午前零時半に羽田を出発し、パリ経由、正午にボローニャの空港に到着マルコーニとは電信技術の発明者でノーベル賞ももらっている人物
昼食にパスタがのったピッツァと、スカモルツァ(燻製チーズを焼いたブルスケッタ
★ホテルのすぐ前、ガリエラ門
現在見えているものは新しいが、門の名前はその昔のケルト王妃の名前に由来する。
※以下、解説版より
12世紀にボローニャを囲む城壁にあった12の門のうちの一つとして建造された。
1659と1663年に改築~おそらく大砲に対応して。1777跳ね橋が石橋におきかえられる~もうそんな時代ではなくなった。1848年支配していたオーストリア軍への反乱がはじまり、8月8日には敵をこの門から追い出した。短い期間ではあったが自治をとりもどしたこともある。
1933年センメトで改修。1944年爆撃されたあとを1948年修復
2001年中世の城壁とつなげる復元がおこなわれた。
帰国後、上記の記載を読み直していて、別の広場にあった銅像の意味がやっと分かった↓
ラテン語で書かれた1848年8月8日は、オーストリア軍を撤退させた日付なのだ。
かつてガリエラ門のすぐ外まで運河で船がやってきて、運ばれてきた品々を上げ下ろしした。覗きこむと今でも水路がながれているのがわかった。
市内を歩くと運河はまだそこここに残っているのがわかる
**
ボローニャはポルティコとよばれるアーケードがあることで有名。新旧あわせて総延長38キロが旧市街にあるそうな新しいものは石でできている様にみえるが、「中は木製のものも多いのですよ」と現地ガイドさん。13世紀のものがこんなふうに見える場所もある。高さ9メートルは馬に乗ったままで通行できるように、ということ。
このポルティコが建設された理由について、二つの説をきいた。ひとつは、世界最古の大学(1088年創立)らしく、各地からやってきた学生のための部屋をつくるため、というもの。もうひとつは、1249年に世界最初の奴隷解放令を出したボローニャが、解放された奴隷の安全を確保するために必要になったというもの。※世界で初めての奴隷解放令については、別のところに書きます。
***
中世のイタリアでは有力貴族が競って高い塔を建てた。ボローニャもかつては180というとてつもない数の塔があったそうな。現在象徴的に残っている二つの斜塔高さ97mのアシネッリ塔には上ることができる。
路地を歩くと町並みにうもれそうになっているが古い塔がみつかるここはレストランになっていた。
****
中心のマジョーレ広場に建つポデスタ宮殿とエンツォ宮殿の複合建築後者の名前は1249年ファサルタの戦いで負けここに幽閉されたエンツォ王子(父は神聖ローマ皇帝フェデリコ二世=ドイツ語ではフリードリッヒ二世、そのドイツでの庶子)に由来する。かれは23年後にここで没した。この戦いは前出の「世界で初めての奴隷解放令」にも関連する。
有名なジャン・ボローニャ作「ネプチューンの噴水」これはとてもよくできたブロンズ像だとおもうのだが、フィレンツェのシニョーリア広場に置かれるコンペでは敗れたものなのだそうだ。
*****
今日は休日で中心部の路地で子供たちが遊んでいる
******
★ドメニコ・マジョーレ教会
12世紀末から13世紀にかけて生きた聖人ドメニコの墓がある。同時代のアッシジのフランチェスコの墓は有名だが、ドメニコの墓がボローニャにあることはそれほど知られていない。
入口の新しいモザイクには彼の姿がシンボルである白百合と共にえがかれいた右下のたいまつを咥えた犬は、ドメニコを産むときに母が見た夢に出てきたのだそうだ。ドメニCANE=犬が、世界を照らす光を持ってくるという予言夢。
内部右礼拝堂にあるドメニコの石棺はすばらしい彫刻群で飾られている。この中のいくつかが若きミケランジェロの作品である※別のところに書きます
*******
見るべき教会はたくさんあるが、今日はもうひとつだけ
★サン・ステファノ教会
内部は複合的に七つの教会で構成されており、一番古い部分は八角形の洗礼堂になっている。古代にはイシス神の神殿であったとされる。
こちらもまた別の場所に書きます。
昼食にパスタがのったピッツァと、スカモルツァ(燻製チーズを焼いたブルスケッタ
★ホテルのすぐ前、ガリエラ門
現在見えているものは新しいが、門の名前はその昔のケルト王妃の名前に由来する。
※以下、解説版より
