旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

スビアコの聖ベネディクト サクロ・スペコ(聖なる洞窟)

2016-10-31 17:28:17 | イタリア

すごい!

カトリック教会に「修道院」という概念がもたらされたのは、四世紀にこの岩場で祈りの生活をはじめたベネディクトによる。中部イタリアのノルチャで生まれ、ローマ帝国崩壊直後のローマで学んだが、十七歳ごろに幻滅してひとり祈りの生活が出来る場所を探した。

ここスビアコでロマヌスという修道士に出会い、彼の住む崖の下にある洞窟を教えてもらう。三年間、ロマヌスがなけなしの食べ物をロープで下してくれるなどして暮らした。後年、その場所は「サクロ・スペコ=聖なる洞窟」とされ、巡礼地、そしてこの修道院が建設されていった。

そんな場所だが、現代ではそれほど苦労せずに近づける。この駐車場突き当りの道から少し登りの道をゆく⇒ 小さな階段から下を覗くと・・・

修道院がかつて使っていたと思われる畑が段になっていた。すぐに最初の写真の入口に到達する。

入口付近は13世紀頃に建設されたロマネスク様式の建築。かつては跳ね橋があった。それは、15世紀に描かれたフレスコ画の背景にも見ることが出来る↓いちばん左の部分、確かに跳ね橋が見える。頂上にはベネディクトに洞窟を教えたロマヌスが住んだ場所にある礼拝堂↓

このフレスコ画は入口入ってすぐの場所にある。ルネサンスの華麗な筆致で描かれたキリストと四人の福音者⇒そこをすぎると、天井の高い礼拝堂にでる。ここは13世紀に建設された部分↓

 

フレスコ画の洪水の中にある、簡素な説教壇がオリジナルのもの。シンプルなロマネスク的な造形である↓

フレスコ画はよく見ると何層にも重なっている。つまり、この説教壇が造られた頃よりあとに何度も画かれなおされているのだ↑それでも、現在みられるものは14世紀のシエナ派による、「キリストの受難」ストーリー

この礼拝堂の奥に至ると天井が低くなり、「聖ベネディクトの生涯」がはじまる。こちらのフレスコは前出とは別の15世紀の画き手によるもの↓なかなか面白いストーリー、少し紹介します。

★修行するベネディクトがだんだん人望を集め、近くの修道院に招かれるようになる。厳しい諫言をはばからないベネディクトは毒杯を盛られ、暗殺されそうになる。しかし、ベネディクトが十字をきると、毒杯は割れた。下はそのシーンを画いたもの↓

★ベネディクトの双子の妹スコラスティカも修道の道を志すが、兄とは一年に一度しか会う事が出来ない。スコラスティカが「もう少しいっしょに居させてください」と祈ると、外は嵐になった。神様が雨を降らせている。弟子のひとりが空を見上げている↓

★悪魔に誘惑され、修道院を飛び出そうとしたブラザー、それを叱るベネディクト↓

●修道院は崖にへばりつくように建設されているので、岩山が崩れてくるのをいつも警戒していなくてはならない。「現代はセンサーがあるが、かつてはこんな像をつくっておりました(笑)」と、案内してくれた修道士さん↓写真右下に「崖よくずれるな」と手を上げている像↓

★修道院は、下の階へ行くほどに古くなっている。そちらに、いよいよ「聖なる洞窟」があるのだ

横に小さな部屋があり、自然の岩肌がむき出しになっている。バロック時代になってから付け加えられた大理石彫刻がある。ここが、ベネディクトが三年を過ごした場所だとされている↓

おどろいたのは、この部屋の壁に使われていた緑色の筋が入った大理石の板。古代ローマ皇帝ネロの宮殿にあったものを再利用したとされている。 思い出したのは、イスタンブール(当時のコンスタンチノポリス)のアヤソフィアの壁に使われていた大理石。同じように、大理石を薄く切って開いて壁に貼る手法をとっていた↓

すぐ近くの別のロマネスクの礼拝堂⇒この部屋には、アッシジの聖フランチェスコの全身肖像画がある。なんと、これは彼が生きている時代に描かれた13世紀前半のもの。その証拠にまだ光輪がなく、生痕も描かれていない。※これについては別に書きます。

