旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

空から見るマンハッタンのようなハバナとフロリダ・キーウェスト

2015-12-14 10:20:31 | キューバ

ハバナの空港、出国してからのお店はこんな感じです葉巻だけは別コーナーがありましたが。

待合室フライト表示板これが現状。なのに、2016年からアメリカの直行便が入るという。

●飛び立って見下ろす空港敷地とターミナルも、のんびりしたもの↴

●ハバナの新市街が、マンハッタンのように四角く整備されているのが見えてきた↴

中央の尖った塔が、革命広場に立つ高さ107mのホセ・マルティ記念塔である。視覚的にこうやって見せらると、アメリカ時代にマンハッタンのようにつくられた街であると実感できる。

●ハバナ旧市街と袋のようになったハバナ湾↴

煙をあげているのは石油精製施設。こんな街中にあるのが信じられない。

沿岸に計画的につくられた、ちょっとモダンな社会主義的な?マンション群があった

★マイアミ・キーウェスト~まったく雰囲気の違う人工的な島が見えてきた↴

飛行機から見ていた時には、機内画面で「マイアミだろうな」と思っていただけだったが後日グーグルマップで見ると、(あたりまえだが)ほんとうにそっくり!

アメリカが共和党ブッシュ政権の時代には、アメリカは合法的なキューバ難民を受け入れず、多くがボート・ピープルとしてこの海を渡っていったのか。

 

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ビニャーレス渓谷と葉巻づくりの家

2015-12-13 15:07:13 | キューバ

キューバ島西部、ピニャーレス渓谷はハバナから百キロほど

ピニャール・デル・リオ州に入る。


国道のサービスエリア(というほどの場所でもないのですが)は、この地方らしく、葉巻農家の家をイメージしている


サービスエリアでこんな事をやっている人を発見

ガイドさんによると、これコーヒーを収穫した後の作業をしているのだそうな。
外国人が出入りする場所だから、お土産になるような品々を置いている。
蜂蜜⇒ コーヒー⇒


国道を離れて北上してゆくと、周辺にホンモノの葉巻農家が見えてきた


ピニャーレス渓谷を見晴らす展望台に到着


 




★葉巻農家「Casa dek Vegueroベゲロの家」を訪問

たばこ畑の事を、キューバではVEGASベガスと呼ぶ。
もともとのスペイン語では「平原」ぐらいの意味だが、キューバに来て別の意味が付加された。
そして、そこで働く人々をベゲロと呼ぶようになったので、これは「ベゲロの家」なのである。


タバコの葉っぱをはじめてさわった。厚みがあってべとべとした印象。毒素が含まれているのだそうだ。

最初に天日で乾かした後、さらに屋内でこんなふうに吊るして乾かす

日本では火を炊くそうだが、ここではそれは必要ない。
それでもけっこう湿り気は残っていて、ゆびで広げることが出来る。↓



これを、目の前で巻く実演をしてくれた

実は、中に巻き込む葉と、外側を巻いている葉は別の種類。外側のものは、育てるときにもネットをかけて、傷がつかないように大事にそだてるのだそうだ。そういえば、その畑を見かけた


完成品を「格安で売る」と言ってくれたんですが⇒ 「・・・・」具体的に葉巻をお土産にする人が思い浮かぶのでなければ、近頃の日本人はなかなか買う気にならないかもしれません。


おどろいたのは、その種の小さい事!
↓ゴマ粒より小さいこれがタバコの種なんだぁ~

四週間苗床で育ててから畑に植え替えるそうな。 


***渓谷を見晴らすランチは、ラ・エルミータという高原のリゾートホテルにて


なかなか良い場所でした。


****カルスト地形なので鍾乳洞もたくさんある


 いりぐちで先住民スタイルで鷹匠をやっている 鍾乳洞を百メートルほど歩いていくと、川があらわれ、そこでボートに乗る


鍾乳石にいろんな名前を付けるのはどこのくにもいっしょ。その名前によって、お国柄が現れると言えるだろう。これはつりさげられた豚とワニだそうです⇒ こちらはコロンブスが最初の航海で乗っていた三隻の船「ピンタ」「ニーニャ」「サンタマリア」⇒


十五分ほどで出口が見えてくる⇒長すぎなくてよい。


こんなの売ってました⇒


最後に「先史時代の壁画」を訪れる⇒これは、しかし、そんなに古いものではなく1959年革命成就の年からつくりはじめられたもの⇒こちらにもう少し書きました


***ハバナまで長いドライブになるので、バスで映画「老人と海」を上映してくれた あ、コヒマールの城は1950年代にも同じようにあったんだ(あたりまえですが)アメリカ人観光客が我が物顔に歩いていた時代だったのか。さてさて、来年からアメリカからの直行便が復活するキューバ、かつてのようなアメリカ人が闊歩する状況がまた出現するのやもしれませぬ。


****ハバナへ戻ってそのままレストラン「トコロロ」へ

これはキューバの国鳥の名前であります。


 


 


 


 

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日本人・竹内憲治のつくった蘭園

2015-12-13 10:58:07 | キューバ

ハバナから西へ七十キロほど走ったソロアの街に、日本人がつくった蘭園がいまも大切に受け継がれている。



造られたのは第二次大戦後すぐの時期。 
戦前に神戸で花屋をやっていた竹内憲治という人物の手になる。
彼は1931年に日本を出発、ニューヨークへ留学する途中、
「熱帯の植物を見たい」とキューバへ立ち寄った。
ところが思いがけず大病にかかり、その間に仕送りも途絶えて無一文になって、
結果キューバから動けなくなった。
路頭に迷いかけた彼をキューバの農業試験場のアクーニア氏が
住むところと仕事を与え救ってくれた。
能力を発揮できる仕事を与えられ、彼の庭づくりの成果があらわれてくると、
当時キューバにたくさんいたアメリカ人大富豪から庭園造りを任されるようになった。
破格の待遇で人気の庭師となる。

十年後、第二次大戦が起こる。
三百人ほどの日系人と共に敵国人収容所に連行され、あしかけ四年を過ごす。
終戦後、解放され、ようやく元の生活をとりもどしたと思ったら、
今度はキューバ革命が起こった。

アメリカ人富豪のパトロンはキューバを去り、
社会主義政府は蓄えていた財産を没収する。
それでも彼はキューバを去らず、やがてフィデル・カストロも彼の仕事を認め・信頼を得るまでになった。
1977年に亡くなるまでキューバ激動の時代を生き抜いたのだった。
偶然の滞在は、四十六年に及んだ。
**
彼は物書きではない。
七十歳を過ぎたころ、彼のたどってきた人生を書き記していた原稿が遺されただけである。
この一冊の本「花と革命」がなければ、小松が今日ここへ来ることはなかった。⇒その本についてこちらに書きました

★この蘭園のオーナーは、トマス・フェリペ・カマチョというカナリア諸島出身のスペイン人⇒ポートレートがリビングに掛けられている 1959年キューバ革命以前の人物である。
キューバで砂糖工場を営んでいた父の要請で二十一才の時キューバへ移住。
法律を学び、大統領の顧問にまでなったインテリ。
順調な荘園領主の暮らしをおくっていたのだが、
娘のピラールが出産時に亡くなった。
父は、娘の好きだった蘭が一年咲いている庭をつくりたいと思った。

1943年から9年の歳月をかけてつくられた三ヘクタールの敷地を持つ庭は傾斜地につくられている。
キューバはほおっておけばすぐに植物が生い茂る。
周辺もこのような地形。

⇔この写真に写っている赤い花がこれ

この庭園の中だけは実にきちんと植物が配置されている。

チャイニーズ・ランタン

「タコの足」と通称されるキューバ固有の蘭だとか



傾斜地につくられているが歩きやすい坂道や階段がめぐらされている。
この坂を上っていった、眺めの良い場所にカマチョ氏の邸宅がある。

かつての邸宅では、南国の果実を絞ったいろいろなジュースが売られていた。
そのなかで見た事のなかったのが、これ。

英語名はSOURSOP

日本語でもそのままサワーソップと呼ぶ方がとおりがよさそう。
中はこんなふう

食べてみると、なんだか記憶にある味だった。
後日調べてみると、チリモーヤの仲間と出た。
そうか、今年五月にペルーで食べた、あれだったのか(^^)
こちらの日記の中ほどすぎにチリモーヤ載せております。あちらはアイスクリームのような味で、高く売れるのだそうだが、サワーソップはそれほどでもなさそうな。 

こちらは定番の椰子の実ジュース


****
今日のお昼、世界遺産ピニャーレス渓谷のホテルへ向かいます。

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ゲバラの街、サンタクララ

2015-12-12 19:04:17 | キューバ

さとうきび列車を下りたマナカイスナガから一時間ちょっと走って、サンタクララに到着 キューバの伝統建築を模した建物がならぶリゾートホテルで昼食 庭は動物が飼われていてワニもいた⇒ キューバにきてはじめて知ったのは米が主食になっているということ。どこのバッフェにも米は必須。小豆のはいった「コングリ」をはじめ、種類も豊富 


★サンタクララはキューバ中部・交通の要衝ではあるが、ありふれた中規模都市 1958年12月29日に、最後の戦闘がゲバラによって行われたことによって有名になった。


東から進軍してくる革命派を食い止めるために派遣した援軍が、人数的には劣勢なゲリラに敗北したのを知って、ハバナのバチスタ大統領は三日後の1959年1月1日に亡命。キューバ革命が成就したとされているのだ。


バチスタ政権の援軍を載せた列車が爆破された跡は、今でもそのままに記念博物館になっている⇒「これってホンモノですか?」と誰かが訊ねたほどに、リアルで新しすぎて、かえって実感がわかなくなる。


ゲバラ廟=記念館は町の端、少し高台になった広場にひろびろとつくられていた。 


1967年にボリビアで政府軍に捕まり、銃殺されたゲバラの遺体は、どこに埋葬されたのかずっと不明だった。二十八年後の1995年になって、当時現場に居たボリビア軍司令官が告白し、その二年後の1997年の6/28に現場が掘られ、両手を切り取られたうつぶせの遺体が発見された。 同年7/12骨は小さな木箱に入れられキューバに帰国。カストロはじめ、かつての同志が勢ぞろいして迎えた。⇒式典で使われたちいさな棺は、現在ハバナの「第一邸宅博物館」にある


カストロは式典でこう述べた「ここに来たのはチェに別れを告げるためではありません。彼を迎えるために来たのです。我々を力づけるために、もどってきてくれてありがとう。我々は今もまだ、君があんなにも求めていたものを実現するために戦いつづけています。」


1991年のソ連崩壊後、キューバは砂糖の買い手と石油の供給者の両方を失い、最大の危機を迎えていた時だった。カストロはゲ、バラというもう色褪せる事のないアイコンが戻ってきてくれて、ほんとうにうれしかったにちがいない。


ハバナでの式典のあと、サンタクララへの二百七十キロをパレードして、この廟に納められた。


★注意したいのは、現在見るモニュメントはゲバラの遺骨が納められた時にはまだ存在しなかった、ということ。1982年に設計され1988年に完成したものである。


***あまり知られていないが、この町の共産党本部前には、ちょっと面白いゲバラの立像がある。↴ 



●この像は細部にゲバラの生涯に関連する事柄が忍ばせてある。「わかる人にしか、わからない」という類の、いわばマニアックな遊び。子供は「キューバの将来」を象徴する。


①バイクで旅するゲバラ⇒二十代のはじめに友人とバイク二人乗りで南米縦断の大旅行をしたことが、ゲバラの人生を決定した。この旅で南米の人々が置かれている現実、誇るべき歴史にも触れ、革命の必要性を認識していった。ロバート・レッドフォードは彼自身の旅と重ねて、「モーターサイクル・ダイアリーズ」という映画を製作している。


②登山するゲバラ⇒生来の喘息持ちだったゲバラは、それを克服すべくあらゆるスポーツにうちこんだ。登山もそのひとつで、メキシコのポポカテペドル5,426 mにも何度も登ろうとした。登山というのは軍事訓練にも最適だったから。