12世紀にボローニャを囲む城壁にあった12の門のうちの一つとして建造された。
1659と1663年に改築~おそらく大砲に対応して。1777跳ね橋が石橋におきかえられる~もうそんな時代ではなくなった。1848年支配していたオーストリア軍への反乱がはじまり、8月8日には敵をこの門から追い出した。短い期間ではあったが自治をとりもどしたこともある。
1933年センメトで改修。1944年爆撃されたあとを1948年修復
2001年中世の城壁とつなげる復元がおこなわれた。
帰国後、上記の記載を読み直していて、別の広場にあった銅像の意味がやっと分かった↓
ラテン語で書かれた1848年8月8日は、オーストリア軍を撤退させた日付なのだ。
かつてガリエラ門のすぐ外まで運河で船がやってきて、運ばれてきた品々を上げ下ろしした。覗きこむと今でも水路がながれているのがわかった。
市内を歩くと運河はまだそこここに残っているのがわかる
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ボローニャはポルティコとよばれるアーケードがあることで有名。新旧あわせて総延長38キロが旧市街にあるそうな新しいものは石でできている様にみえるが、「中は木製のものも多いのですよ」と現地ガイドさん。13世紀のものがこんなふうに見える場所もある。高さ9メートルは馬に乗ったままで通行できるように、ということ。
このポルティコが建設された理由について、二つの説をきいた。ひとつは、世界最古の大学(1088年創立)らしく、各地からやってきた学生のための部屋をつくるため、というもの。もうひとつは、1249年に世界最初の奴隷解放令を出したボローニャが、解放された奴隷の安全を確保するために必要になったというもの。※世界で初めての奴隷解放令については、別のところに書きます。
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中世のイタリアでは有力貴族が競って高い塔を建てた。ボローニャもかつては180というとてつもない数の塔があったそうな。現在象徴的に残っている二つの斜塔高さ97mのアシネッリ塔には上ることができる。
路地を歩くと町並みにうもれそうになっているが古い塔がみつかるここはレストランになっていた。
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中心のマジョーレ広場に建つポデスタ宮殿とエンツォ宮殿の複合建築後者の名前は1249年ファサルタの戦いで負けここに幽閉されたエンツォ王子(父は神聖ローマ皇帝フェデリコ二世=ドイツ語ではフリードリッヒ二世、そのドイツでの庶子)に由来する。かれは23年後にここで没した。この戦いは前出の「世界で初めての奴隷解放令」にも関連する。
有名なジャン・ボローニャ作「ネプチューンの噴水」これはとてもよくできたブロンズ像だとおもうのだが、フィレンツェのシニョーリア広場に置かれるコンペでは敗れたものなのだそうだ。
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今日は休日で中心部の路地で子供たちが遊んでいる
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★ドメニコ・マジョーレ教会
12世紀末から13世紀にかけて生きた聖人ドメニコの墓がある。同時代のアッシジのフランチェスコの墓は有名だが、ドメニコの墓がボローニャにあることはそれほど知られていない。
入口の新しいモザイクには彼の姿がシンボルである白百合と共にえがかれいた右下のたいまつを咥えた犬は、ドメニコを産むときに母が見た夢に出てきたのだそうだ。ドメニCANE=犬が、世界を照らす光を持ってくるという予言夢。
内部右礼拝堂にあるドメニコの石棺はすばらしい彫刻群で飾られている。この中のいくつかが若きミケランジェロの作品である※別のところに書きます
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見るべき教会はたくさんあるが、今日はもうひとつだけ
★サン・ステファノ教会
内部は複合的に七つの教会で構成されており、一番古い部分は八角形の洗礼堂になっている。古代にはイシス神の神殿であったとされる。
こちらもまた別の場所に書きます。