洞窟の下にある「★聖なる階段」↓ 巡礼者達が、一段一段膝まづき、祈りながらベネディクトの洞窟へのぼっていったのだそうだ↓

階段左右には「死の勝利」のフレスコ。中世にはよく描かれた主題。★若者を襲う死↓

★三人の生者と三人の死者↓

下に降りるにつれて、フレスコ画の時代はふるくなってゆく。

階段の下の小さな場所が、かつてベネディクトが羊飼いの訪問をうけた場所だとされている。そこにあるフレスコ画はなんと七世紀とされた。画き方が時代をうつしている↓

ここから出ると、修道院を一番下から見上げることが出来る。下部の丸いロマネスク壁が現存する一番古い部分↓

かつて巡礼たちがいちばん最初にたどり着いたこの入り口部分。「修道士たちの墓でした」と説明された↓

*****

再び一番上まで戻り、サクロ・スペコ(聖なる洞窟)の修道院を出る。車で少し下にあるスコラスティカの修道院へ移動。ベネディクトの双子の妹の名前が付けられた修道院。現在ではこちらの方が修道院としての主要機能を果たしている。

入口の部分に「祈れ、そして働け」のベネディクト会の標語↓

何世紀にもわたって増設されてきた建物の中心にそびえている13世紀頃のロマネスク鐘楼が夕陽を浴びている↓

これを囲むように、時代のちがう三つの中庭が配置されている。それぞれに味わい深い。もっとも古い中庭にある緯度は、よく見ると前出の「サクロ・スペコ」でも見られた色大理石のをつかってある。古代のネロ帝宮殿からの再利用ということ↓

ちょうど夕陽のさしてくる時間になった

教会部分の柱。一部は古代の宮殿からの再利用であるのが分かる。近くにはそれを模して彩色してある柱↓

ロマネスク鐘楼の基部に至る。建物の中に埋没しているが、階段の向こう部分の壁は時代が古いのが感じられる↓

入口アーチの部分には古い時代のフレスコも残されている↓

***充実したスビアコの見学を終えて、今日はティボリの街はずれにあるヴィラのホテルへ向かった

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スビアコで昼食を

2016-10-31 14:40:11 | イタリア

イタリアに来たら、こういうふうに食べたい。と、小松は思うのです(^^)

    

スビアコでガイドさんが選んでくれたレストランは、名前通り「ベルベデーレ=眺めのいい場所」にあった。車を降りて階段をのぼっていくと、テラスからはこんな景色が見晴らせる。向こうに見えるのは司教の城塞だそうだ。

前庭にシアワセそうなにゃんこ 

スビアコは古代ローマ時代に皇帝ネロが建設した人造湖が三つあった。これを知れば、街の紋章の意味が理解できる。

その湖(LACUM)の、下(SUB)というのが、この町の名前の由来である。

ネロ帝の宮殿跡は今も一部見られるかたちで残っている↓

ネロ帝がここに湖付きの別荘をつくったのは、ティブルティーナ街道から近く、すでにローマへの水道が建設されていたから。ここならば豊富な水が使えたのだ。古代のティブルティーナ街道からスビアコへの道はネロが敷設させたもの。  街道沿いには山頂の小都市がいくつも見えてくる

スビアコの街への門、ここを抜けて↓

 

さらに街の向こう側へ走ると前出のレストランに至る。

***スビアコを訪れたのは、聖ベネディクトが若い頃から修行していた岩場に建設された修道院があるから。

いずこの世界も、ありがたい場所というのはこういう立地になるようである。

・・・次の日記へ続く

 

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カステル・ガンドルフォ 法皇の夏の離宮は10/21から法皇の寝室まで見学できるようになった

2016-10-31 10:09:37 | イタリア
周囲十キロの小さなカルデラ湖・アルバーノ湖のリムにあるカステル・ガンドルフォの街。
ここは法皇やら歴史やらに興味がなくても訪れる価値がある。
我々の泊まったホテルからの夜明けの神秘的なカルデラ湖が見えた。

★⇒こちらから動画もご覧ください


周囲十キロの湖の中央は168メートルととても深い。
夏によく泳ぎにきたというガイドさんは「真ん中に行くと吸い込まれるから」と子供に注意していたそうだ。


昨夜は星空が楽しめた↓

 


朝食を終えて

八時半に歩きはじめた。

旧市街のメインストリートは法皇の「使徒宮殿」へ向かってゆっくり上り坂になっている。
そこから湖へ開けた小道を見通す。

多くの観光客はローマからやってくるからこの時間の旧市街ひっそり静か。
旧市街の道にはB&Bぐらいしかない。

★法皇宮殿前に到着↓

ベルニーニがつくったと言われる噴水が置かれている

法皇宮殿は九時に開く。
就任三年目となるフランシスコ(イタリアでは「フランチェスコ」)一世法皇は、贅沢と思われることはどんどん廃止していている。
1628年以来ほぼ歴代の法皇が滞在してきたカステル・ガンドルフォの使徒宮殿も例外ではなく、法皇は今年の夏やってこなかった。
そして、10/21からは法皇の執務室や寝室・個人礼拝堂のある階まで一般公開されることになったのである。
つまり今日は、つい十日前から一般見学できるようになった場所へも行けるということ。

こちら↑開館時間の掲示板も真新しい。
入口を入ると美しい庭園がちらりと見えた。
ここの庭園もかなりの見どころだそうな。

↑入場券の写真がその庭園↑
ローマ近郊庭園めぐりの旅の企画もおもしろそう(^^)


●法皇宮殿の中庭に面して小さなバルコニーがある↓

ここに法皇が登場して、中庭にぎっしり詰まった(三千人とか…とても入りそうにないけれど)人々に祝福を与えていたのだそうだ。
イエズス会出身フランシスコ法皇の紋章が刻まれている。

中庭に置かれたこの車は↓

ヨハネ・パウロ二世が巡幸の時につかっていた防弾ガラスがはめられたもの↑
↑ナンバープレートはSCV(State of City Vaticano)、
1番が法皇の車ということ。

古い螺旋階段は馬も上がれる構造のようだ↓

これまでも公開されてきたミュージアム。

下は、ボルゲーゼ家の家紋が入ったストラ。赤い帽子は枢機卿のものなので、法皇パウルス五世になる以前の、カミーロ・ボルゲーゼだった時代のものであろう↓



アルバーノ湖を見晴らすテラス


法皇の行列が再現されていた。先頭をゆく人物が持っている先端の丸い道具は何?↓



マッツィエーレ「Mazzaを持つ者」はこの棒で地面を叩きながら行列を先導していたのだとの説明。道ならしなのか武器なのか、いまひとつ用途が見えない。後に形式的な道具になったということなのだろうけれど。


こうした大袈裟な行列はパウスル六世(位1963-1978)が廃止した。彼は古い慣習を次々に変えていった革新的な法皇で、カトリック以外のキリスト教指導者とも積極的に会談した。ラテン語以外の言語でもミサをすることを公認し、八十才以上の枢機卿の投票権をなくし、世界五大陸を訪れたはじめての法皇になったそうだ↓



パウルス六世が亡くなったのは、ここ、カステル・ガンドルフォの使徒宮殿。10/21から公開がはじまった法皇の寝室においてだった(写真は後出)


歴代の法皇の肖像画が、いろいろなスタイルで展示されている。現フランシスコ一世法皇のポートレートが最後に登場↓



入場者も増えてきた午前十時 ここから後が、十日前から一般公開されるようになった場所。「私もはじめて訪れます」とガイドさん。真新しい英語の解説を手渡されて上の階へ


博物館から雰囲気は一変した。壁にかけられている絵もすべてホンモノ。



ここからの部屋を修復したのは、ムッソリーニと和解して半世紀ぶりにローマを出てカステル・ガンドルフォを訪れたピウス11世である。床にその名前と、「即位12年目」と書かれている↓



部屋の入口それぞれに同じように刻まれている↓こちらは「12年目」



執務室を過ぎると枢機卿の会議や任命式が行われた部屋がある。ヨハネス23世法皇はここで枢機卿に任命された↓



二面に窓がある角に、ローマ法皇の寝室があった。この部屋で、前出のパウルス6世法皇は亡くなったのである。


しかしまた、ここで生まれた命もあった↓「法皇の子供たち」と呼ばれる。それは?



「法皇の子供たち」★第二次大戦中の1944年、アメリカ軍ががイタリアに上陸し、ドイツ軍との戦いで多くの難民が出た時、この宮殿は周辺からの避難民1万2千人に解放された。なかでも「必要のある」女性と子供たちにはこの階が提供され、五人の子供たちがここで誕生したのだそうだ。


ヨハネ・パウロ二世は、暗殺未遂で銃弾をうけたあと、この部屋でリハビリ生活を送っていた。


寝室のすぐ隣には巨大なイコンが飾られた礼拝室。この黒いイコンはポーランドのチェンストホーヴァにある「ヤスナ・グラの聖母」の複製品である。第二次世界大戦直前の時期に世界平和のために奔走したピウス十一世の希望でここに置かれることになった↓



