旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

アカロア~フランス系の名残とイルカに出会えるエメラルドグリーンの海

2024-02-17 14:19:29 | ニュージーランド
天気に恵まれたアカロアからのドルフィン・クルーズ。
↓地図で南(下)から切れ込んだ入り江を二時間かけてめぐった。

↓バンクス半島は地図でその地形を見ただけで行きたくなった場所↓

↑クライストチャーチのすぐ南。
南側から切れ込んだいちばん大きな入り江に位置するのがアカロア。
↑上の地形図をみると、クライストチャーチのあるカンタベリー平野との地形の違いがよくわかる。

クライストチャーチ中心のホテルから40分ほどで半島の尾根に至る↓

入り江が遠望できる↓下の写真では南に開いた外洋への出口が見えている↓

この眺望の場所からアカロアへ直接降りてゆく道もあるが、
眺めの良い尾根をドライブしてくださった。

↑「リトル・アカロア」は、外洋からいくつも切れ込んでいる小さな入り江のひとつ↓

↑小さめだけれど西欧人が来る以前からマオリの人々の集落があった。

↑進行方向右側にはアカロアのある大きな入り江↑

すばらしいお天気だが時折雲が尾根で止まっているのに出会う↑

↑三十分ほどの尾根道ドライブからアカロアへ向かってくだりはじめる↓

海の色にずっとみとれている。

↑アカロアの入り口

フランスからの移民が建設した街なので、
今でもフランス系を誇りにしている人々がいる。

↑フランス語の道路表記。「郵便広場」は町の中心。
かつて週に何回か郵便船や郵便馬車がやってきた場所。
↓画家さん?

↑●シャルル・メリヨンはフランス海軍軍人
↑1843年と1846年にアカロアを訪れた。
趣味で描いていた人だが27歳で退役しパリでエッチングを主に活動することになる。
↑こんな銅像があるとアカロアで画家をやっていた人みたいにみえちゃいますね…。

↑彼の作品がアカロア博物館に展示されていた↑クジラの歯にアカロアの景色をエッチングしてある↑

↑「スクリムショー」はクジラの歯や骨を使った細工↑
船乗りが船内で刻んだこういうモノを指す特別な単語があることをはじめて知った↑
19世紀、捕鯨は世界の海の主産業。日本に開国を迫ったのも捕鯨船の補給基地を求めてだったという側面がある。

↑クジラの脂を溶かして抽出していた大釜↑当時のガス灯の燃料は世界中でクジラ油がつかわれていた。
※ボストン近くの捕鯨博物館を訪れたブログにリンクします


↑アカロア博物館は歴史と文化を知りたければ訪れるべき場所↓

入ってすぐにマオリ族の族長●TAKATAHARAタカタハラの精工なライフ・マスクがある。
1840年にフランス船「アストラべ号」の船長だったピエール・アレクサンダー・ドムティエルが、民族による骨格の違いを研究する一環で石膏型をとった。
フランスの博物館に収蔵されていたが、1991年フランスのミッテラン大統領時代にロカール首相が寄贈した。
たしかにこれは、パリの博物館の片隅に置かれるより、タカタハラの生きたアカロアにある方が相応しい。
彼はマオリ族部族間の抗争を制した勇者と伝わっている。

★フランスの「入植」はジャン・フランソワ・ラングロアのアイデアだった。
彼が住んだ「アカロアで一番古い家がアカロア博物館横にある↓

後年、別の所有者によって改築されたが古い写真に写っている。

1842年ごろに建てられた二室が調査・復元され、たしかにフランス式の梁だと解説されていた。

ラングロアは1808年にフランス北部サン・ロー近くで生まれた。
十代にシェルブールで捕鯨船の船乗りとなり、1833年25歳の時に船長となった。
1838年の5月から8月にかけてニュージーランドのバンクス半島で捕鯨をしていた。
その時はイギリスの捕鯨基地リトルトンを利用していたが、アカロアにフランスの入植地を建設するアイデアを思いついた。
1839年に帰国するとドゥカズ侯爵をはじめとする貴族にアイデアを持ち込み、政府からの支持を得た。
ナントーボルドー会社を設立し移民を募集。
1840年1月には53人の移民団が結成された(フランス人とドイツ人からなり、12人の子供を含んでいた)。
※別資料によると57人になっているのは、以下の四人を加えた数だろう。
3月20日ロシュフォートを出港。
出港直後に一人が自殺。航行中に三人が死亡した。
8月17日、冬のアカロアに到着。
しかし、そこにはイギリス国旗がひるがえっていた。

↑1940年の記念切手↑
ラングロアが航海している間にイギリスはNZ南島全部に所有権を宣言し
4月15日(ラングロア到着の二日前)に到着した船が国旗を掲揚し、英国領であると宣言していたのだった。
ラングロアの落胆はいかばかりだっただろう。

イギリス領だと宣言されても、はるばるやってきた入植団は帰れない。
すべてを捨てて過酷な移民船に乗った貧しい人々なのである。
さらに、ラングロアとナントーボルドー会社の監督官ラヴォーとの対立がはげしくなった。
1842年10月、ラングロアはボルドーに帰国。
1849年、ナントーボルドー会社は正式に清算された。

ラングロアはその後も捕鯨船の船長として活動したが
大きな成功は得られず、ニュージーランドに行くこともなかった。
1857年に引退して以降の消息はわからない。

船乗りや資本家のもくろみとは別に
貧しい入植者たちは黙々と生活を続ける。
フランスからの入植者の持ち込んだ言語と文化は確かに存在している。
***

アカロア博物館から海沿いに歩く

桟橋への道にお土産屋さんと小さなホテルが並んでいる↑その一角にあるクルーズ船の店
13時半からのクルーズに乗る。

船が動き出すとデッキはけっこうな風がふいてくる↑この場所がいちばん快適(^^)

カルデラの湾だからギリシャのサントリーニ島のように海から崖がそそり立つ。

岩場にはアシカがひなたぼっこ。

ペンギンもいる。






イルカたちがちかづいてきた↓

明らかに船を意識している

動きを見ていると、ペンギンやアザラシよりもアタマの良い動物なのだと感じる。

こういう動物ウォッチングにはそれほど興味をもってこなかったが、今日は参加してよかった(^^

↑外洋への入り口↑ひときわ鮮やかな海の色
**
午後五時過ぎ、クライストチャーチのホテルにもどる。

歩いてすぐちかくのレストラン街へ。

移民の国では各国の料理が楽しめる。

今日はアラブ料理。

↑トルコの宮廷菓子だったルクム(=ロクム)も置いてあった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秘密の花の家から福州園へ

2024-02-14 12:34:14 | 国内
那覇のど真ん中にあるホンモノの中国庭園「福州園」

伊江島から本島に戻る。
この旅いちばんのお天気はまだ続いている。
「今日は海の色がきれいですねぇ」
ドライバーさんと相談して古宇利島の橋にだけ行ってみることにした。

橋でつながった古宇利島。


沖縄らしいブルー

↑正面の塔は「古宇利オーシャンタワー」有料展望台↓

無料ならちょっと行ってみようということになったかも。

島のまわりのビーチ

その美しさよりも気になるものがあった

本島側に見える赤い屋根は

「愛楽園」↑
昭和13年に開園したハンセン氏病の療養施設。現在も入所している方がある。申し込めば見学や入園者との交流も可能。
上皇ご夫妻はまだ皇太子だった1975年にここを訪れている。
※琉球新報の記事にリンクします
皇室は言葉ではなく行動で、知るべき場所を知らしめてくれている。
訪れる機会をつくってみたい(いつ?)
***
「『花の家』に住んでいる方があるんですよ。今電話したらちょうど満開だそうです。行ってみますか?」
ドライバーさんが勧めてくれた「花の家」に行った。