③ゲバラの目安箱⇒背中に開けられたこの穴の意味は、ゲバラが内務省トップに就任した際に、誰でも直接ゲバラに投書できるように置かれた箱をあらわしている。


★後ろの建物には「チェ」という彼のサインを拡大したもの。アルゼンチンで気安く仲間に呼びかけるときに使われる方言を、キューバの仲間たちは彼のニックネームにし、ゲバラ自身もそれを自分のサインに使った。国立銀行総裁となったゲバラが発行した紙幣にさえ、このサインが使われている。下は1960年に発行されたキューバ紙幣。表面左下の方に「チェ」のサインが見える。※この紙幣に描かれているのは、19世紀後半にキューバ独立を目指して戦ったカルロス・マヌエル・デ・セスペデス。⇒ハバナのアルマス広場で銅像をみたっけ



そして、現在。3ペソ札にはゲバラ自身が描かれている。 この札は観光客にたいへん人気で、特に人民ペソの方は実質の価値は15円ほどでも、US1ドルと等価の1兌換ペソで売ってくれたりする。それでも、まとまった数はなかなか手に入らない。サンタクララの小さなお土産やにて、まとめて持っていたものを売ってもらったところ⇒


ハバナへ戻ったのは夜六時すぎ。街灯のほぼまったくないキューバのハイウェイは真っ暗。ハバナ市内へ入ってやっと明るくなった⇒


 

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マナカ・イスナガへのさとうきび列車

2015-12-12 13:33:36 | キューバ

トリニダー郊外、カリブの朝なんと気持ちの良い風の吹く場所なのか。太陽の光が満ちてくる廊下海岸を歩いてみる

海につきだした細長い回廊のような場所に出来たホテル

オールインクルーシブ制(いろんなサービスが全部含まれている)で、滞在客はこの腕バンドをつける「なんだか入院患者みたい」と言われればそうかも(笑)

お土産物屋は比較的モノがあるが、レジはいちいち手書きで売れたモノを書き留めているのだから時間がかかる

ホテルを出て十五分ほどでかつての蒸気機関車の駅へ到着。元の立派な駅がこれだが⇒現在は学校になっていて、我々がこれから乗るさとうきび列車のプラットホームはこんなんです⇒

二十メートルほど離れた場所には蒸気機関車がごろごろいちおう動くように整備されているようす。

我々ののるジーゼル車がやってきた二両ほど自由席。さぁ、出発!とおもったら・・・「もう一グループが遅れてくるので待ってます」とのこと。結局三十分以上も乗ったまま待ちぼうけでした。やってきたアメリカ人客はパルティクラル(民宿)に分宿していたので、集合が遅くなったんだそうな。やれやれ。

列車はもとはいちめんのさとうきび畑だった場所をはしってゆく。のどかな景色である⇒

単線で何と行き違うわけでもないので、こうして三十分も待てたのだ。水のパイプが壊れたとかで、途中停車が二度ほど 乗車時間もおおはばに超過して、一時間ほども走ったあと、ようやくマナカ・イスナガの塔が見えてきた⇒

●マナカ・イスナガとは、イスナガ家が所有したマナカという土地のサトウキビ工場の場所をさしている。この塔もかの一族が建設させたもの↴

上の写真、手前の錆びたボウルはかつてサトウキビ汁を煮沸していた釜。後ろではためく白い布は洗濯ではなく地元の人たちが売りに来ているテーブルクロスなど。こうやって、彼らにとって大きな金額を外国人から得る。このスタイルが公式に許可されるようになってきたのは、ラウル・カストロになって改革がはじまってからのこと。

●伝説がある。 イスナガ家の二人の息子が同じ女性に恋をし、どちらが結婚するかを決めるために、一人は塔を建て、もうひとりは井戸を掘った。塔の高さと井戸の深さを比べると、この塔の方が一メートルだけ高かったので、こちらが勝者になったのだそうな。女性本人の意志は関係ない時代であります。 ※たしかに、すぐ近くには確かに埋められてしまった深い井戸がある。

有料1CUC、登ってみる 

眼下に、イスナガ家の邸宅=今はレストラン、が見える⇒ハバナ初日に訪れたラム酒博物館で見たこのサトウキビ農園の絵を思い出す↴

かつてここにはアメリカ資本のサトウキビ工場がずらりと並び、多くの黒人奴隷が重労働に駆り立てられていたのか。今、見えているのんびりとした光景だけで、その場所を知ったことにはならない。

 

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