旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

午後、ジョセフィーヌのマルメゾン荘から空港へ

2015-06-26 10:21:34 | フランス
《手造の旅》フランス9日、夜8時半の帰国便に乗る日。午後1時のホテル出発まで自由行動。
旅の二日目にモネの庭=ジベルニーを訪問していたので、ご希望の方を「睡蓮の部屋」のあるオランジェリー美術館へご案内。

きのうのタクシーストライキの影響か、道は混雑していたが一時間ほどでマルメゾン荘に到着。
入口までこんな道が導いてくれる
皇帝になる以前のナポレオンが、ジョセフィーヌと共に暮らす家を探していた。
「ちょっと予算オーバーだから別のをさがそう」と言い置いて戦場へ旅立ったナポレオンだったが、ジョセフィーヌはここが気に入って手付金を払い、残りの請求書を戦場の夫におくらせ、事後承諾になったそうな。ジョセフィーヌの性格が出ている逸話である。

コの字型をした、いたってシンプルな屋敷。ナポレオンの生涯でもいちばん良い思い出が詰まった場所だったのではないだろうか。張り出した翼と入口のベランダはジョセフィーヌの所有になってから付け加えられたもの

内部の床デザインが切り替わっているところからが増築部分

ジョセフィーヌは1814年に亡くなるまでここで暮らし、その後は前夫との娘オルタンスが使っていた。
ナポレオンは義理の娘をとても可愛がり、自分の弟と結婚させた。
その間に生まれた子供がナポレオン三世になる。ナポレオン一世にとっては義理の娘の孫であり甥でもある。
この記念皿の二人の少年↓

右側「シャルル・ルイ・ナポレオン」が後のナポレオン三世。
左は二人いた兄のうちのひとり「ナポレオン・ルイ」※二十代で亡。同じような名前でややこしい。

二階、ジョセフィーヌの間と呼ばれる部屋。

中央にジョセフィーヌの全身ポートレート。
左にはナポレオンの妹のひとりポーリーヌ。あ!ローマのボルゲーゼ美術館にあるこのカノーバ作の大理石彫刻

そのモデルです。ナポレオンにいちばん可愛がられ、島流しの苦難の時代にも兄を訪ねている。

右側は娘オルタンス、ナポレオン三世の母


ナポレオンの勉強部屋

読書家でギリシャ・ローマの歴史に強い興味があったことが伺われる。天井の装飾がこれ


一階に、ナポレオンの母レティシアの全身肖像画

コルシカで苦労して育った彼女は息子の立身出世をはらはらしながら見守っていた。
皇帝になることも喜ばず、息子が贈ってくれた高価な品々も使わずに大切にとっておいた。
「いつか、必要になった時にすぐに役立てるように」と。
果たして、その時は1814年にやってきてしまった。
皇帝を退位させられ地中海の小島へ送られる時、母はとっておいたすべての品々を提供した。

ジョセフィーヌが浪費家でいつも借金を夫回しにしていたのとは対照的な義母・レティシア。
それほどは出会わなかっただろうふたりだが、折り合い良くはなかったでしょうね。


ジョセフィーヌはマルメゾンの庭でバラのコレクションをはじめ、分類して画家に図版をつくらせている。
これが現在の「クラシック・ローズ」と呼ばれる種類だそうな。
ナポレオンとの、こういう時間もここでならあったかもしれない。


皇帝になってからのナポレオンと、その配下の将軍たちを画いた円卓

だが、この時代にはナポレオンはあまりこの邸宅には来なくなっていたようだ。

***三階部分で「セントヘレナへのナポレオン(意訳です)」の特別展示をやっていた。
大西洋の孤島へ送られる前に、どのように過ごしたのかがこの地図でわかる。いちばん上がマルメゾン荘。

ここには1815年6月25~29の四泊滞在してるのがわかる。
ジョセフィーヌは前年に死去していたが、マルメゾン荘には義理の娘オルタンスと弟が暮らしていた。
以前読んだ逸話「オルタンスはかつてナポレオンにもらった真珠の首飾りを外して、なにかの足しになるように渡そうとした。その時、首飾りの糸が切れて、真珠の球はばらばらと床にはじけた。」


****もう一か所、サンジェルマン・アンレイという瀟洒な街を訪れる。
ここにはフランソワ一世王(レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招いた王といえば分かりやすい)からの城が残されている

現在は国立の考古学博物館になっているが、往時の雰囲気がよく感じられる

展示物、ちゃんと予習してからまた見学します。
この町の見ものは、なんといっても公園テラスと、そこからのパリの遠望。

それに、ルイ14世が生まれたのがこの城付の建物なのです


*****

時はもどって、この日の朝。バスはシャンゼリゼを通った。正面に見えてきた凱旋門
いちばん目立つところにあるのが「ラ・マルセイエーズ」の彫刻。
作者のフランソワ・リュードの出身地が、今回訪れたディジョンであることをはじめて知った。

リュードは1784年生まれで大のナポレオン崇拝者だったそうだ。
十代の頃にナポレオンが無敵の活躍をしているのを見聞きし、二十歳の時ナポレオンの戴冠。
そりゃナポレオン崇拝したくなる世代でしょうとも。

ナポレオンの死から十二年後、王政復古時代の1833年にやっと完成させることになった凱旋門は、まさにナポレオンの為の最大のモニュメント。
その正面彫刻を依頼されたリュードは大いに喜んだことだろう。
ディジョンにあるリュードの博物館、今回は見られなかったが、次回(いつ?)きっと行ける機会をつくります。
***
16時過ぎにサンジェルマン・アンレイを出て空港へ向かう。
かなり混雑していて二時間かかったが、無事JL46便羽田行に搭乗(^^)/



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パリそれぞれ行動の日

2015-06-25 01:39:30 | フランス
パリに来たことがある人はけっこう多いから、《手造の旅》では一工夫しなくてはならない。
十二名の参加メンバーだが、最終的に四つのコースに分かれることになった。

小松が同行するコースは、アンバリッドとクリュニー中世美術館、パンテオンを訪れる。
★アンヴァリッドはもともとルイ14世が戦争で負傷した兵士たちを看護し生活させる施設として建設させたもの。アンヴァリッドは英語のINVALID=傷病者を表す、そのままの単語である。あの時代にこういった施設を大々的に建設したルイ14世は、ある意味戦争というものをよく理解していたのだろう。
最盛期は五千人以上の人々がここで世話されていたそうだ。現在でも一部は軍関係の養老病院として使われている。
以前に何度も来ていたアンヴァリッドだが、今回偶然現在も病院・看護棟となっている建物の前を通って「ああ、ここがそうだったのか」と理解した


10時に開館のはずだがまだ開かない。どうやら今日は第二次大戦の功労者に勲章を授与する式典が行われているらしい。
堀の向こうに華麗な騎馬姿の大統領の警護兵が見えて、車いすで軍服を来た姿の人がいきかっている

開館時間を十分以上過ぎて、別の入り口が開くということになって誘導され、やっと入場。

まずは、ナポレオンの墓を見学

そう、ここはなんといってもナポレオンが埋葬されている事で有名。フランスの軍関係では最上位に位置づけられる教会が併設されているのである。

イギリス軍によって大西洋のど真ん中セント・ヘレナ島に幽閉されたナポレオンは六年後の1821年に亡くなった。
遺体がフランスへ戻されたのは、王政復古時代ルイ・フィリップ王がイギリスと交渉して実現した。王が派遣してセント・ヘレナの墓が開かれるシーンが刻まれている


巨大な赤大理石の棺の周囲は

生前のナポレオンの功績が分野ごとに記されている。下は古代ローマのユスティニアヌス法典に代わり、ナポレオン法典を導入した事を示す↴


**併設する軍事博物館へ

ここは膨大なフランスの軍事史を展示している。三階ではド・ゴール将軍とイギリスのチャーチルの特別展をやっていた

フランス革命の発端となったバスチーユ監獄の模型

第一次大戦の戦車

夏休みに入りたくさん家族連れがきている。このナポレオン帽子がくばられているようだ


前庭の大砲のひとつに下関砲台で長州から奪ったものが展示されているとのお話しだったが、どうやら移動させられてしまったようだ。残念

***
地下鉄でサン・ミッシェルへ移動

お昼はカフェでファルシをさっと、いただきます

★クリュニー中世博物館は、ローマ遺跡の上に建てられた中世以来の修道院の建物を利用している。


ここで絶対の見ものは「一角獣と貴婦人」のタピスリー。
※これについては、別のところに書きます


大英博物館で見かけたのと同じテイストをもった昔のチェス駒


******
近くの★パンテオンへ

つい先月、新たにパンテオンに埋葬された第二次大戦中のレジスタンス四人のポートレートが飾られている↴


左から二人目がジュヌヴィエーブ・ド・ゴールとあったので、しらべてみると、あのド・ゴール大統領の姪にあたる人だった。彼女はドイツ占領下のフランスでレジスタンスの情報員として活動し、捕えられて強制収容所送りとなったが、生還した。
先月の式典の様子をwebのニュースから引用します

かつて「フーコーの振り子」が実験され、最近も再現されていたクーポラを見上げると

壁にはシャヴァンヌが描いたフランス史のエピソード。これはルイ九世が母に教えられている場面。シャルトル大聖堂のステンドグラスにもソロモンとしてその金髪碧眼姿が描かれていたっけ
地下には我々日本人でも聞き覚えのある著名人の墓がたくさんある。

*******
午後四時前、ホテルへ戻る前に「パリははじめて」と申されるお二人を、ちょっとだけルーブルへご案内。
定番のヶ所と共に、小松がお見せしたい品もひとつ。
この魚のパテナは、古代キリスト教の祭事に使われたものとおもわれる緑色の皿に、中世の貴石をはめこんだ装飾がほどこされている。


夕食は徒歩すぐの海鮮老舗店にて
デザートのババにびっくり


明日は夜八時半の便で帰国の途へ

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ディジョンからTGVでパリへ

2015-06-24 23:57:43 | フランス
きのうにもまして青空、今日は11時までディジョンの街で自由行動ホテルが旧市街にあればこそ、充分ではなくてもディジョンの街をもう少しだけ楽しむ事が出来る時間になる。

出発前に、滞在していたホテルがどんな歴史をたどってきたのかをおさらい。
●現在残る最初の建物部分は15世紀末の建造
ブルゴーニュ公国最後の君主=通称シャルル突進候が戦死して、フランス王領に編入されようとする時期である。
ディジョンの古い一族トーマス・バルビゼーの私邸としてたてられた。彼のイニシャルTと妻のマルグリットのイニシャルが、ゴシック装飾の一番上に刻まれている
彼らの家訓が[AZURE A SILVER EWE=grazing on a mound set]=牡羊に草を食べさせる、だからであるそうな。※この家訓の意味するところはよく分かりません。


柱には「聖トマソの不信」の図、これは当主トーマスの名前にちなむのかもしれない
ブルゴーニュらしいブドウの文様が美しい柱も

バルビゼー家はルイ15世時代には秘書官の一人を出したりした名家であった。

建物は1651年に売りに出され1671年には宗教団体サンタ・マルタ会が運営する子供たちのための施設となった。
フランス革命以後は生地工場は船の材料を作る場所になっていた。
※ホテルが発行している歴史案内より

歴史的な建物のホテルは、部屋が均一でなかったりするから一般的な団体には使いにくい印象がある。
それでも、歴史ある町ならではのこういった環境を楽しむ余裕を持った旅を造っていきたいと思うのだ。

***
12:01発のTGVに乗車ちょっとゆったり一等車を利用。
スーツケースは一足先にバスでパリに向かっておりますほんの一時間半強でパリのリヨン駅に到着パリですなぁ

パリのホテルもど真ん中。ルーブル美術館から徒歩三分。ちょっと古いけど

15時過ぎ、散歩にスタート今回のメンバーはパリに何回も来られている方とはじめての方といろいろいらっしゃる。
んん、では、誰も行ったことのないパリへお連れしましょ(^^)/
★この建物、ご存じでしょうか?

全体は四つのビルから構成されている

中庭にあたる部分にはこんなちょとした林が造成されている
ここはBnF=フランス国立図書館=Bibliothèque nationale de France
1996年に一般公開されたフランソワ・ミッテラン館。四冊の本を開いてたてた形をしている。

この周辺は倉庫街でさびれていたものを、再開発してゆく目的で導入され、成功している。

食事はセーヌにかけられたおしゃれな橋をわたって、ベルシー地区で、こんな
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午後はボーヌへ

2015-06-23 23:34:52 | フランス
ディジョンから南へ四十五分ほどでボーヌの街がみえてくる駐車場から、ガイドさんと待ち合わせのマルシュ・ウ・ヴァンまではすぐちかくなのに道に迷った。その間に見えてくる町並みが面白すぎるのもあって(^^)

遠回りして、1433年に建設された「ボーヌ施療院」の前に出る。
突き当りの建物がマルシュ・ウ・ヴァンである。

その名の通り、ここはワイン蔵。
ブルゴーニュの銘酒をいろいろ楽しみながら見学させてくれる。
入場券代わりにこれをもらうのが嬉しい。

これはワインの色を見るための器。
細長いくぼみで白ワイン、丸いくぼみで赤ワインの色を見るということになっている。

地下に入っていくと、こんな風に何十種というワインが貯蔵されている
そのうちから選ばれた何種類かを試飲できるのだ。

入場券は、下のように四段階に分かれている。

★試飲できるワインの数とグレードで値段が違う
○デギュスタシオン・トラディショナル~六種類、最上はプルミエ・クリュまでテイスト出来る~12ユーロ
○デギュスタシオン・プレステージ~九種類、~16ユーロ
○デギュスタシオン・グランクリュ①~九種類+グラン・クリュ一種類~22ユーロ
○デギュスタシオン・グランクリュ②~九種類+グラン・クリュ二種類~26ユーロ


ブルゴーニュワインは世界のワインの中のたった0.5%にすぎないのだそうだ。
その中のまた10%程度がプルミエ・クリュ(一級)、グラン・クリュは1%程度、高値になる訳だ。

一階部分にはアート・ギャラリーも併設されていた

***すぐとなりにある「オスピス・ドゥ・ボーヌ」を見学。
中庭が印象的な美しさ
★★★1433年に開設された、日本語で「ボーヌ施療院」と訳される施設は、病院というとちょっとちがうかもしれない。
ここが開設された時代は英仏百年戦争にあたり、ちまたには戦火と飢餓があふれていた。
病気にならずとも、食べるのに困り健康を害する人たちが大勢居たから「施療院」を開設する意味は大きかった。
ベッドルームがここ三十三のベッドに「二人ずつ」暖めあって寝かされた。当時は珍しいことではなく、別の街では「三人ずつ」というのもあった、とガイドさん。
栄養のある食事と清潔な寝床、これを提供する事で、困窮したボーヌ市民を助けていたのだ。

施設を開設したのは、ブルゴーニュ公国の宰相だったニコラ・ロランと、三人目の妻ギゴン
このリアルなポートレートは、礼拝堂の祭壇画が閉まった時の左右の扉↴

日曜日にだけひらかれて、極彩色の「最後の審判」が拝めるという趣向。
フランドルの画家ファン・デル・ウェイデンによる、まごうことなきマスターピース。
現在では両方の面を同時に見られるように、下のように展示してある↴
※この祭壇画については⇒こちらにもう少し書きました


ルーブル美術館には「ニコラ・ロランの聖母」という作品があり、ウェイデンに何度もその姿を画かせていたのを知っていた。

妻のギゴンについての逸話を初めて知った。
五十五歳の時、二十八歳年下のギゴンを三度目の妻としたニコラは、彼女を「私の星」と形容して愛し、その言葉を意味するデザインを施療院の礼拝堂床タイルにしていたとは。
これが礼拝堂のもともと主祭壇がおかれていた場所
英語のONLYは、フランス語でSUELE(スゥーリュ)

周囲を「SUELE ★」で囲み、中にニコラのNとギゴンのGを配しているのである。

1462年にニコラが八十六歳で亡くなると、ギゴンは亡き夫への追慕を別のデザインにしてタピスリーに残している。
それがこのタピスリー
ギゴンの紋章がひとつとなり、
「ひとつだけの(孤独な)星」と書かれている
このタピスリーは、ブルゴーニュワインの祭典として有名な「栄光の三日間」の時に張り出される一枚だそうだ。

ギゴンの墓は礼拝堂の祭壇前にある

****

施療院は、たった四十年前までこの場所で現役で機能していた
薬局や厨房にもわりに新しい施設が導入されていたが、現在の展示は約百年前の雰囲気を再現している
こちら薬局
新しい病室は川の上に増設されていた

*****かつて使用されていたタスト・ヴァン

******
近くのノートルダム教会へ。12世紀の「黒い聖母」

かつてのブルゴーニュ公の館の一部、ロマネスクな建物

「この扉は地下に通じていて、かつてのローマの城壁が見られるのよ」

*******
ボーヌのバス駐車場へ行く道で、市街の地下から流れ出してくる小川をみつけた。そうか、さっき施療院の地下を流れていたのはこれだったんだ

ディジョンへの帰路はブドウ畑の中をゆく

コート・ドール(黄金の丘)と呼ばれるブルゴーニュワインの名産地がつづいている。

*******
夕食はホテルのダイニング、きのう到着した時にメニューを見ていろいろ質問してみて、良さそうなレストランだと思ったので。
小松がいちばん食べたかったのは「ウフ・ブルゴーニュ」~ブルゴーニュワインで煮込んだ半熟卵、キノコはじめ野菜も加えられている。


名産の「ブフ・ブルゴーニュ」もはずせないだろう

海老のミント・リゾットというのも、名前から想像するよりずっとおいしかった









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午前中ディジョンを見学~サン・ベニーニュ地下聖堂の印象的なロマネスク空間

2015-06-23 06:22:37 | フランス
昨夜の雨はすっきりとあがり、青空の六月。
ディジョン駅から出ると旧市街入口にあたるダルシー広場のギョーム門ここからリベルタ大通りが旧公爵宮殿まで歩行者用の贅沢な散歩道。かつての公国を構成していた町々の旗が掲げられている。

ディジョンは内陸に位置しているが、フランスを貫く三つの大河の上流に位置しているのが利点。すなわち大西洋へのルワール川、地中海へのローヌ川、北海へのセーヌ川。
この紋章の街は分水嶺にあたる場所にある故なのだそうだ、なるほど
ディジョンの名産のひとつ、マスタード。その老舗マイユ

六月の終わりは卒業の季節。はじけた学生たちがディジョンの街を大騒ぎしながら練り歩くのに出くわす(^^)


この大通りから自動車が一掃されたのは2012年にトラムが開通してからのこと

**
昨夜もちょっと訪れた旧公爵宮殿。今は半分が役所で半分がミュージアムになっている。ひと目でヴェルサイユ宮殿の正面玄関を思い出させる。なのに、それをぶち壊すように後ろににょっきり突き出しているのが「フィリップ・ル・ボンの塔」。

「ヴェルサイユの建築家マンサールはあの塔を壊そうとしたのだけれど、ルイ14世が『ブルゴーニュの歴史ゆえ残せ』と命じて、このようなかたちになったのよ」
やっぱり地元のガイドさんのお話があると、より面白くなる。

ミュージアムを説明してもらう時間がほしいところだが、今日は午後にボーヌへ行くスケジュールにしているので、ちと足りません。
次回は(いつ?)もっとゆっくりちゃんと説明していただく時間つくらねば。

★サン・ベニーニュ聖堂の地下礼拝堂
短いディジョン観光の間に強烈な印象をあたえてくれたのが、このロマネスクの地下室だった。よくあるゴシックの外観内部⇒右奥の階段が10時に開いてすぐに降りてゆくと、そこには10世紀の空間がひろがっていた。


古代の埋葬地。そこに残されていた御棺を壊そうとした人物の夢枕に立った聖人が「サン・ベニーニュ」とされて、それを中心にしてつくられた教会。
「それはたぶん後付のお話しでしょうね。「ベニーニュ」という名前自体が「ベーネ=善き事」という言葉からきているだけのようだから。」と地元ガイドさんの談。
物語は想像であっても、建築というのは現実に存在する。1002年にこの地下聖堂も含む巨大な僧院を建設させたのはカタロニアのオリバという司教だったそうだ。

古代的な円形の空間をとりまく円柱は、内陣八本、外陣十六本。あわせて二十四本というのは、「黙示録」の第四章に出てくる「玉座をとりまく二十四人の長老」をあらわしているそうな。こういう解説は現地フランス人ガイドさんからでないとなかなかきけない。だが、この空間を理解するためには必要な情報である。

柱頭のほとんどにはなんの彫刻もない。ただひとつに、この「祈る人」とされる人物が刻まれている⇒
「もとはこれらの柱頭にきっとこういう像があったのでしょうね?」と質問すると、「定説では未完でもともとなかった、とされているけれど、私は納得できないのよね」との答え。ふむ、小松もそう感じます。なぜなら、他にのこされた彫刻の完成度がぽつんぽつんと不自然に配置されていること。

西暦1270年に地上の建物が倒壊した後も使用され続けたが、フランス革命時に破壊され、約半世紀忘れ去れたてものを1850年ごろがれきを取り除いて再建された。
その時にどのような状態だったのかは分かっていないのだ。

サン・ベニーニュの御棺があった空間その周囲をとりまく南イタリアでよくみられるコズマーティ様式に似た色大理石の床はオリジナルの様子を感じさせてくれる⇒

この場所を見ることができただけでも、ディジョンを訪れた価値があった。
このサン・ベニーニュ聖堂のすぐちかくにあるサン・フィリベール聖堂のロマネスクの塔も目に付いた
★Saint-Philibert
あきらかなロマネスクの形状にゴシック的なとげとげの装飾がくっついている。「入れますか?」とガイドさんに訊ねたが、今はクローズしているという。しかし、この教会の面白いストーリーをきかせてくれた。
1103年にはすでに教会があったことが記録されているが、現在見える建物は1137年の大火の後のもの。
フランス革命時1795年には軍馬の厩舎となり、内部の装飾はほとんどなくなった。
1825年には道路を通すために一番奥の主祭壇の礼拝堂とその横に突き出していた二つの礼拝堂が破壊された。
「その跡がこれ」とおしえてくれた。言われてはじめて気付く、ロマネスク聖堂の特徴的なアプス部分の円形が地面に画かれている↴

この破壊によって、ロマネスクの鐘楼は倒壊する危険もあったので取り壊されそうになったという。
残されてほんとによかった。

その後、肉の貯蔵庫として使われていたが、塩漬けの塩が建物の土台部分を侵食している事が判明し、金属の補強がほどこされた。
現在でも安全上一般には解放していないのだそうだ。

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