国境を越える舟だけはさすがに検査があるからと、リベラからミュルディアへ入るときだけ陸路を使ったが、あとは川を下っての旅は、今までの苦労が嘘のように楽に、たった4日で国名と同じ名の首都ミュルディアに到着した。ダーラン川の本流と支流が合流する地にあるミュルディアは、三国の交易の中心となる商業都市で、網の目のように運河が張り巡らされた、水の都でもある。内陸の都市の中では最も大きく、繁栄した町で、ここに比べればクィでさえはなはだ見劣りするのも当然だった。なにしろ、この世界へ来て初めてエドは、四階建ての建物を見たのだった。
街の大きな本屋で、テスは宿賃三日分もする地図を買った。本自体、日用品と比べると高価だったが、地図はそれ以上だった。
「これから先が長いぞ」
宿に入り、休む間もなくテスは床に地図を広げてルート作りに取りかかった。地図にはミュルディア、ダーラン南部、ローディアの国境付近までが書かれている。
「おれたちが目指すのはローディアの北部、だいたいこの辺り(とテスは地図からはみ出した床の上を指差した)だ。そうなると、まずミュルディアから北へ向かってダーランに入り、サイス山脈の終わるところでローディアとの国境を越えるのが最短の陸路だ。ただしサイスの裾野をかすめるこの道は、ダーランの都とローディアの首都サーランを結ぶ重要な街道だから、国境に検問がある。そこで途中で街道を離れ、更に北から越境する」
言葉にすると簡単だが、ちゃんとした地図で道のりをたどってみると、その距離に気が遠くなりそうだった。越境地点まで直線距離でざっと1,000フォル。ヴォガからミュルディアまでの1.5倍だが、半分の行程を舟で移動できたこれまでと比べ、すべて陸路となる。単純に1日30フォル歩くとして、30日以上かかる。
1か月、と考えてエドは思った。こちらに来て半月以上が経った。元の世界では、どれくらいの時間が流れたのだろう。同じだけ?それとも数時間、それとも何年……?
エドは、頬を引きしめて不安を振り払った。今考えても仕方ないことだ。
「お前、ラテルには乗れるか?」
ラテルというのは馬のことだ。といってもエドが知っているサラブレッドとは違う。もっと背が低く、足は太く、体全体にふさふさと毛が生えている。
エドは首を振った。
「乗れなくても乗ってもらうぞ。これまでは町や村の間は近かったが、ミュルディアを離れるに従って、町と町の間が開いていく。徒歩では夜までに次の村までたどり着けなくなる。特にローディアは、北部にはほとんど町や村と言えるほどの集落はない。野宿は避けられないだろう。携帯する食料や水も多くなる。ラテルなしでは無理だ」
顎に指をあてて考えをめぐらし、テスは、
「町なかで馬を連れていると金がかかる。ダーランに入ってから1頭買って、ローディアに入ったらもう1頭買おう。それまでは一緒に乗って教えてやる。…よかったな、おれがこどもで。でなければ二人乗りなどできないからな」
そう言って目を上げて、いたずらっぽくエドに笑いかけた。そんな生意気な言葉も表情も、エドの胸をひどく騒がせることを、テスは知らないだろうが、エド自身は自覚し始めていた。
(……こどもなんかじゃないよ、君は……)
少なくとも俺にとって、とエドに柔らかい表情を見せることが多くなったテスに向かい、彼はひとりごちた。この旅が──テスとふたりきりで過ごす日々が、早く終わればいいと思う。一緒にいたいと思うからこそ、早く別れなければいけないと思うのだ。
帰れるのだろうか、帰れたとしても自分の知っている、自分がいるべき世界であってくれるのだろうかという不安や焦りとは裏腹に、このまま旅が続けばいい、いっそ帰ることはできないとはっきりわかれば……と思い始めている心の変化に、気づかずにはいられなかった。その理由がただ一つ──ただ一人の人の存在であることにも。
小学生だか中学生だかの少年に、身も心も惹かれているなんて、自分でもどうかしていると思うが、一度傾いた心はもう止められない。自分を助けてくれたから、彼以外に頼る人がいないから、だから好意を恋だと錯覚しているだけだと、自分を納得させようとした。だが、そう考えると、先に眠ってしまったテスの無防備な寝姿に反応した欲望を処理したときの罪悪感は耐え難かった。これが恋でないとしたら、自分は最低の男だ。
「……元気がないな、エド」
近くの食堂で注文し終わると、テスはテーブルの上に身を乗り出し、小声で切り出した。
「……そうかな」
エドが笑って見せると、テスは眉をひそめた。
「……無理をするな。お前が…不安に思うのは当然だ。おれはこんなで、お前を安心させてやれるようなものは何も持っていないし、約束できることも何もない。だが、少なくとも一族のところへは必ず連れて行って引き会わせてやる。手がかりを得られるかどうかはわからないが、助けが得られるように……お前だけでも受け入れてもらえるよう、手は尽くすから、それだけは信じてくれ」
「テス……俺は」
そんなことは思っていない、君が責任を感じることじゃない、とエドが答える前に、テスの意識と視線が逸れた。テスの横顔が、見る見るうちに血の気を失っていく。
「……じゃあ、ローディアは近いうちに代替わりってことか?」
「たぶんな。あのローディア王が摂政を置くなんて、病が重いに違いないってもっぱらの噂だぜ」
隣りのテーブルで話す男たちを、テスは凍りついたように凝視していた。
「……テス?」
エドの呼びかけは、彼の耳には全く入らなかったようだった。彼はグラスを引っ掴んで水を一気に飲み干すと、椅子を降りた。
「ねえ、おじさん。おれにもその話教えてくれない?」
「ああ?」
隣りのテーブルの横に立ち、首を傾げた可愛らしい仕種で話しかける。
「ローディアの王さまの話。おれの父さんがローディアに商売に行ってるんだけど、何かあったの?」
「心配ねえよ。ローディアの王様が病気で、第二王子が摂政に就いただけのことだ。まあそのうち、王様が亡くなってその王子が次の王様になるだろうが、あそこは体制がしっかりしているから内乱だのごたごたは起こらないだろうよ」
アルコールが入った赤ら顔で、男は機嫌よく答えた。
「待てよ。第一王子じゃなくて第二王子が跡を継ぐっていうなら、第一王子が黙っちゃいないだろう」
「ばーか、第一王子は妾腹の上、病気でいなかに引っ込んだきりここ数年、宮廷にも出てこないらしいぜ。とても王位を継げねえよ」
男たちがわいわい話し出すのにテスは強引に割り込んだ。
「王さまの病気はいつから?本当に重いの?」
「そこまでは知らねえよ。オレだってローディア帰りの商人に聞いただけだからな」
男はもう終わりだとばかりに手を振った。
席に戻ったテスの顔は強張り、声をかけるのもためらわれる雰囲気で、運ばれてきた料理を口にする間も、宿に戻る道すがらも、彼らは終始無言だった。
部屋に戻ってもテスは言葉少なで、交替で風呂に入ってあとは寝るだけになっても、ベッドの上で片膝をかかえて考え込んでいた。考える、というよりも、悩み苦しんでいた。それでエドもベッドには入ったが眠らずに、テスが心を決めるのを待っていた。
「エド……」
「ああ」
エドは起き上がり、足を床に下ろした。
「頼みがある」
「うん」
テスはゆっくりと顔を上げ、エドと向かい合った。決意を固めた、強いまなざしで。
「用ができた。予定を変更して、ローディアの都、サーランを経由して行く。…もしおれの用に時間がかかるようなら、誰か他の者に案内させて、お前が先に行けるようにする。何日か遅れることになるが、許してほしい」
「うん……かまわないよ、テス」
「……サイス山脈を越えてローディアに入る。迂回する時間がない。…野盗が出没する危険な道だ。お前まで危険にさらして、すまない」
「そんなこと。むしろ、俺の方こそ足手まといになるのなら、置いていってくれてかまわないんだ。だけど君が許してくれるなら、一緒にサーランまで行きたいと思うよ」
それを聞くと、テスは一瞬目を瞠って、泣き出しそうなのをこらえるように唇を噛んだ。
「……おれも、お前とともに一族の村まで行きたいと思っている……」
「俺もだよ、テス。ありがとう」
テスはうつむいた。
「……理由を訊かないのか。…サーランへ行く──」
「…君は、ローディアの人なんだろう?」
「そうだ……」
「それだけわかれば十分だよ。あとは……君が言いたくなったら言えばいい。君を困らせたくはないんだ」
「……おれは……っ!」
弾かれたように顔を上げたテスは、けれども言葉を続けることはできなかった。彼はエドを見つめ、唇を震わせた。言うことも、言わないことも彼を苦しめるのだとエドは知り、迷った。いっそ教えてほしいと、強く、無理にでも言わせた方が彼にとっては楽なのではないか。
「……テス」
「すまない……」
テスは唇をかみしめ、エドに背を向けた。
「もう寝ろ。おやすみ」
機を失って、エドは、ベッドの中にもぐり込んでしまったテスの背を、苦い思いで見つめるしかなかった。もしかしたら、サーランが、テスとの旅の終わりになるかもしれないと思いながら。
街の大きな本屋で、テスは宿賃三日分もする地図を買った。本自体、日用品と比べると高価だったが、地図はそれ以上だった。
「これから先が長いぞ」
宿に入り、休む間もなくテスは床に地図を広げてルート作りに取りかかった。地図にはミュルディア、ダーラン南部、ローディアの国境付近までが書かれている。
「おれたちが目指すのはローディアの北部、だいたいこの辺り(とテスは地図からはみ出した床の上を指差した)だ。そうなると、まずミュルディアから北へ向かってダーランに入り、サイス山脈の終わるところでローディアとの国境を越えるのが最短の陸路だ。ただしサイスの裾野をかすめるこの道は、ダーランの都とローディアの首都サーランを結ぶ重要な街道だから、国境に検問がある。そこで途中で街道を離れ、更に北から越境する」
言葉にすると簡単だが、ちゃんとした地図で道のりをたどってみると、その距離に気が遠くなりそうだった。越境地点まで直線距離でざっと1,000フォル。ヴォガからミュルディアまでの1.5倍だが、半分の行程を舟で移動できたこれまでと比べ、すべて陸路となる。単純に1日30フォル歩くとして、30日以上かかる。
1か月、と考えてエドは思った。こちらに来て半月以上が経った。元の世界では、どれくらいの時間が流れたのだろう。同じだけ?それとも数時間、それとも何年……?
エドは、頬を引きしめて不安を振り払った。今考えても仕方ないことだ。
「お前、ラテルには乗れるか?」
ラテルというのは馬のことだ。といってもエドが知っているサラブレッドとは違う。もっと背が低く、足は太く、体全体にふさふさと毛が生えている。
エドは首を振った。
「乗れなくても乗ってもらうぞ。これまでは町や村の間は近かったが、ミュルディアを離れるに従って、町と町の間が開いていく。徒歩では夜までに次の村までたどり着けなくなる。特にローディアは、北部にはほとんど町や村と言えるほどの集落はない。野宿は避けられないだろう。携帯する食料や水も多くなる。ラテルなしでは無理だ」
顎に指をあてて考えをめぐらし、テスは、
「町なかで馬を連れていると金がかかる。ダーランに入ってから1頭買って、ローディアに入ったらもう1頭買おう。それまでは一緒に乗って教えてやる。…よかったな、おれがこどもで。でなければ二人乗りなどできないからな」
そう言って目を上げて、いたずらっぽくエドに笑いかけた。そんな生意気な言葉も表情も、エドの胸をひどく騒がせることを、テスは知らないだろうが、エド自身は自覚し始めていた。
(……こどもなんかじゃないよ、君は……)
少なくとも俺にとって、とエドに柔らかい表情を見せることが多くなったテスに向かい、彼はひとりごちた。この旅が──テスとふたりきりで過ごす日々が、早く終わればいいと思う。一緒にいたいと思うからこそ、早く別れなければいけないと思うのだ。
帰れるのだろうか、帰れたとしても自分の知っている、自分がいるべき世界であってくれるのだろうかという不安や焦りとは裏腹に、このまま旅が続けばいい、いっそ帰ることはできないとはっきりわかれば……と思い始めている心の変化に、気づかずにはいられなかった。その理由がただ一つ──ただ一人の人の存在であることにも。
小学生だか中学生だかの少年に、身も心も惹かれているなんて、自分でもどうかしていると思うが、一度傾いた心はもう止められない。自分を助けてくれたから、彼以外に頼る人がいないから、だから好意を恋だと錯覚しているだけだと、自分を納得させようとした。だが、そう考えると、先に眠ってしまったテスの無防備な寝姿に反応した欲望を処理したときの罪悪感は耐え難かった。これが恋でないとしたら、自分は最低の男だ。
「……元気がないな、エド」
近くの食堂で注文し終わると、テスはテーブルの上に身を乗り出し、小声で切り出した。
「……そうかな」
エドが笑って見せると、テスは眉をひそめた。
「……無理をするな。お前が…不安に思うのは当然だ。おれはこんなで、お前を安心させてやれるようなものは何も持っていないし、約束できることも何もない。だが、少なくとも一族のところへは必ず連れて行って引き会わせてやる。手がかりを得られるかどうかはわからないが、助けが得られるように……お前だけでも受け入れてもらえるよう、手は尽くすから、それだけは信じてくれ」
「テス……俺は」
そんなことは思っていない、君が責任を感じることじゃない、とエドが答える前に、テスの意識と視線が逸れた。テスの横顔が、見る見るうちに血の気を失っていく。
「……じゃあ、ローディアは近いうちに代替わりってことか?」
「たぶんな。あのローディア王が摂政を置くなんて、病が重いに違いないってもっぱらの噂だぜ」
隣りのテーブルで話す男たちを、テスは凍りついたように凝視していた。
「……テス?」
エドの呼びかけは、彼の耳には全く入らなかったようだった。彼はグラスを引っ掴んで水を一気に飲み干すと、椅子を降りた。
「ねえ、おじさん。おれにもその話教えてくれない?」
「ああ?」
隣りのテーブルの横に立ち、首を傾げた可愛らしい仕種で話しかける。
「ローディアの王さまの話。おれの父さんがローディアに商売に行ってるんだけど、何かあったの?」
「心配ねえよ。ローディアの王様が病気で、第二王子が摂政に就いただけのことだ。まあそのうち、王様が亡くなってその王子が次の王様になるだろうが、あそこは体制がしっかりしているから内乱だのごたごたは起こらないだろうよ」
アルコールが入った赤ら顔で、男は機嫌よく答えた。
「待てよ。第一王子じゃなくて第二王子が跡を継ぐっていうなら、第一王子が黙っちゃいないだろう」
「ばーか、第一王子は妾腹の上、病気でいなかに引っ込んだきりここ数年、宮廷にも出てこないらしいぜ。とても王位を継げねえよ」
男たちがわいわい話し出すのにテスは強引に割り込んだ。
「王さまの病気はいつから?本当に重いの?」
「そこまでは知らねえよ。オレだってローディア帰りの商人に聞いただけだからな」
男はもう終わりだとばかりに手を振った。
席に戻ったテスの顔は強張り、声をかけるのもためらわれる雰囲気で、運ばれてきた料理を口にする間も、宿に戻る道すがらも、彼らは終始無言だった。
部屋に戻ってもテスは言葉少なで、交替で風呂に入ってあとは寝るだけになっても、ベッドの上で片膝をかかえて考え込んでいた。考える、というよりも、悩み苦しんでいた。それでエドもベッドには入ったが眠らずに、テスが心を決めるのを待っていた。
「エド……」
「ああ」
エドは起き上がり、足を床に下ろした。
「頼みがある」
「うん」
テスはゆっくりと顔を上げ、エドと向かい合った。決意を固めた、強いまなざしで。
「用ができた。予定を変更して、ローディアの都、サーランを経由して行く。…もしおれの用に時間がかかるようなら、誰か他の者に案内させて、お前が先に行けるようにする。何日か遅れることになるが、許してほしい」
「うん……かまわないよ、テス」
「……サイス山脈を越えてローディアに入る。迂回する時間がない。…野盗が出没する危険な道だ。お前まで危険にさらして、すまない」
「そんなこと。むしろ、俺の方こそ足手まといになるのなら、置いていってくれてかまわないんだ。だけど君が許してくれるなら、一緒にサーランまで行きたいと思うよ」
それを聞くと、テスは一瞬目を瞠って、泣き出しそうなのをこらえるように唇を噛んだ。
「……おれも、お前とともに一族の村まで行きたいと思っている……」
「俺もだよ、テス。ありがとう」
テスはうつむいた。
「……理由を訊かないのか。…サーランへ行く──」
「…君は、ローディアの人なんだろう?」
「そうだ……」
「それだけわかれば十分だよ。あとは……君が言いたくなったら言えばいい。君を困らせたくはないんだ」
「……おれは……っ!」
弾かれたように顔を上げたテスは、けれども言葉を続けることはできなかった。彼はエドを見つめ、唇を震わせた。言うことも、言わないことも彼を苦しめるのだとエドは知り、迷った。いっそ教えてほしいと、強く、無理にでも言わせた方が彼にとっては楽なのではないか。
「……テス」
「すまない……」
テスは唇をかみしめ、エドに背を向けた。
「もう寝ろ。おやすみ」
機を失って、エドは、ベッドの中にもぐり込んでしまったテスの背を、苦い思いで見つめるしかなかった。もしかしたら、サーランが、テスとの旅の終わりになるかもしれないと思いながら。