屋根全体を覆う南米原産のカエンカズラが盛り↑「いろんな取材もぜんぶお断りしているので…」ということで
※パスワード付きのサポーターページ向けでだけ
有名でなくても訪れるべき場所はたくさんありますね(^^)


近くの道の駅でタンカンジュースを売っていた。
今がシーズン。

****
那覇に向けて高速道路を南下。
「故障車渋滞が発生しています」

米軍車両が故障してよくこういうことがあるのだそうだ。
こういう車両は米軍でなければ回収できないので、サイレンを鳴らして大げさにやってきて、「その方が渋滞の原因になっているんですよ」と、ドライバーさん。

沖縄らしい↑米軍基地の内部も入ることができる「オーソライズド」のタクシー
*****
今日宿泊する那覇OMOの近くまでもどってきた。

冒頭写真の「福州園」に入る。
このエリアには福建省から移住してきた人々が暮らしていた久米村(=クニンダ)があった。
琉球王国が交易で栄えていた室町時代ごろから↓

↑小さな資料館の地図を見ると↑琉球が中国東南アジアと密接な関わりがあることが納得できる。
福建省福州から通訳や航海のプロとして移住した人々は、琉球王国と大陸とをつなぐ重要な能力を持った人々だった。
鎖国の江戸時代にも大切にされていた。

琉球ではじめての公立学校はこの久米村からはじまった。
職能集団の子弟にたいして江戸時代にできた「明倫堂」。
琉球皇子の家庭教師にもなった蔡温もここ出身
※沖縄人物伝のページにリンクします
沖縄戦で壊滅した後、1992年に再建された際には、福州から本場中国の職人たちがやってきた。
※「福州園」のページにリンクします

今日の夕食は「福州園」できたレストラン「クニンダテラス」にした。

近くに「明倫堂」が復元されが場所もある。



二階のレストランから福州園の庭へ直接出ることができる。

食事前に散策

敷地を広く感じさせるために曲がりくねったルートになっている。

↑欄干に彫刻された十二支は福州からの職人が刻んだものだそうだ。

那覇のど真ん中にこんな場所があるなんて

いちばんよく出るメニューはルーローハン

中国茶もオーダーしたらこんな↓ティーポットで出てきた

↑お茶の下に見える鉄の玉を、下の入れ物の取っ手に付いた磁石で移動させるとお茶が下に落ちてくる仕組み。

沖縄の定番・ゴーヤチャンプルーもありました(^^


この立地で↑何もない空を維持するのはむずかしい。

19時すぎにOMO那覇に到着。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊江島タッチューに登る

2024-02-09 07:08:56 | 国内
↑頂上から360度ぐるりと海。
新沖縄八景の一位に選ばれたこともあるそうな。

本島の美ら海水族館からもよく見える↑海抜172mの伊江島城山(=タッチュー)

フェリーの船上でだんだん近づいてくる

上陸して、葉タバコ畑の向こうにそびえる。

ふもとから途中まで車の道がある。

標高百メートルに大きな駐車場とお店

↑突き当りから林の中の道がはじまる。

↑伊江島のゆるキャラ「タッちゅん」がかぶっている帽子がこの山↑ハイビスカスの園があり、ピーナッツを栽培している島だとわかる↑背中に背負っているのは名産の「島らっきょう」
ガイドさん「この鳥の名前はなんでしょう」
「スズメ?」
「いえ、『良いとこ取り」です(笑)」

登山道というほどの道でもないなぁと歩きはじめると

突然階段になる↑ここから70mをほぼまっすぐに上がる階段

まぁ、70mだから急な階段ならその方が効率がよいか。

楽ではないけれど

振り返ると緑の島と青い海

駐車場横の売店の屋根で↓

ガイドさんが手を振ってくれた↓

頂上に↓

到着!

平たい島の真ん中ににょっきり突き出した岩山。考古学的には平地よりも古い地層が乗り上げてできている。とても固く、米軍の砲撃にも崩落しなかった。

↑力持ちの大男の足跡↑この山から石を投げおろして島を守った伝説がある↓

アメリカ軍は伊江島を二日で陥落させるつもりだったが、六日を要した。

伊江島のモノがたくさんある売店

昔から栽培しているサトウキビから
キューバのようにラム酒を蒸留している※2015年に訪れたキューバのブログにリンクします
ちょっと試飲。アルコールがダメな人に、「伊江ソーダ」はいかが?

伊江ソーダ(言えそうだ)は「告白ドリンク」として話題になった。

さっき訪れた湧出(わじー)でつくられた塩

イカ墨ご飯の素
**
山を下りたあたりでこんな建物が残されている↓

六日間の伊江島上陸戦の後、唯一カタチを留めていた建物だったそうだ。
どれだけ激しい砲撃がおこなわれたのだろう。

↑追い詰められた日本軍が最後の砦としていた場所は公園になって↑「芳魂の碑」が建てられている。
道を挟んである学校の場所が↓アメリカ軍の攻撃拠点だった場所で↓

↑4月21日の最後の攻防があった場所になる。

***
港のターミナルに戻る

ゆるキャラ「タッちゅん」が背負っていた島らっきょうを売っていた。

「海人食堂」でお昼ごはん。
漬け丼大満足(^^♪

漁業協同組合の奥さんたちが運営しているこの食堂はしかし、
この三月で閉めてしまうのだそうだ。残念。

↑小さいが見どころ多い伊江島↑次回は宿泊する日程での旅を造ってみたい。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊江島~滑走路を歩く「黙認観光客」、葉タバコ、ニャティヤ洞、湧出(わじー)展望台

2024-02-08 11:11:54 | 国内
旧日本軍が昭和18年に建設した長さ2200mの滑走路。伊江島が沖縄戦の縮図のような戦場になったのは、この滑走路の存在がひとつの理由。米軍は日本本土攻撃の拠点として利用しようと考えた。
現在はアメリカ軍の管轄下だが、基地内に新しい滑走路があるので利用していない。旧土地所有者が農地に使うのを黙認する「黙認耕作地」である。我々はさしずめ「黙認観光客」だ。※こちらにもう少し書きました


朝、ホテルのベランダから「熱帯ドリームセンター」の印象的な塔が見える※この建物のモデルについてこちらに書きました

↑本部港ターミナルのスタンプにあったゆるキャラにはあとで出会うことになる。
9時発のフェリーで伊江島に向かう↓

久高島行きよりずっと大きな船なのでこちらはほとんど欠航しない。

約三十分の船旅。

ひと目見たら忘れない「伊江島城山(いえじまぐすくやま=タッチュー)」が見えてきた↑
今日は頂上まで登る予定。
島のガイドをしているAさんに迎えていただいた。

平たい島の真ん中にひときわ目立つタッチューは海抜172m↑
**
●アーニー・パイル記念碑を最初に訪れた↓

ノルマンディ上陸作戦にも同行していた高名な従軍記者。
1945年4月16日に上陸し、18日に日本兵に撃たれ、この場所で亡くなった。
毎年慰霊祭が行われている。
***
そこらじゅうに黒いビニールの畝が見える↓

これは?

「葉たばこです。4月にピンクの花を咲かせます。6月に収穫します」
伊江島ではかつて70軒が栽培し16億円を売り上げていた。
この三十年で30軒6億円に減少しているが、それでも主要産物だ。
葉タバコは1985年に専売制度が廃止されたが、今もJTと契約した農家だけが決められた本数だけを育成することになっている。
時々ぬきうちチェックが入るそうな。

苗床から植え替えたところで消毒をしているタイミングか。
****
●ニャティヤ洞窟

「貝の墓」を意味する名前のとおり、貝塚のような場所だったとか。

駐車場から降りてゆくとおもったよりずっと広い空間が広がっている。

「千人洞(せんにんガマ)」と言われたのもわかる。

↑1945年3月10日に米軍の空襲がはじまると島民の避難生活がはじまった。
↑海に向かって開いた三つの穴はトイレ炊事と用途によって分けて使われた。
4月米軍の上陸がはじまり、他のガマでは集団自決の悲劇も起きたが※NHKアーカイブにリンクします
ニャティヤガマは幸い発見されなかったのだそうだ。

