旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

シベリア鉄道支線今月二回目

2024-08-30 07:56:43 | モンゴル
三週間前とはちがうタイプの車両だった。
前回は扉のついたコンパートメントタイプだったが、今回はオープン。
日曜日、モンゴル人の家族連れでにぎやか。
※8月3日に乗車した時のブログをごらんください
国内列車なのでどちらも同料金だそうな。

ウランバートル駅の東側には古い蒸気機関車・ディーゼル機関車が屋外展示してある場所がある。
柵越しでも外観ならじゅうぶん見られる。

レーニンの横顔が強烈

駅のロータリーが車ぎっちりで入れず、道路向いで降車。

↑これも「歩道」と言うのでしょうか…

駅↑正面玄関を入ると今日の列車一覧が電光掲示板に↓

↑オレンジ色から下が国際列車。
ウランバートル発15:22⇒翌日14:55ロシア領イルクーツク着
ウランバートル発20:22⇒翌日10:25中国領内モンゴルのエリーン着
など、一日9本。

三週間前と同じく、内モンゴルからモンゴルに入ったところにあるザミンウードからの国内列車がホームに止まっていた。

この車両が去って、ひとつ向こうのホームに我々の乗る271列車が見えた。

↑ネット予約で送られてきた切符を印刷した紙↑文字がちいさすぎて目の検査みたい…外国人だからか個人の名前まで書かれている。

各車両の入り口に立つ車掌さんは名前までチェックするわけでもない。
今回の車両は駅のホーム位置に停車していたので高さはよいのだが

↑列車との間に落ちてしまいそう。

木材で補修された窓↑社会主義時代から使い続けているのがあきらか。

コンパートメントではなく、扉のないオープンな車両。

↑座席の下が物入になっていたんだ。

同じ席になったモンゴル人の家族と、ガイドさんを通じて話しはじめた。

家族でフジルトにいくそうな↓

↑我々が降りるダワーニからさらに一時間半ぐらい北。
調べてみるとモンゴル内の観光地のようだ。

「主人はちょっと認知症があって…」
「野菜は自分の家でそだてている」
そのうち、「英語が話せる親戚がいるから」とつれてきてくれた↓
↑こまつのとなりのメガネの女性がその方↑ドクターなのだそうだ。
「ロシア語はもちろん学びましたが、英語は独学です」とのこと。
かたこと英語でも直接話せると気持ちが通じる。
今回の旅でモンゴルのどこへ行くのかという話になり、「日本人抑留者」を解説することになってしまった。
ソ連の衛星国家だったモンゴルが戦後のシベリア抑留にも手を貸していたことは、
モンゴル内であまり知られてはいないようだ。

外国を訪れる時、
日本の歴史や文化を質問されることは多い。
自国のことを自分の言葉で説明することではじめて
自国を知らなかった自分に気付く。

あっという間に一時間。

草原の中のダワーニ駅に到着↑各車両にいる女性車掌が赤い旗を出している間は「乗降中」ということ。

↑全車両が黄色い旗になって出発!

我々一行はバスに乗り込む。

フスタイ国立公園に、野生馬タヒを探しに行く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブリヤート人のいるスフバートル広場からウランバートル観光をスタート

2024-08-26 22:56:25 | モンゴル
三角帽子の二人がスフバートル像の下で記念写真を撮っていた。

「ブリヤート人はモンゴルにもたくさん住んでいます」
調べてみると(ロシア領内の)ブリヤート自治共和国に住む28万人以外にもたくさん、モンゴルにも4万人を超えるブリヤート人が住んでいる。民俗的にはモンゴル系。ブリヤート共和国の旗にはモンゴルのシンボルである「ソヨンボ」のいちばん上と同じマークがはいっている。

↑ブリヤート自治共和国の旗↑

↑こちらはモンゴル国旗にもあしらわれている「ソヨンボ」↑※考案したザナバザルについて書きました
★ウクライナ戦争の勃発によって、ロシア内の少数民族の徴兵を強化する動きがあり、ブリヤート共和国からモンゴルへ逃れる人が増えたとそうだ。東北大学の研究ページにリンクします

我々も国会議事堂前で記念撮影。

**
国立博物館に入る。
チンギス・ハーン以前の草原地帯=万里の長城の外にも、いくつもの民族の文明・文化があり、統一王朝があったことを知っていただきたかった。

ここは歴史的な話だけでなく、民族や文化についての解説もおもしろい

ブリヤート族の服装もありました↑

↑ブリヤート人はモンゴル北部・ロシアとの国境付近に住んでいる(赤い色の部分↑)ロシア領内ブリヤート共和国に隣接したエリア。さらに、中国領内にも。彼らはクルド人のように国を持てなかった民族ということか。


ここは社会主義時代の展示も興味深い。

↑社会主義モンゴル建国の英雄スフバートルが実際に着ていた服↑けっこう大柄な人だったんだ。

国立博物館の小さな売店で、モンゴルらしいイヤリングを買われた方があった
※こちらにもう少し書きました

**
再びスフバートル広場にもどり

公共バスに乗る

最近は二階建てバスもあるのか

十三人は公共バスを利用した街歩きツアーをするにはぎりぎりの数

混雑させちゃってすみません。

ガンダン寺の参道近くで下車。

フツー人の行く、知ってないと分からないような地下の食堂に入った。
※こちらに書きました
ガンダン寺の敷地は広く、たくさんの寺の複合体。



本堂の前にでると、大きなフェスティバルの後の片付けをしていた。

「カラチャクラ」という、チベット仏教の重要な法要?
ずいぶん以前にはダライラマ14世も来られたそうな。

※2023年に訪れた時のブログをお読みください

ガンダン寺参道を降りて大通りから再びバスに乗った
前回は予定していた五日目にノミンデパートでのまとまった時間がとれなかったので、今回は今日二日目に時間をとることにした。

外観は古いが↑中は吹き抜けの新しいデザイン。

9月1日から新学年がはじまるので学用品のセールをやっている

三百メートルほど歩いてザナバザル美術館へ

※こちらをお読みください
夕食はすぐ近くのロシア料理店。

このボルシチをたべていただきたくて(^-^)

午後七時にはホテルにもどった。

ホテル目の前のスフバートル広場では今日も屋台がたくさん出ている。

夕飯の後だけど牛と羊と、一串ずつ味見しましょ(^-^)


ウランバートルの夏、爽やかな夕暮れ(^-^)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地下食堂でグヤーシュを

2024-08-26 07:01:59 | モンゴル
↑キリル文字手書きメニュー↑左上が「ボーズ」=餃子、二段目が「グヤーシュ」

ガンダン寺の参道↑写真右を入って何の表示もない奥の階段を降りて扉を開けると…食堂があった↓

地元民で混む前に軽くランチにしたい。
「グヤーシュなら早く出せるよ」
ボーズもピロシキもこねこね真っ最中。

グヤーシュ登場↑牛肉煮込みスープをイメージしていたけれど、ワンプレートランチ風。ハンガリーみたいなパプリカ風味はないが、意外に(失礼)おいしい。羊臭さはぜんぜんない
※モンゴルでは羊料理そのものでなくても、羊っぽい風味を感じることがあるのです

お値段は15000トゥグルク=750円ほど。
冒頭写真のホワイトボード右上の番号は銀行口座。
アプリでここに振り込んで支払う方法もあるのだそうだ。
**


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風車の海を越えてウランバートルに到着

2024-08-24 22:09:03 | モンゴル
目を凝らすと何百、いや何千という風車。
草原の上を飛んでいる。
14:40に成田空港を飛び立ったモンゴル航空は、

日本海、隠岐の島の上を飛び

三時間後には内モンゴル上空に達していた。
風車の海は断続的に一時間近くも続く。

★「内モンゴル」とは、中国領内のモンゴル人自治区。日本の三倍の広さがある。近年、人口1200万人ほどの8割近くは漢民族。1911年の辛亥革命で清朝がたおれた後には「内」「外」共に独立国モンゴルにになった。が、その後の中国の復活に押され「内」は手放し、モンゴル人は「外モンゴル」だけを自分たちの独立国とすることになった。ウランバートルはその「外モンゴル」の首都。モンゴル人はけっして「外」などと呼ばないが。
★内モンゴルの風力発電
雨が少なく一年中風が吹くこの地域は世界最大の風力発電エリアになってきた。
※2019年のAFP通信の記事にリンクします
日本の企業も本格的に参加しているプロジェクト※九州電力のHPにリンクします
2023年末にも順調にすすんでいるとAFPが報じている※リンクします
北京までわずか400キロほどの距離。大陸中国の発展を支える電力はこんな風につくりだされていたのか。

**
モンゴル領内に入ると風車はほとんど消えた。

モンゴル領内でも風力発電は進められているが、内モンゴルの規模に比べるとまだまだ小さい。※JICAのHPにリンクします


少し傾いた太陽の光に草原の影が濃くなる↑細長い白い線が動いているのは↓

↑貨物列車だ。

「ウランバートルの気温は摂氏22度」と機内アナウンス

高度が下がる。

雲が大きな草原。
三十分以上早い18:30には着陸した。

降機して尾翼に描かれた馬を見る↓

荷物をとってロビーに出ると、
今月二回目のムングンさんが待っていてくださった。

ターミナルの外に少し夕暮れになった草原

駐車料金をQRコードで支払っているような

道路に出ると大きな夕陽が真正面に見えた。
「満州の夕陽は大きかった」という戦前の入植者の言葉を思い出した。
モンゴルはその大地の延長線上に位置している。

市内に向かうバスのスタンド

8月1日に市内まで三時間以上の渋滞にまきこまれたが今日は「平和橋」まで順調にきた。
21時ごろ部屋に入る。
ホテル目の前のスフバートル広場に出た。

国会議事堂に向かって左にある「ボグド・タワー」に国旗の電光掲示がはためいている。

串焼き肉の屋台がいくつもでている。

食べちゃいました(^^♪


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自宅を抵当に入れて日本人抑留者の記念館をつくった人

2024-08-22 13:20:17 | モンゴル
まるで誰かが迎えてくれているような虹だった。

8月5日、ウランバートルの大渋滞を抜けて、「さくら記念館」のある市街地北の丘に向かう。
このあたりは昔からある広大な墓地。

近年ウランバートルは地方から人が流入し、板塀とゲルの家々が周辺地域にあふれている。

「四割の人がこういった貧しい地区に住んでいます」

ドライバーもガイドさんもはじめての場所。
路地で迷っていたら、迎えにきてくださった。

なんとかバスを止め、先導されて丘の頂上まで登る。

左側に小さな水溜まり↑「ノゴーンノール公園」
ウルジートグトフさんがやってきた2009年↓ここはゴミ溜めだった

彼がひとりで片付けはじめたのである。

ウルジートグトフさんは自分の住んでいる土地の歴史を知って、公園と記念館をつくりはじめた。
ネット記事で「さくら記念館」のことを知った時、ずっとこの土地に住んできた人かと思ったが、今日お話ししてみると地方の出身だった。
★経歴をこちらのページに書きました
出稼ぎしてやっと手に入れた家を抵当にいれて、縁もゆかりもない日本人抑留者のための記念館をつくっている…

↑ゴミ溜めは2012年には小さな遊園地になり↑地域の子供たちが集まる場になった。

↑記念館の方は2022年にようやくゲルの展示館でスタートした↑モンゴルと日本の国交正常化50周年の年だった。
オープンには日本大使も臨席された※大使館のHPにリンクします
※モンゴル・ナショナル・ニュースのページにリンクします

ゲルの中には、日本人抑留者が建設に携わった32の建物の写真が掲げてる。
国立公文書館に通って調べ上げた。

取り壊されるのがわかると、現場へ行って建物の一部をもらいうけている。

どんな使命感が彼を動かしているのだろう。

ソ連によってシベリアに抑留された日本人は57万5千人とされる
そのうち1万5千人がモンゴルに送られ、1500人以上の人が亡くなったとれている。
※厚生労働省のHPにリンクします

↑遠くにウランバートルのビル街が見える。
陽はあるがもう20時をすぎた。

↑東へ目を転じれば、渋滞でなければ訪れようとおもっていた日本人墓地が見える↑

持参した日本酒をモンゴル式に捧げ、献杯した。

ゲルの小さな記念館をきちんとした建物の記念館にしたいというウルジートグトフさんの願いが叶うのかはわからない。
だが、それが出来なくても、一般のモンゴルの人が我々日本人の過去に心を寄せてくださっていることに感謝したい。

モンゴル観光の場所からは遠く、バスも入ってきにくい場所だが、
こういった場所があることを知ってほしかった。

降りていく途中↑品の良い民族衣装の女性がにこやかに手を振ってくれている。
ウルジートグトフさんのお母様だった。
地方から出てきて、韓国に出稼ぎに行き、けっしてお金にならない仕事を続ける息子を見守っておられる。

**
8月27日、二度目の訪問。

この日は渋滞にも遭わず時間があったので二つ目の記念ゲルも見ることができた。

ウルジーさんが足で集めた資料が日本語の雑誌や新聞にもとりあげられている。



「日本人がうたっていた歌だそうです」と渡された紙に
「ふるさと」の歌詞が書かれていた。
異国での死を意識した時、この歌詞がどんなにか切実に感じられたことだろう。

遠望する日本人墓地に向かって歌った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする