旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ゴッホのアルル

2021-01-30 09:56:58 | フランス
2004、2005、2009、2013南フランスの旅より
ゴッホが「耳切り事件」を起こした後に療養していた病院が「エスパス・ヴァン・ゴッホ」になっている。

病室から見える中庭

今はゴッホが画いた絵に合うように花が植えられている。

アルルでの一年と少しの期間はゴッホの生涯で激動期。
ゴーギャンとの共同生活がはじまろうとするわくわくした頃に画いた「夜のカフェ」


※このカフェのある広場の地下に広がる古代ローマについて載せました

「ローヌ川の星月夜」もわくわく期に画かれた作品。
やってくるゴーギャンのために、あの「ひまわり」も画いていた時期にちがいない。
共同生活をしていた10月からクリスマス前までの二カ月に、ゴッホは三十点以上・ゴーギャンは二十点以上の作品を描く。
絶好調に影響を与え合っていた時期ではあったのだ。
だが、個性の強い二人は衝突し「耳切り事件」が起きる。

「片耳の無いゴッホの像」
本人が見たらあんまり嬉しくないだろうなぁ。
この事件、ほんとうにゴッホが自分の耳を切り落としたのか、わからない。
けんかの時にゴーギャンが得意のフェンシングの剣で切ってしまい、それをかばうためにゴッホが「自分で切った」と言ったのかもしれない。
真実は、わからない。

もしもここでゴーギャンがゴッホの友人として留まることができていたら、その後のゴッホの精神はもう少し安らかだったかもしれない。
たったひとりでも理解してくれる友人があれば、人生はまったくちがったものになるのだから。
**

郊外にある跳ね橋。
ゴッホが画いたものと同じではない。
再建されるとき、ゴッホの絵をイメージして、海への運河に移築されたもの。
オランダ人であるゴッホはアムステルダムで↓運河にかかるこんな橋を見ていたから懐かしさも感じたことだろう↓




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中世のアルル~サン・トロフィーム聖堂とその回廊

2021-01-28 10:35:20 | フランス
2009年南フランスの旅より
石打ちの刑で殉教する聖ステファノの口から子供のカタチをした魂が抜けだす。
それを天使たちが天上の神の元にいざなっている↓

サン・トロフィーム聖堂の入口を飾る12世紀の彫刻。
↑石を打ちおろそうとする二人、魂を引き上げる有翼の天使二人、実にバランスよくデザインされている。

右下には旧約聖書に出てくる「ライオンの穴に落とされたダニエル」だろう↑
↑襲ってこないライオンたちの間でまどろむダニエル↑

サン・トロフィーム聖堂の入口アーチはフランス全土でも指折りのロマネスク彫刻である。
12世紀に建設されたこの門は、古代ローマのグラヌム遺跡にある門をモデルにしたという話もある↓

↑たしかに似た形状だけれど、どうなのかしらん。

市庁舎(旗の出ている建物)前の広場に面している↑
↑広場中央のオベリスクはローマ時代のものと解説されたガイドブックもあるがそれにしてはいびつなカタチ。
中世にローマ時代を模倣してつくられたように感じられる。
入口アーチの細部をもう少し↓

↑アダムとイブが禁断の実を食べるシーン↑

↑大きな翼の大天使ミカエルが最後の審判の天秤を持ち、天国に引き上げられる魂が手を合わせている。

↑十二使徒が自分の名前が書かれた巻物を持っている
↑左がバルトロメオ、右がヤコブ(スペイン語ではサンチャゴ)

↑そのひとつ内側に、天使が冠をかぶせようとしている聖トロフィーム
もともとこの場所にあった古い教会は聖ステファノ(冒頭の石打ちの刑で殉教した)の名前を冠していたが、1152年に聖トロフィーム(三世紀はじめアルルの司教)の聖遺物が持ち込まれ、彼に捧げられる教会に変えられた。

↑こちらは併設された回廊にある聖トロフィームの像↑


教会内部↑二十メートルの天井は12世紀のロマネスクにしてはかなり高い↑

祭壇に使われている石棺↑旧約聖書でモーゼが紅海を割ってユダヤの民を逃すシーン↑
↑真ん中部分に波にまかれる追っ手=ローマ軍が画かれている。
こういった石材、古くは4世紀ごろ=キリスト教公認最初期のものをアリスカンから持ってきて使ったと想像される。

↑ロバに乗ってエルサレムに入場するキリスト


北スペインのサンチャゴへの道に残された彫刻群にも通じる。

教会に併設された修道院の中庭にも12世紀の彫刻が残されている。



↑修道士たちが使った井戸のヘリがロープで深くすり減っている↑

回廊の二階部分も歩くことができる。

修道士たちが何百年も座り続けてきただろう長いベンチ。
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アルル~地下と地上のローマ

2021-01-27 21:34:27 | フランス
2004,2009南フランスの旅より
アルル旧市街、ゴッホが描いた「夜のカフェ」

今も営業している。

ゴッホが絵の中で黄色く描いたのに合わせて黄色に塗られてしまった(笑)
↑↓カフェの椅子がならぶフォーラム広場↓フレデリック・ミストラルの像後ろ左手の壁に紀元後二世紀の神殿が埋め込まれている。
↓この地下にはローマ時代のフォロが残されていると、地元のガイドさんにいつも解説されていたがなかなか入るチャンスはなかった。

↓通常のツアーでは時間がなくて入れないが↓2009年に唯一訪れる機会をいただいた↓

そこには驚きの地下空間がひろがっていた。

この巨大なアーチはなんだろう?
アルルはローヌ川デルタの入口に位置している。フォロ(広場)の基礎に大規模な土木工事を施すことはローマ世界でよく行われていた。空間は貯蔵庫に使われていた?(外光が入る窓もあるので)単なる遊歩道だった?…定かな用途はわかっていない。
考古学調査によってアウグストゥス像などが見つかっている。

この地下道への入口は「古代美術館」に隣接している。

同じく、すぐ近くにある市庁舎の階段には↓「アルルのヴィーナス」が飾られている↓

1683年にアルルの古代劇場で見つかり、ルイ14世に献上され、ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」に置かれていた。

本物はパリのルーヴル美術館所蔵※ルーヴルの日本語ホームページに専用の解説ページがあります

★プラクシテレスが制作したブロンズ作品をローマ時代にコピーしたものではないかとされている。プラクシテレスは本人の作品が一作品も伝わってないのに名匠中の名匠とされている※こちらにアテネ考古学博物館にある関連する作品を載せました



アルルのローマ遺跡というとまず浮かぶのがこの円形闘技場↑


↑圧倒的で強固なアーチ
周囲の景色が中世から現代に移り変わっても、二千年近い年月あり続けてきた。

**

こちらが「アルルのヴィーナス」が発掘された古代劇場

今でも催しが行われる。


***
ローマ時代は長い。
フォーラム広場の地下が建設されてからほぼ二百年後、
キリスト教徒公認したコンスタンティヌス大帝時代4世紀に建設された巨大な浴場があった。

その外壁の一部がほぼ完ぺきに残されている↑

****

我々の泊ったホテル「アルラタン」は中世に怪物タラスコを退治したという伝説の騎士に由来する。

ここの床下にもローマの遺構が残されていた

4世紀の道路と銅像の台座↑
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ヴェゾンから「フランスの美しい村」をめぐる一日

2021-01-25 14:37:17 | フランス
2009年南フランスの旅より

一般ツアーが行程に入れなくても訪れるべき美しい村はたくさんある。
ヴェゾン・ラ・ロメーヌに連泊した中日の午後

↑地図の一番上ヴェゾンから、ただ車で走るだけなら一時間ちょっとの距離を村巡りした。
★セギュレ村↓町の名前の下に「フランスの美しい村」加盟を表す看板↓

プロヴァンス方言の「安全」という意味から名前がつけられたといわれる丘の上の要塞都市。

12世紀の門から入る



17世紀の「マスカロンの噴水」

七世紀に修道院ができたことがルーツとされるが、トゥールーズ伯などいくつかの領主の支配の後1274年にローマ法王の直轄地となった。

10世紀からのサン・ドニ教会はずっと最重要の教会だった。

高台から↑


昼食をこの村で
●AOCジゴンダスの産地を抜けてゆく

**丘の斜面にぽつんと見えてきたのは
★Notre-Dame d'Aubune礼拝堂

プロヴァンスのロマネスクの好例だというのだが、ぱっと見一般住居のように改造されてしまっている。

12世紀ごろのものとされる鐘楼

後陣の方へまわってこの美しい円筒形を見てやっと納得した。

厚い壁を支えるバットレスも小ぶりなロマネスク。

もとの入口があっただろうあたりは民家のように改築されている。
内部へは入れなかったが、訪れた甲斐はある場所だった。

***
★ボーム・ド・ブーニーズ甘口のミュスカ(マスカット)種のワインを生産することで有名な村




村を抜けてゆくローヌのワインルート


★シュゼット村へようこその看板

ひと目でロマネスク(^^)


★クレステはヴェゾンの司教の城があった

小さなノートルダム門から

中世の街に入る



共同の水場がのこされいる

かつての水源はどこにあったのだろう

遠方からでもよくみえていたサン・ソヴゥール教会の尖塔

さらに登っていく

クレステ城の前に出た。

※1189年にトゥールーズ伯がヴェゾンを攻撃するとヴェゾンの司教はこの城に逃げ込んだ。
トゥールーズ伯レーモン父子によりさらに二度も攻撃されたが、1586年以降はフランス革命までのあいだ司教の所有となった。
この城はフランス人建築家によって買い取られその私邸となっていたそうな。




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ヴェゾン・ラ・ロメーヌ~聖クナンゆかりの中世ロマネスクの教会

2021-01-24 08:21:26 | フランス
2009年南フランスの旅より
他に例をみない三角形の後陣

聖クナン礼拝堂は畑の中にぽつんととりのこされている。
※Quenin→フランス語読みでクナン、英語でケニン、ラテン語ではQuinidiusクニディウス

現在みられる建物は12世紀ごろのものと推察されているが、使われている石材の装飾から、もとはもっと古い建物があったのかもしれない。

古代ギリシャ・ローマのコリント式を連想させる柱頭

その中心に不思議な顔が小さく刻まれている↑これが何を表すのかは解明されていない。

内部は公開されていないが↑入口扉の上部に刻まれた葡萄つる草とワイン甕に十字架の文様↑
ヴェゾン・ラ・ロメーヌ市の紋章は、この古代ギリシャ・ローマをまねたこの装飾がもとだったのか↓市の紋章

**
上の礼拝堂の名前になった聖クナンの墓は、350m離れたナザレの聖母マリア大聖堂にある。

主祭壇下に安置された簡素な六世紀の石棺↓

1950年代に調査した際に、中から聖クナンのものと思われる骨が発見された。
※ヴェゾンの貴族の家に生まれたクナンは若くして隠者となりその後修道院に入る。西暦556年に故郷の司教となり、579年に没してここに葬られた。

六世紀からの構造がほとんどそのまま残っているとされる突きあたりの後陣部分↑

↑縦長のゴシック調の窓は後から開けられたように見える。
↑立派な一本石の柱はローマ時代古代の建物から流用されたものだろう。

クナンの石棺はこんな風に置かれている。

↑古代の柱がそのまま。これはいったい?

↑用途がはっきりわからない儀式用の石のテーブルが残されている。

古代彫刻の影響を感じさせる美しさ。

↑トーがをまとった人々が刻まれているのは西ローマ帝国滅亡前のものだろうか。


修道院時代の回廊が併設されている


ロマネスク様式の列柱が基にあって、のちに修復されているようだ。

**

外部に出てみると↑ロマネスク本来の円筒形構造をはっきり見ることができた↑

※教会の基礎の部分にそれ以前の神殿?の柱が使われている。

ローマ帝国が崩壊して支配者がくるくる入れ替わる時代。
人々のよりどころは国ではなくキリスト教であった。

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