クラシックな「アレクサンドル七世のギャラリー」をぬけて↓地上階へ降り、外へ出る



地上階へ降り、外へ出る



向かって右側にある「ヴィラノーヴァの聖トマス」教会はベルニーニの設計とされている。わりにすっきりしたバロック空間。天井のドームはパンテオンを思い起こさせる


周囲の店には、フラスカティの白ワインや ペコリーノチーズなど


ローマからやってくる人でにぎやかになった午前11時過ぎの使徒宮殿前



***午後は聖ベネディクトが修行したスビアコを訪れます

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八郎潟干拓 大潟村は日本のオランダだった

2016-10-23 12:00:21 | 国内

1月《手造の旅》スリランカにご参加くださる秋田の方にお会いしに日帰り説明会。スリランカの説明もしたけれど、それ以上におもしろい場所をみせていただいた。

 

 

車が走っているのは海面下3.7メートルの土地。平らな地面にまっすぐな道。横を走る運河と並木道。めまぐるしく変わる天気、早く流れてゆく雲。風車はないけれどオランダのような景色だ。

 

 

ここはかつては琵琶湖に次ぐ日本で二番目に大きな湖だった八郎潟。干拓前には汽水の豊かな漁場であった。昭和三十年ごろの写真を見ると「ここがほんとうに、こんな土地になったのか」と驚く↓

 

 

オランダが何百年も培ってきた干拓技術によって、なんと、山手線の内側と同じぐらいの面積をもつ大潟村が出現した。

 

村の博物館へ到着。道の駅のとなりに併設されているとても立派な施設。さっきの雨雲はながれて、青空になった 入るとすぐに、こんな展示↓木製の小舟が頭上高くにある↓

 

 

この場所が海面下3.7メートルだと実感してもらうための工夫。今日はわざわざガイドさんを予約しておいてくださった。昭和44年(大阪万博の前の年)第四時募集で入植したIさん自らのお話は、苦労も楽しみも分かりやすい。

 

Iさんが指し示す「これが干拓開始前の八郎潟」⇒ 現在はこんなふうになっています⇒

 

潟の中に堤防(オランダ語と同じく「ポータル」と呼ばれている)で囲まれた土地は山手線の内側と同じぐらい。52㎞の堤防(ポータル)は、昭和32年から七年かけて建設された。最後の堤防(ポータル)が閉じられる時の映像を、あとから見せてもらった⇒ そこから干拓がはじまり⇒ 標高二百メートルの山がひとつ消えるほどの土を入れて、農地をつくっていったのだ。

 

下の模型で緑色に見える土地が出現したのである↓

 

 

海面下の土地は、出来上がっても24時間365日排水し続けないと浸水の危険がある。 オランダで行われているのと同じように、大潟村も二か所の水門で合計八台の巨大な排水ポンプが稼働し続けている。

 

●八郎潟を干拓して農地にしようというアイデアは、江戸時代からあった。なによりも食料・米の増産の為だ。

 

食料増産が叫ばれる時代は戦後も続き、昭和三十年代にこの計画はオランダの協力を得て大きく前進した。全国からやる気のある若い農民が募集され、テストに合格した者が研修を受けた。当時高価だった農業機械を導入した、新しい農業。当初は四千八百人が募集されたが、一家あたりの面積を大きくするために三千人ほどに変更されたそうである。

 

※入植募集の話は⇒こちらの大潟村HPに詳しく書かれています

 

農地の平均は15ヘクタール。全国平均よりはずっと大きいが、北海道の23ヘクタールよりは小さい。そういう規模。

 

家は同じ三角屋根・レンガ造りを与えられ、地区によって屋根の色が違っていたのだそうだ。ご案内の石原さん曰く「三角の屋根は見かけはいいけれどつかいにくくてねぇ。レンガの家は冬はあったかくてよかったけれど、湿気はこもるのよ」その模型がこれ↓

 

 

この中に蝋人形で再現された、当時の寄合の様子があった。稲を手に研究熱心・・・に見えたのだが、※ちょっと面白い内輪話⇒こちらに書きました

 

★小松の見てきたオランダとの比較・・・干拓した土地が実際に農耕地・居住地として使われるまでに、オランダでは二十年から四十年の年月をかけている。水を抜いた土地に土を入れるだけではなく、何度も葦をまいては焼いて、少しずつ地面を安定させてゆく。17世紀から何百年もかけてオランダが学んだ方法なのである。  一方、大潟村ではそのプロセスがとても短い。干拓完了後二年の後にはもう入植がはじまっている。これが、入植者の地盤との長いたたかいが起きた、根本的な理由であろう。

 

