ハバナから西へ七十キロほど走ったソロアの街に、日本人がつくった蘭園がいまも大切に受け継がれている。
造られたのは第二次大戦後すぐの時期。
戦前に神戸で花屋をやっていた竹内憲治という人物の手になる。
彼は1931年に日本を出発、ニューヨークへ留学する途中、
「熱帯の植物を見たい」とキューバへ立ち寄った。
ところが思いがけず大病にかかり、その間に仕送りも途絶えて無一文になって、
結果キューバから動けなくなった。
路頭に迷いかけた彼をキューバの農業試験場のアクーニア氏が
住むところと仕事を与え救ってくれた。
能力を発揮できる仕事を与えられ、彼の庭づくりの成果があらわれてくると、
当時キューバにたくさんいたアメリカ人大富豪から庭園造りを任されるようになった。
破格の待遇で人気の庭師となる。
十年後、第二次大戦が起こる。
三百人ほどの日系人と共に敵国人収容所に連行され、あしかけ四年を過ごす。
終戦後、解放され、ようやく元の生活をとりもどしたと思ったら、
今度はキューバ革命が起こった。
アメリカ人富豪のパトロンはキューバを去り、
社会主義政府は蓄えていた財産を没収する。
それでも彼はキューバを去らず、やがてフィデル・カストロも彼の仕事を認め・信頼を得るまでになった。
1977年に亡くなるまでキューバ激動の時代を生き抜いたのだった。
偶然の滞在は、四十六年に及んだ。
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彼は物書きではない。
七十歳を過ぎたころ、彼のたどってきた人生を書き記していた原稿が遺されただけである。
この一冊の本「花と革命」がなければ、小松が今日ここへ来ることはなかった。⇒
その本についてこちらに書きました。
★この蘭園のオーナーは、トマス・フェリペ・カマチョというカナリア諸島出身のスペイン人⇒
ポートレートがリビングに掛けられている
1959年キューバ革命以前の人物である。
キューバで砂糖工場を営んでいた父の要請で二十一才の時キューバへ移住。
法律を学び、大統領の顧問にまでなったインテリ。
順調な荘園領主の暮らしをおくっていたのだが、
娘のピラールが出産時に亡くなった。
父は、娘の好きだった蘭が一年咲いている庭をつくりたいと思った。
1943年から9年の歳月をかけてつくられた三ヘクタールの敷地を持つ庭は傾斜地につくられている。
キューバはほおっておけばすぐに植物が生い茂る。
周辺もこのような地形。
⇔この写真に写っている赤い花がこれ
この庭園の中だけは実にきちんと植物が配置されている。
チャイニーズ・ランタン
「タコの足」と通称されるキューバ固有の蘭だとか
傾斜地につくられているが歩きやすい坂道や階段がめぐらされている。
この坂を上っていった、眺めの良い場所にカマチョ氏の邸宅がある。
かつての邸宅では、南国の果実を絞ったいろいろなジュースが売られていた。
そのなかで見た事のなかったのが、これ。
英語名はSOURSOP
日本語でもそのままサワーソップと呼ぶ方がとおりがよさそう。
中はこんなふう
食べてみると、なんだか記憶にある味だった。
後日調べてみると、チリモーヤの仲間と出た。
そうか、今年五月にペルーで食べた、あれだったのか(^^)
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こちらの日記の中ほどすぎにチリモーヤ載せております。あちらはアイスクリームのような味で、高く売れるのだそうだが、サワーソップはそれほどでもなさそうな。
こちらは定番の椰子の実ジュース
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今日のお昼、世界遺産ピニャーレス渓谷のホテルへ向かいます。