旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

キルケニーをガイドさんと歩く

2019-08-21 10:02:50 | アイルランド

バトラー家というと「風と共に去りぬ」を思い出す方も多いだろう。

かの小説の主人公たちの父祖はアイルランドからの移民でルーツはこちらにある。キルケニーの立派な城はそのバトラー家が何百年にもわたりつくりあげてきたもの↓

イングランドに支配されたカトリック系アイルランド人には二つの選択肢があった。

イングランドの求めに応じて英国国教会に改宗し支配階級側に立つか、歯を食いしばってカトリック信仰を守り迫害される側に居続けるか。

バトラー家は前者となり地位と富を得た。ケルト系のアイルランド人ではなく13世紀に入ってきたノルマン系のアイルランド人だったので容易に適応できたのかもしれない。市民革命、続くクロムウェルの動乱の時期には財産を没収されてフランスにのがれていた時期もあったが、18世紀はじめにはまたキルケニーの支配者としてもどってきた。キルケニーはバトラー家がチャールズ二世の復位に貢献した功績によって「市」として認められることになり、さらに繁栄していった。

現在見る城は13世紀からあったとされるドンジョン(※上写真いちばん左の巨大な円筒部分・いかにも戦闘用という雰囲気がある)にはじまり、居住用の邸宅が増築されていっている。ドンジョンには後の時代に開けられた窓もたくさん見られる。

↓近くで見ると二つの建築の時代差は明らか↓

 

広い芝生の前庭にはバトラー家の当主が十七世紀にフランスから呼んだ庭師が設置した噴水がある↓

↓城が市に寄贈された後の1970年代にかつての姿をとりもどしたと解説されていた↓

↓新しい紋章が門に掲げられていた↓これは城の敷地に隣接してある16世紀創設のキルケニー・カレッジのもの。

↑複合紋章の場合左上に入る紋章がいちばん格上なのだが、そこにある黄色(紋章学では黄色は金色の代わり)と水を表す青(多分キルケニーを流れるノア川をあらわす)の紋章がバトラー家のもの。バトラーをはじめて名乗ったとされるのは12世紀のテオバルド・ウォルター。フランスにルーツを持つプランタジネット家のヘンリー二世がイギリスに入ってきた折にその協力者であった。アングロ・ノルマンの一族だったからというわけでもないだろうが、モットーがフランス語で「COMME JE TROUVE」(as I find=我が見つけたように)と掲げられている。

★第六代オルモンド子爵アーサー・バトラーは1967年の夏にこの城を十五エーカーの土地付きでキルケニー市修復委員会に寄贈した

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今朝の我々は、お城すぐ近くの宿泊したホテルから歩き出した。ガイドさんと共にキルケニーの旧市街を見学する午前中。

城からゆるい坂道を百メートル程くだっていくと↓ハイストリートに張り出した市庁舎↓

市の紋章が刻まれていて↓そこに射手が見張るさっきほどの城らしい建物が描かれている

↑城の中に描かれた人物が松明を持っていることにも意味がある。中世の夜は真っ暗だったが、そこで松明を灯すことが出来るのは権力者の証で、人々の安全を守るという象徴にもなっていた。

→キルケニーの旗は黒と黄色(金色)

ハイストリートからの横道がこんなふうにたくさんあって↓それぞれ川に近い下の道に通じている

↓「バター通り」はそこでバターが売られていたから。商われていた物の名前がつけられている小道が多い。

↓これはいわば「市場小路」

★ツーリストインフォメーションは町に残るいちばん古い建物なのだとガイドさん↓

1581年にリチャード・シーという人物の遺言で貧民の為に建てられた家。

富める者が死の直前にこういった「善行」をするのは、自分が「天国への許可証」を得るためという意味が大きかった。

息子のルカス・シーは1609年に施設を町に寄贈。三百年にわたり当初の目的に使われていたが19世紀はじめに放棄されて廃墟になっていた。

1871年、ニコラス・パワー・O'SHEEという子孫が修復して現在のかたちになった↓

↓こんなゴミ箱を発見

上部がソーラー発電できるようになっていて、これでごみをゆっくり処理(どうやるのかは不明)するのだそうです。へぇ~

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13世紀ごろまでキルケニーを囲っていた城壁の外側へ出ると↓そこに「アイリッシュ・タウン」という通りがあった↓

アイルランドなのに、なぜことさらに「アイリッシュ・タウン」と呼ばれる場所があるのだろう?

「ノルマン人たちがやってきた時(13世紀)もとからいたケルト系のアイルランド人たちは街の中心から追われて城壁の外側に固まって住むことになったんだよ」とガイドさん。

ううむ、元祖アイルランド人たちはイングランド人だけでなくいろいろな民族に支配されてきていたのですね。

****

城からの下り坂が終わり、教会へ登る階段のところにやってきた。キルケニーの街をめぐる観光プチトレインがはしってきた↓

↓緑色の家は前出の「アイリッシュ・タウン」と通りの名前が書かれていた家。つまり、城壁の外側だった場所。

↓ここで、ケニス教会の横に掲げてあった1120年ごろの復元画を思い出した↓

↓画面右側に流れているのがノア側↓手前に流れている小さい川がこの通りに変っているのだ↓

↑画面下の切れている外には、先ほど見たキルケニー城の中世の姿=砦があったにちがいない。

↓交差点で川の方向を見ると壊れた教会が見えた↓地図で確認すると、これはフランチェスコ教会・修道院の跡にちがいない。

↓歴史資料を見るとキルケニーにフランチェスコ会の修道院が建設されたのは1250年。この修道院でつくられていたビールが現在のキルケニー地ビールのスミディックに引き継がれていったようだ↓

※フランチェスコ会のライバルだったドメニコ会は1225年に進出して同じように修道院を建設しており、その建物はまだ残っていた。

ケニス教会のある丘に登る手前に↓こんな石像が↓

「あれ、こんなところに移ったんだ」とガイドさん↓以前はハイストリートに立てられていたそうだ↓

教会への階段↓10世紀からあるとも言われるラウンド・タワーが見える。

アイルランドではよく見られるラウンド・タワーだが、登ることができるのはこれを含めて二本だけなのだそうだ。ぜひ、登ってみたい↓楽しみです(^.^)

途中の壁に埋め込まれていた、もとはどこから持ってきたのか分からないロマネスク風の石彫↓

↓アイルランド屈指の中世の大聖堂と↓高さ三十メートルの塔がそびえている


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