水を抜いた干拓地は、標高二百メートルの山がひとつ消えるほどの土を入れた。それでも、田畑は軟弱で、重いトラクターが時にずぶずぶと沈んでしまったのだそうだ。 動けなくなったトラクターを見ると「亀になった!」と助けを呼びに走った。博物館には実際に「亀になった」トラクターの実物が展示されている↓

 

 

●時は流れ、日本は飽食の国となった。米農家には「減反」が強要される時代がやってくる。 これほど苦労してつくりだした農地は必要なかったのか? いやいやそんな事はない。大潟村の美味しい米の需要、最近では付加価値ある農産物への需要は、むしろ現代だからこそ世界から注目される。

 

入植第一世代がそろそろ引退の時期を迎えているが、希望ある大潟村の農業は、大潟村を故郷とする第二第三世代に受け継がれているように見える。 ご案内いただいたIさんの息子さんは十七年の会社勤めの後、三十七才でこの村へ戻って後を継ぐことを決めた。

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スペイン・デイ開催

2016-10-23 11:17:32 | 国内

旅に出ない時にも旅を楽しんでいただくためのイベント。今年前半の「スイス・デイ」に続き、二回目は「スペイン・デイ」。

前回と同じく、友人の旅行会社「ベルテンポ」の旅サロンにて二十人ほどで開催した。

お話しするだけじゃなくて、スペインの味覚も楽しんでいただくべく、チーズとオリーブ・オイルをそれぞれ三種類用意。

☆こんなお皿でちょっとずつ↓

※クロアチアの旗も立っているのは、数日前に小松がクロアチアで買ってきたチーズもあったので、味比べにとお出ししたから

●チーズの種類は、スペインを代表する◎マンチェゴと、北スペイン・ガリシアの◎サン・シモン・ダ・コスタ(こちら燻製チーズ)

スペインではチーズを「メンブリージョ」なるものと一緒に食べる習慣がある。これは、マルメロのジャムを日本の羊羹の様に固めたもの。パラドールなどの朝食でも出されていてよく見かけていたのだが、今回の企画をしてはじめてちゃんと認識した。 日本で入手しようとしたが、なかなか見つからないし、高い!

バルセロナに行った友人に買ってきてもらった↓

↑メンブリージョはマルメロのジャムを煮詰めたようなもの。自分でもつくれてしまうような、昔からどこの農家にもあったもの。しかし、日本ではほとんど手に入らない。この半分のサイズで二千円もする。スペインでは、倍のサイズで一ユーロ五十セントもしない(百五十円ほど)のである。

準備もたのしい(^^)↓

●オリーブオイル~「エキストラ・ヴァージン」と言っても、オリーブ自体に何十という種類があって、それぞれに味わいが違う。 それらを同時に比べる機会はなかなかない。今回、三種類を比べて、味わった全員が、はっきり違いが理解できた。

①写真左↑スペイン南部アンダルシアを中心にした地方に多い「オヒブランカ」種に「ピクード」種を加えたもの。前者の苦みを抑えるために後者を混ぜるのだそうだ。

②写真右↑「アルベキーナ」は、バルセロナ近郊の主要品種。小粒なので、量を追い求めて生産していた時代にはほとんど栽培されなくなっていた。

しかし、味わいの良さはすばらしい。質の良さを求める生産者が復活させて広まったそうな。三種の中で、はっきりといちばんまろやかで、オリーブオイルに慣れない日本人の口にいちばん合う品種だと感じられた。

③写真中↑「ブジャ」は、小松がちょうどクロアチアへ行ったので帰りに買ってきたもの。イタリアとの国境に近いイストラ半島で主に生育されているのだそうだ。苦みもあるが、それ以上にフレッシュな青い香りが感じられる。

●ポルボロンというのは、スペインの修道院で昔からつくられてきたお菓子。スペインのカフェでこんな風に出されている↓

小松は知らなかったが「口の中で『ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン」と三回唱えて願い事をして、いただくのだそうだ。

お茶は●マンサニージャ。リンゴ茶という感じでしょうか。

**

●「いつかショッピング」と名付けたコーナー

海外で、そこでしか手に入らないお土産品というのは、観光客がいつでも探している。◎フェイラーのタオルハンカチの限定柄とか、アマルフィのノット(結び目)のキーホルダーとか、

「いつか、次にいったら買ってきてあげます」という、空約束(笑)をする、コーナー? 

☆ ★ ★グループ「セミナトーレ(「種を撒く人」の意)」スタート!

これから、新たな旅造りを、同じ旅造りの情熱を持った友人たちと勧めていきます。

 

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