戦前から拝所で↑子授けの石・おなかの子の男女がわかる「ビジル石」も置かれている↑「石が積んであるのは修学旅行生がやっただけで別に意味はありません(笑)」

最近はこの「ハート」も人気なんだそうな。

*****
冒頭写真の米軍滑走路

実際に歩いてみると2200mの長さなどないように見えた。

実際、滑走路の途中に↑米軍の訓練施設が建設されていた↑
ここでは嘉手納基地からやってきた空軍がパラシュート降下訓練を行うそうな。
島の三割以上を占める基地だが、常駐している米兵は10人程度。
******
外海の東シナ海に面した北岸にある
●湧出(わじー)展望台

名前の通りこの崖下からは真水が湧き出していて

↑今もパイプで汲み上げいる。

↑この建物できれいにして「伊江島ソーダ」として販売している↓

↑「告白ドリンク」として人気がでたんだとか↑タッチューの売店で見つけた
伊江ソーダ⇒「言えそうだ」
あ、なるほどね(^^♪
さぁ、タッチューにのぼりにいこう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今帰仁城址夜景

2024-02-06 12:47:07 | 国内
今帰仁城は「桜祭」の期間ライトアップしている。

この日のお昼。
「『ゆし豆腐』のおいしい店があるんですよ」とタクシー運転手さん

メニューには「ゆし豆腐」定食がずらり↓「アーサ入り」とはアオサが入っているということ。

「ゆし豆腐」は、「沖縄豆腐」に固まる前の豆腐。
※「沖縄豆腐」の解説はオリオンビールのHPにリンクします
↑このリンクを読んでから見ると↓左上のおからが「ゆし豆腐」とセットになっている意味がわかる。

ゴーヤチャンプルーセットの方と半分こしました(^^)/「ゆし豆腐」どんぶりいっぱい量があります。

昔から信仰を集めている普天満宮にもちょこっと寄ったが奥の鍾乳洞に入る時間まではなかった。

午後二時半から佐喜眞美術館を訪問

※訪問の様子はこちらに載せました

今帰仁城へ向かって北上。

途中のうるま市は闘牛が有名なのだそうだ。

↑「あれは闘牛用のドームですよ」とドライバーさん↑
しらべてみると島中にたくさん闘牛場があり、この「全天候型石川ドーム」でも年間20回以上の大会が開催されていた。一度観覧してみなくては。

**
今帰仁城址に到着したのは夕方五時半。

「日本一早い桜祭」のライトアップがはじまる時間に合わせた。

桜は、今年はまだ早かったようだ。昨年1月一週間前に来て1/23からの出発にしたのだけれど※昨年の下見にリンクします

ライトアップだけはがんばってくれているのだが(^^

休日で交通整理の人も立っていたが今日はそれほど混んでいない。だいぶ寒かったからかしらん。

沖縄の城(ぐすく)は、今日中城城(なかぐすくじょう)を見学した※リンクします

構造はよく似ているが、中城城より少し前の時代なので石垣は古い構造。中城城には種子島伝来以前の鉄砲が備えられていたとされるが、今帰仁城にはまだない。

それでも、じゅうぶんに見応えのある城壁。

資料館も同じ入場券で見学できる。充実した内容↑発掘された古銭には10世紀以前の中国の王朝のものも多い。北山王が首都としていた今帰仁城は1416年に滅ぼされて琉球に統一王朝ができたとされる。さらに1609年には薩摩藩が侵攻し焼き払われたと記録されている。今帰仁が最も栄えていた時代はかなり古いのだろう。

琉球は大和よりも中国大陸や東南アジアとより緊密な関係があったのが理解できる。


本部のホテルに到着したのは19時をまわっていた。
明日は晴れるらしい(^^♪
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする