《手造の旅》フランス9日、夜8時半の帰国便に乗る日。午後1時のホテル出発まで自由行動。
旅の二日目にモネの庭=ジベルニーを訪問していたので、ご希望の方を「睡蓮の部屋」のあるオランジェリー美術館へご案内。
*
きのうのタクシーストライキの影響か、道は混雑していたが一時間ほどでマルメゾン荘に到着。
入口までこんな道が導いてくれる
皇帝になる以前のナポレオンが、ジョセフィーヌと共に暮らす家を探していた。
「ちょっと予算オーバーだから別のをさがそう」と言い置いて戦場へ旅立ったナポレオンだったが、ジョセフィーヌはここが気に入って手付金を払い、残りの請求書を戦場の夫におくらせ、事後承諾になったそうな。ジョセフィーヌの性格が出ている逸話である。
コの字型をした、いたってシンプルな屋敷。ナポレオンの生涯でもいちばん良い思い出が詰まった場所だったのではないだろうか。張り出した翼と入口のベランダはジョセフィーヌの所有になってから付け加えられたもの
内部の床デザインが切り替わっているところからが増築部分
ジョセフィーヌは1814年に亡くなるまでここで暮らし、その後は前夫との娘オルタンスが使っていた。
ナポレオンは義理の娘をとても可愛がり、自分の弟と結婚させた。
その間に生まれた子供がナポレオン三世になる。ナポレオン一世にとっては義理の娘の孫であり甥でもある。
この記念皿の二人の少年↓
右側「シャルル・ルイ・ナポレオン」が後のナポレオン三世。
左は二人いた兄のうちのひとり「ナポレオン・ルイ」※二十代で亡。同じような名前でややこしい。
二階、ジョセフィーヌの間と呼ばれる部屋。
中央にジョセフィーヌの全身ポートレート。
左にはナポレオンの妹のひとりポーリーヌ。あ!ローマのボルゲーゼ美術館にあるこのカノーバ作の大理石彫刻
そのモデルです。ナポレオンにいちばん可愛がられ、島流しの苦難の時代にも兄を訪ねている。
右側は娘オルタンス、ナポレオン三世の母
ナポレオンの勉強部屋
読書家でギリシャ・ローマの歴史に強い興味があったことが伺われる。天井の装飾がこれ
一階に、ナポレオンの母レティシアの全身肖像画
コルシカで苦労して育った彼女は息子の立身出世をはらはらしながら見守っていた。
皇帝になることも喜ばず、息子が贈ってくれた高価な品々も使わずに大切にとっておいた。
「いつか、必要になった時にすぐに役立てるように」と。
果たして、その時は1814年にやってきてしまった。
皇帝を退位させられ地中海の小島へ送られる時、母はとっておいたすべての品々を提供した。
ジョセフィーヌが浪費家でいつも借金を夫回しにしていたのとは対照的な義母・レティシア。
それほどは出会わなかっただろうふたりだが、折り合い良くはなかったでしょうね。
ジョセフィーヌはマルメゾンの庭でバラのコレクションをはじめ、分類して画家に図版をつくらせている。
これが現在の「クラシック・ローズ」と呼ばれる種類だそうな。
ナポレオンとの、こういう時間もここでならあったかもしれない。
皇帝になってからのナポレオンと、その配下の将軍たちを画いた円卓
だが、この時代にはナポレオンはあまりこの邸宅には来なくなっていたようだ。
***三階部分で「セントヘレナへのナポレオン(意訳です)」の特別展示をやっていた。
大西洋の孤島へ送られる前に、どのように過ごしたのかがこの地図でわかる。いちばん上がマルメゾン荘。
ここには1815年6月25~29の四泊滞在してるのがわかる。
ジョセフィーヌは前年に死去していたが、マルメゾン荘には義理の娘オルタンスと弟が暮らしていた。
以前読んだ逸話「オルタンスはかつてナポレオンにもらった真珠の首飾りを外して、なにかの足しになるように渡そうとした。その時、首飾りの糸が切れて、真珠の球はばらばらと床にはじけた。」
****もう一か所、サンジェルマン・アンレイという瀟洒な街を訪れる。
ここにはフランソワ一世王(レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招いた王といえば分かりやすい)からの城が残されている
現在は国立の考古学博物館になっているが、往時の雰囲気がよく感じられる
展示物、ちゃんと予習してからまた見学します。
この町の見ものは、なんといっても公園テラスと、そこからのパリの遠望。
それに、ルイ14世が生まれたのがこの城付の建物なのです
*****
時はもどって、この日の朝。バスはシャンゼリゼを通った。正面に見えてきた凱旋門
いちばん目立つところにあるのが「ラ・マルセイエーズ」の彫刻。
作者のフランソワ・リュードの出身地が、今回訪れたディジョンであることをはじめて知った。
リュードは1784年生まれで大のナポレオン崇拝者だったそうだ。
十代の頃にナポレオンが無敵の活躍をしているのを見聞きし、二十歳の時ナポレオンの戴冠。
そりゃナポレオン崇拝したくなる世代でしょうとも。
ナポレオンの死から十二年後、王政復古時代の1833年にやっと完成させることになった凱旋門は、まさにナポレオンの為の最大のモニュメント。
その正面彫刻を依頼されたリュードは大いに喜んだことだろう。
ディジョンにあるリュードの博物館、今回は見られなかったが、次回(いつ?)きっと行ける機会をつくります。
***
16時過ぎにサンジェルマン・アンレイを出て空港へ向かう。
かなり混雑していて二時間かかったが、無事JL46便羽田行に搭乗(^^)/
旅の二日目にモネの庭=ジベルニーを訪問していたので、ご希望の方を「睡蓮の部屋」のあるオランジェリー美術館へご案内。
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きのうのタクシーストライキの影響か、道は混雑していたが一時間ほどでマルメゾン荘に到着。
入口までこんな道が導いてくれる
皇帝になる以前のナポレオンが、ジョセフィーヌと共に暮らす家を探していた。
「ちょっと予算オーバーだから別のをさがそう」と言い置いて戦場へ旅立ったナポレオンだったが、ジョセフィーヌはここが気に入って手付金を払い、残りの請求書を戦場の夫におくらせ、事後承諾になったそうな。ジョセフィーヌの性格が出ている逸話である。
コの字型をした、いたってシンプルな屋敷。ナポレオンの生涯でもいちばん良い思い出が詰まった場所だったのではないだろうか。張り出した翼と入口のベランダはジョセフィーヌの所有になってから付け加えられたもの
内部の床デザインが切り替わっているところからが増築部分
ジョセフィーヌは1814年に亡くなるまでここで暮らし、その後は前夫との娘オルタンスが使っていた。
ナポレオンは義理の娘をとても可愛がり、自分の弟と結婚させた。
その間に生まれた子供がナポレオン三世になる。ナポレオン一世にとっては義理の娘の孫であり甥でもある。
この記念皿の二人の少年↓
右側「シャルル・ルイ・ナポレオン」が後のナポレオン三世。
左は二人いた兄のうちのひとり「ナポレオン・ルイ」※二十代で亡。同じような名前でややこしい。
二階、ジョセフィーヌの間と呼ばれる部屋。
中央にジョセフィーヌの全身ポートレート。
左にはナポレオンの妹のひとりポーリーヌ。あ!ローマのボルゲーゼ美術館にあるこのカノーバ作の大理石彫刻
そのモデルです。ナポレオンにいちばん可愛がられ、島流しの苦難の時代にも兄を訪ねている。
右側は娘オルタンス、ナポレオン三世の母
ナポレオンの勉強部屋
読書家でギリシャ・ローマの歴史に強い興味があったことが伺われる。天井の装飾がこれ
一階に、ナポレオンの母レティシアの全身肖像画
コルシカで苦労して育った彼女は息子の立身出世をはらはらしながら見守っていた。
皇帝になることも喜ばず、息子が贈ってくれた高価な品々も使わずに大切にとっておいた。
「いつか、必要になった時にすぐに役立てるように」と。
果たして、その時は1814年にやってきてしまった。
皇帝を退位させられ地中海の小島へ送られる時、母はとっておいたすべての品々を提供した。
ジョセフィーヌが浪費家でいつも借金を夫回しにしていたのとは対照的な義母・レティシア。
それほどは出会わなかっただろうふたりだが、折り合い良くはなかったでしょうね。
ジョセフィーヌはマルメゾンの庭でバラのコレクションをはじめ、分類して画家に図版をつくらせている。
これが現在の「クラシック・ローズ」と呼ばれる種類だそうな。
ナポレオンとの、こういう時間もここでならあったかもしれない。
皇帝になってからのナポレオンと、その配下の将軍たちを画いた円卓
だが、この時代にはナポレオンはあまりこの邸宅には来なくなっていたようだ。
***三階部分で「セントヘレナへのナポレオン(意訳です)」の特別展示をやっていた。
大西洋の孤島へ送られる前に、どのように過ごしたのかがこの地図でわかる。いちばん上がマルメゾン荘。
ここには1815年6月25~29の四泊滞在してるのがわかる。
ジョセフィーヌは前年に死去していたが、マルメゾン荘には義理の娘オルタンスと弟が暮らしていた。
以前読んだ逸話「オルタンスはかつてナポレオンにもらった真珠の首飾りを外して、なにかの足しになるように渡そうとした。その時、首飾りの糸が切れて、真珠の球はばらばらと床にはじけた。」
****もう一か所、サンジェルマン・アンレイという瀟洒な街を訪れる。
ここにはフランソワ一世王(レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招いた王といえば分かりやすい)からの城が残されている
現在は国立の考古学博物館になっているが、往時の雰囲気がよく感じられる
展示物、ちゃんと予習してからまた見学します。
この町の見ものは、なんといっても公園テラスと、そこからのパリの遠望。
それに、ルイ14世が生まれたのがこの城付の建物なのです
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時はもどって、この日の朝。バスはシャンゼリゼを通った。正面に見えてきた凱旋門
いちばん目立つところにあるのが「ラ・マルセイエーズ」の彫刻。
作者のフランソワ・リュードの出身地が、今回訪れたディジョンであることをはじめて知った。
リュードは1784年生まれで大のナポレオン崇拝者だったそうだ。
十代の頃にナポレオンが無敵の活躍をしているのを見聞きし、二十歳の時ナポレオンの戴冠。
そりゃナポレオン崇拝したくなる世代でしょうとも。
ナポレオンの死から十二年後、王政復古時代の1833年にやっと完成させることになった凱旋門は、まさにナポレオンの為の最大のモニュメント。
その正面彫刻を依頼されたリュードは大いに喜んだことだろう。
ディジョンにあるリュードの博物館、今回は見られなかったが、次回(いつ?)きっと行ける機会をつくります。
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16時過ぎにサンジェルマン・アンレイを出て空港へ向かう。
かなり混雑していて二時間かかったが、無事JL46便羽田行に搭乗(^^)/