による地方的な反乱という形で発現したが、反乱はアルジェリアを超え出てコルシカ島占拠、さらには本土にも上陸しかねない勢いとなった。このプロセスもまた、1930年代、モロッコ駐留軍の反乱に端を発したスペイン内戦の状況と類似していた。
 こうしてアルジェリア駐留軍の反乱が実質的なクーデターの様相を呈する中、第四共和政は事態を掌握する能力を喪失し、政府は総辞職、当時のルネ・コティ大統領はコロン層の要求どおり、ド・ゴールを首相に任命して事態の収拾を図った。
 ド・ゴールは就任早々、議会優位の第四共和政を改め、大統領権限を強化する憲法改正を通じて国家構造を再編した。こうして、1958年10月に新たな第五共和制が発足し、新体制の初代大統領には当然ながら、ド・ゴール自らが就いた。
 コロン層がド・ゴールの復帰を要求したのは、彼ならば対独レジスタンス当時のように、断固としてアルジェリア植民地を護持するだろうと期待したからであった。しかし、この期待は完全な誤算であったことがすぐに明らかとなる。
 現実主義者のド・ゴールは58年9月の時点で、アルジェリアの民族自決を容認することを明言した。そして、年末には自身の擁立に貢献した反乱主導者でもあるアルジェリア駐留軍のサラン司令官を事実上更迭したうえ、アルジェリアの軍政シフトを廃止した。
 一方で、ド・ゴールはサラン司令官の後任に空軍のモーリス・シャール将軍を据え、「シャール計画」と呼ばれる独立戦争過程で最大規模の攻勢をしかけ、1960年初頭までにFLN軍事部門をほぼ壊滅させることに成功した。
 ド・ゴールはそうしてFLNを軍事的に弱体化し、アルジェリア情勢を安定させたうえで、60年7月には「アルジェリア和平計画」を発し、アルジェリア独立のプロセスを明確にした。これに反発したコロン層は11月に暴動を起こすが、翌61年1月の国民投票では、大多数がアルジェリア独立を支持した。
 これによってアルジェリア独立戦争は終結に向けて動き出し、ここから先は、ド・ゴール政権に反発を強めたフランス国粋主義者とド・ゴール政権との間の紛争に転化する。一部の過激分子はフランコ独裁下のスペインで秘密軍事組織(OAS)を結成し、ド・ゴール政権に対するテロやクーデターなど数々の謀略を開始した。
 しかし、61年4月、ド・ゴールに裏切られたサラン将軍やシャ―ル将軍ら四人の将軍がアルジェで決起した軍事クーデターが五日で失敗に終わると、アルジェリア独立の流れは加速した。
 62年3月にはFLNとの間で休戦協定(エビアン協定)が成立し、これに基づくフランス全土における国民投票及びアルジェリアにおける住民投票で、いずれも独立が支持され、アルジェリアの独立が正式に確定したのであった。
 こうして、アルジェリア独立戦争後半は、ド・ゴール政権による方針転換により、政治主導で終結へと導かれた。フランスにとっては、軍事的にも敗北したインドシナ戦争の轍を踏まず、軍事的に勝利しつつ、政治的に譲歩して独立を容認するという巧妙な戦術と言える。

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近代革命の社会力学(連載第230回)

2021-05-03 | 〆近代革命の社会力学

三十三 アルジェリア独立革命

(4)独立戦争の展開Ⅰ~1958年まで
 1954年11月の民族解放戦線(FLN)による独立宣言に発するアルジェリア独立戦争は、1958年におけるフランス側の政変をはさみ、前半戦と後半戦に分かれる。
 前半戦は、独立宣言を経て、フランス側でアルジェリアのコロン層のクーデター決起により、フランス本国で第四共和政が崩壊し、代わって第五共和政が成立した1958年10月までの時期である。
 この時期は、アルジェリアの独立革命を力で抑圧しようとするフランスとFLNの衝突が先鋭化した時期に相当する。当時のフランス共和体制はナチスドイツによる占領前の第三共和制を継承する第四共和政であり、大統領は議会による選出制を採り、議会優位・首相主導の構造にあった。
 そうした中、フランス側の対応は当初、強硬策と融和策の間で若干揺れたものの、融和策を掲げて56年1月の総選挙で勝利した中道左派政権がアルジェリア・コロン層の突き上げを受けて強硬策に転じ、本格的な鎮圧作戦を開始した。
 これに対し、FLNは軍事部門を擁するとはいえ、物量的に劣勢であり、基本的にはゲリラ戦法とテロルを組み合わせたレジスタンス活動を展開した。コロン経営の農場・学校等の襲撃、コロンやその手先とみなされた先住民の殺害にも及んだFLNの活動手法はフランス軍側の殺戮行為とともに戦争犯罪の要素を帯び、論議の的となる。
 対するフランス側であるが、元来アルジェリアは「国内」に準じた扱いであり、その秩序維持は内務省の所管であったが、1956年3月に緊急事態法が制定されると、20万人規模の予備役兵の招集により、軍が警察権も管轄する本格的な戦争シフトが敷かれることになった。
 そうしたある種の軍政下で、フランス軍によるFLN掃討作戦も苛烈を極め、略式処刑や拷問などが多用された。その実態は1930年代のスペイン内戦にも類似するものであり、戦争犯罪に相当するレベルにあった。
 一方、この間、FLN側は56年8月、北東部のスムマム渓谷で秘密会合を開催し(スムマム会議)、アルジェリア国家の前身となる機構を設立した。これは革命成就前の未然革命に相当するもので、ここで設立された革命国家評議会や調整・執行委員会などの機構は、依然フランスが掌握する公式権力に対する対抗権力の性格を持った。
 この会議ではまだ憲法草案などの法令策定に及ぶ余裕はなかったが、軍事に対する政治の優位、国際より国内重視、集団指導制の三つの原則が採択されるとともに、フランスが完全な独立を承認するまで交渉に応じない徹底抗戦方針も確認された。
 如上三原則について言えば、第一の政治優位原則は独立後の民政確立を想定したものではあったが、依然フランス軍による大規模な掃討作戦が展開中であり、FLNにおいても軍事部門の作戦遂行能力が帰趨を握っていたことは、軍事部門指導者の台頭と権力掌握を容易にする状況を作り出した。
 第二の国内重視原則は、海外で亡命活動をするのでなく、アルジェリアでの解放戦争に注力することを意味したが、実際のところ、掃討作戦の中で指導者の拘束が相次ぎ、57年にはFLNの主力は一足先に交渉で独立を達成した隣国モロッコに退避せざるを得なかった。
 三番目の集団指導制は元来、FLNに傑出したリーダーが存在しないことを反映していたが、そうした中でも、後に初代大統領となるムハンマド・アフマド・ベン・ベラが台頭してきていた。
 ベン・ベラはFLN結成以前からの地下活動家で、50年に一度逮捕された後、二年後に脱獄、FLN結成後は海外からの武器調達を担った。56年には民間航空機ハイジャック事件を主導し、フランス当局に逮捕された後、独立まで獄中にありながら、FLNのシンボルとなった人物である。
 対するフランス側では、アルジェリア駐留軍司令官ラウル・サラン将軍が掃討作戦を効果的に展開し、FLNを追い詰めており、壊滅は目前に迫っていると思われた。

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比較:影の警察国家(連載第38回)

2021-05-02 | 〆比較:影の警察国家

Ⅱ イギリス―分散型警察国家

[補説]

 イギリスにおける影の警察国家化を助長する契機として、警察機関の統合や集権化といったハード面の制度改正に加え、新たな法律と新たな警察戦略の導入という言わばソフト面のシフトも存在する。
 中でも、2001年の9.11事件及びイギリスにおける9.11事件に相当する2005年のロンドン連続爆破テロ事件を契機として、大きく基本的人権を制約するテロリズム対策立法が進んだことは、従来の比較的謙抑的だったイギリスの刑事法体系を改変し、警察に強大な権限を付与する契機となった。
 一方、テロリズム対策立法とも間接的に連動する新たな警察戦略の導入として、プロジェクト・サーベーターと呼ばれるものがある。これは、簡単言えば、一般市民を警察の耳や目となる監視役(サーベータ―)として活用することでテロその他の重大犯罪防止を図るという理念であり、ある種の密告奨励策とも言える。


テロリズム対策立法
 イギリスにおけるテロリズム対策立法の本格的な進展は、2001年の9.11事件をきっかけに制定された2001年反テロリズム・犯罪・治安法(Anti-terrorism, Crime and Security Act 2001:以下、01年法という)を端緒とする。
 現在も施行中の01年法は、名称のとおり、テロリズム対策を柱とはするものの、テロに限らず、他の犯罪事案にも適用される拡大治安法である。
 これは全14章に及ぶ長大な法律であるが、最大の眼目は、テロリストの疑いある外国籍の者に対して無期限に拘束できるようにしたこと、警察に対して指紋その他の個人識別情報を強制的に採取する権限を与えたことである。
 この法律は、特に無期限の拘束を認める点で大きな批判を浴びたため、よりテロリズム対策に特化したテロリズム抑止法(Prevention of Terrorism Act 2005:以下、05年法という)が2005年に制定された。
 05年法の眼目は、テロリズムに関与した疑いのある者全般に、内務大臣が物品の所持や通信、居住・移動などに包括的な権利制限を課す統制命令(control order)の制度が創設されたことである。
 この05年法制定直後の05年7月にロンドン連続爆破事件が起きると、当時のブレア労働党政権は翌年、テロ行為の可罰範囲を大幅に拡大し、テロリズムを讃美することも可罰的とし、テロ容疑者を最大で90日間勾留できるとする新たなテロリズム法(Terrorism Act 2006:以下、06年法という)を用意した。
 これはさすがに国論の強い批判を受け、下院で否決となり、改めて修正法案が提出され、可決・成立することとなったが、修正法は現時点でも施行中である。
 他方、成立したものの批判が根強かった05法は保守党への政権交代後、2011年に廃止され、テロリズム抑止及び捜査手段法(Terrorism Prevention and Investigation Measures Act 2011:以下、11年法という)に置換された。
 この11年は05年法の統制命令の制度を廃止し、新たに法律の略称TPIMを取って、TPIM通知と呼ばれる制度により、より限定的にテロ容疑者に権利制限を課す形に改められた。
 かくして、現在のイギリスにおけるテロ対策法は01年法+06年法+11年法を軸としているが、これらの大半が従来、「法と秩序」に基づく強力な治安政策を掲げてきた保守党ではなく、比較的リベラルだった労働党政権下で制定されたことは、イギリスにおける影の警察国家化を象徴している。

プロジェクト・サーベーター
 プロジェクト・サーベーター(Project Servator)とは、近時、イギリスの地方警察や特別警察で、一般市民を警察に対する積極的な通報者として、末端で活用する新たな警察理念及びそれに基づく戦略である。
 サーベータ―とはおそらく新語で、モニターほど専門性のある監視員ではなく、インフォーマントほど確実な情報源となる下請けの協力者でもない、積極的な奨励に基づく監視役を意味する。
 先駆者となったロンドン市警察によると、その目的は犯罪やテロ活動を抑止し、探索するとともに、一般大衆を安心させることにあるといい、日本の漠然とした「安全・安心」スローガンにも一脈通ずるところがある。
 現時点では、法律に基づく活動ではないうえに、2014年に初めて導入したロンドン市警察を嚆矢として、首都警察、スコットランド警察その他一部の地方警察と鉄道警察、国防省警察、民間原子力保安隊など一部特別警察機関により施行されている社会実験段階にあるようである。
 プロジェクト・サーベータ―は相互監視による密告を奨励する秘密警察活動ではなく、警察が公然と活動する中で、不審者情報の通報を積極的に奨励するというもので、公然警察活動の一環ではあるが、結果的に市民をある種の密告者にする点で、全国に広がれば、影の警察国家を助長する実践となるだろう。

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比較:影の警察国家(連載第37回)

2021-05-01 | 〆比較:影の警察国家

Ⅱ イギリス―分散型警察国家

3:部分社会警察の補完性

 アメリカと同様、イギリスにおいても、自律性を持つ部分社会が独自に私設の警察組織を擁する伝統が存在するが、イギリスの部分社会警察はアメリカほどには発達していない。伝統的には、港湾企業が保有する港湾警備を目的とした港湾警察(Port Police)が代表的なものである。
 ただし、ほとんどの港湾警察の管轄範囲は港湾施設から1マイル以内に限局されるとともに、2013年の法改正により、イングランドとウェールズの地方警察の長にも港湾に対する管轄権が付与されたため、この両地域では私設港湾警察と公的な地方警察の共管が進んでいる。
 ちなみに、ロンドンの経済的な基軸ともなってきたロンドン港にもロンドン港湾警察が存在したが、1992年の制度改正で廃止となり、その大部分の権限は首都警察をはじめとする地方警察に移管され、小規模なティルブリー港湾警察に縮小されるなど、統廃合もなされている。
 一方、アメリカにおいては広く普及している大学警察に関しては、イギリスでは長くオックスフォード大学とケンブリッジ大学の両名門にのみ特権として警察の保有が認められてきたが、オックスフォード大学警察は2003年をもって廃止となり(テムズヴァリー警察に移管)、ケンブリッジ大学だけが警察を保持している。
 なお、以前に見た鉄道警察はアメリカのそれのように鉄道会社自身が直営しているわけではないが、財政的には鉄道会社が拠出しているため、経済的な面から見れば、これも部分社会警察の一種と言える。同様に、民間原子力施設の警護に特化された民間原子力保安隊も、財政は核関連企業の共同出資によるため、経済的な面からの部分社会警察と言える。
 総じて、イギリスの部分社会警察は地方警察に統廃合されるか、鉄道警察や民間原子力保安隊のように、公設民営組織として再編されるか、いずれにせよ、公的な警察機関を補完する存在として限定的な役割を果たしていると言え、影の警察国家化現象の中ではやや影が薄い。

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