キプロス視察最終日の午後は、レフカラ村へ。2009年世界無形遺産に指定されたレフカラレースは、伝承では1480年ごろにダ・ヴィンチがファマグスタ要塞建設のアドバイスにキプロスにやってきた時に、お土産に買って帰ったとか? キプロス女王カタリーナ・コルナロが故郷ヴェネチアへの手土産にしたとか。
「レフコ」とは、白いという意味なのだそうで、民家の壁に白い石を使っていたからだとか。レフカラ上の村と下の村を俯瞰すると、「そうかもしれない」と思えるギリシャの島によく見られるスタイルとイタリアの山間部の村を足したような味わいに見えた。標高は600メートルほど。約1000人ほどが暮らしている。
「日本に村をPRしてくれる旅行団がやってくる」との広報で、市長のサヴァスさんはじめ村をあげて迎えてくれた。テレビもやってきて、我々が市庁舎へ入るところを映している
式典のあと、レース展示場を訪れる。 この手のモノに知識の足りない小松だが、たしかにすばらしいレースに思えた⇒ 銀細工も有名だそうで、これはいわば香炉⇒銀自体はこの島ではとれない。
中心になる「聖十字架教会」ここの建設には1341年ルジニャン家のヒュー三世が資金を出したと伝わる。
★教会の裏手から街並みを見ている時、モスクのミナレットが目についた
「この村にはイスラム教徒もいるのですか?」と訊ねてみると、「1974年までは仲よく住んでいたんだ。最近まで一人いたけど亡くなって、もうイスラム教徒はいなくなったよ。」とのこと。誰も使わなくなってもしかし、モスクはちゃんと手入れしてある雰囲気が伝わってきた。
キプロスは北のトルコ系、南のギリシャ系と分かれているが、住んでいる人々の感覚はのトルコ国民やギリシャ国民と同じではない。民族と宗教を超えて「キプロス人」という自覚をもっているの伝わってきた。これは、今回の実際に訪れてみて、はじめて知った事実である。
キプロス島の人々は、ヨーロッパや中東で起きている宗教や民族の争いとは一線を画したところで生きてきた。
この半世紀ほどは英米ギリシャとトルコによって、地理的に分断されてしまったが、それほど遠くない日に、ふたたび「キプロス人」としてひとつに統合できるのではないだろうか。 レフカラ村の人々はその日を期して、モスクもちゃんと手入れしているのではないだろうか。そんな風に思えてくるのです。
町をあるくと、伝統のお菓子の試食 また、あ!あの実をむいている。先日デザートで出してもらったのは、これを砂糖漬けにしていたのか↴
町の人と会食がはじまる 市長も加わっての会食、地元のおいしい料理がずらり目をひいたのが、TAVASというお米の煮込み料理。米と玉ねぎ、トマトにズッキーニ、ミント、クミン、最後にうえにポテトをしっかりのせて、この丸い器ごと焼き蒸す⇒お米好きの小松だけでなく、日本人全般に合う味だと思う。
小松の隣に座ったのは、市長の三男ヨルゴスくんだった。ロンドンの学校で勉強して七年前にキプロスに戻り、今はニコシアの銀行で働いているという。
「キプロス金融危機の時たいへんだったでしょう?」ときいてみると、「あれはとんでもない措置だった」と、クールながらも政府批判。預金の3%を強制徴収なんてとんでもないですよね。
空港のあるラルナカにもキプロスに来たら是非訪問したい場所がある。新約聖書に出てくるラザロの埋葬地になった教会。キリストが死後三日のラザロを復活させたが、その後ラザロがキプロスへやってきたというのであります。この教会の地下からその棺がみつかり「ラザロ、三日の死」と刻まれていたのだそうな⇒
夕方のミサが行われていた教会、今度来るときにはゆっくり見学したいです。
すぐちかくに美しいビーチがある。今回ロンドンから来てくれたスタッフの一人は奥さんがキプロス人。子供たち連れて毎年ここに滞在していたのだと、懐かしそうに話す。「このアイスクリーム屋の彼女は、うちの子供達がこぉんなに小さな時から知ってるんだ」⇒
美しい夕景をみながら、ぎゅっと詰まったキプロス視察を締めくくる。 ぞろろに海岸を歩くと、なんだか南フランス・ニースのプロムナード・ザングレに似た風を感じていた。