旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

富良野演劇工房、カンパーナ六花亭、来年はここで森のランチを

2016-09-26 10:16:30 | 国内

富良野演劇工房は立派な劇場だった

客席よりも舞台を広々とっていて、演者や演出者の事をよく考えられたつくりになっていた。

ここで、毎年行われるという富良野塾OBによる演劇、一度見てみたい。2017の《手造の旅》がうまく合わせられれば、きっと楽しいサプライズになるだろう。実現できるかは、まだ分からないが。

明るいロビー

貴賓室の一角には倉本さんがお使いになるというデスクがあった

**富良野塾OBの方がやっているというトマト農家を訪問した 無農薬でとても手間がかかるが、おいしくて安全なものを地道につくっていこうといいう姿勢が伝わる場所だった 「ズッキーニです、そのままにしていたらこんなになっちゃった(笑)」⇒

***さらに車を走らせて、元富良野塾の敷地へ向かう。「この先は塾生たちしか来なかった道です」。途中から道は狭くなり、範奏する小さな川は先日の台風で氾濫し、あたりは水浸しになったそうだ。流れてきた大きな木が、橋にたくさんひっかかっていた。

到着↓

この場所には、つい先日東京のレストランを閉めて移住してこられたご夫妻がお住まいになっていた。 

住む場所も、これからご夫妻ががつくっていこうとする場所も、まだ見えてきてはいない。しかし、お二人の言葉から、自分たちがほんとうに「あるべきだ」と思う生き方を実現しようとしている気概が伝わってきた。「馬が大好きなので、ここに馬を放そうと思っています」「この窯で焼いたらおいしいと思いますよ」

天気の良い今日は作業にちょうどよい。着実に、お二人の夢はかたちになってゆくだろう。一年後に、そこへ少し加わらせていただける機会がありますように。

****

この下見旅の最後に、「カンパーナ六花亭」に寄った。ここのジンギスカンもおいしいそうだが、今日はお休みの月曜日。

何人かからお勧めいただいた場所。葡萄畑に向かってひらかれたテラスが気持ち良い。

↑無効に見える富良野岳にある「凌雲閣」にも泊まれるようにしたいとおもっている。2017年9月催行予定《手造の旅》富良野、ぜひご参加ください!

 

 

 

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富良野自然塾のプログラム

2016-09-26 07:34:16 | 国内

★★★2017年9月《手造の旅》で訪れる「富良野自然塾」については⇒こちらのページから内容をご覧いただけます。

新富良野プリンスのすぐ裏はゲレンデこのケーブルに乗って山頂へいくのも気持ち良いだろうなぁ。

朝食はパン屋さんがあるので焼きたてのパンを好きなだけ、果物やスープや濃いヨーグルト、牛乳といったメニューと共にいただきましょう↓ ※一般的ないわゆるバイキング朝食もあります

すぐ前は気持ちい森。アスレチックはもう開いている。

2008年のドラマ「風のガーデン」に使われた庭園はシャトルバスですぐ

「北の国から」をはじめとするドラマの記念館もある

***今日は、脚本家の倉本聰さんがはじめられた「富良野自然塾」の見学。車で五分の富良野プリンスへ移動。「新」に比べるとクラシックな雰囲気。良い感じなのだが今は修学旅行などを中心に使われている この中に、「闇の教室」という部屋がある。事務局の中島さんにご案内いただいた↓

 「闇の教室」って何をするところ? 「視覚を失って、自分を取り戻す場所」と定義できるかもしれない。

現代で真の闇を体験することは、まずない。視覚を失った世界に入ると、人は匂いや音や感覚を研ぎ澄ます。踏みしめる地面も、味わう食感も、肌に感じる空気も、新しく感じられるに違いない。

※小松がすぐに思い出したのは、東京に常設されている「ダアログ・イン・ダ・ダーク」というドイツ発祥の教育プログラム⇒こちらもたいへん価値ある体験になります。

「富良野自然塾」はホテルのすぐ外に元ゴルフ場だった広い敷地をつかって展開されている。

ゴルフ場だった場所を、人の手で森にもどそうというプロジェクトが進行中。《手造の旅》においても、プログラムの一環の植樹をしていこうと思う。

スタート地点に倉本さんのこんな言葉が掲げてあった↓

リーダー中島さんの話は、地球そのものの構造からはじまる。この球がそれ。内部構造、我々の生きている大気圏がどれだけの厚さ(薄さ)のものなのか。語り手が基本役者さんですから、惹きつけられる語り。今回は概略しかお聞きできなかったけれど、来年、是非ぜんぶ体験させていただきたいと思った。

そして、地球四十六億年の歴史を、四百六十メートルに表現した道へ。我々が今立っている場所がどのようにして出来上がってきたものなのかを実感するために、歩く↓

人類などというものがこの地球に誕生したのは、四百六十メートルのうちの一メートルにもならない。文明や機械化が「発展」したのは数センチ。

しかし、その数センチの時間が地球環境に及ぼしている影響がどのようなものなのか。我々自身の手でもういちど取り戻すべきものは何なのか。そして、どのような方法があるのか。

ちょうど、整備の過程で出たウッドチップを集めているところに出会った⇒これらも捨てるのではなく、生かせる場所を探しているのだと、中島さん。

※自然塾のフィールドには、他に約三百メートルの「裸足の道」もあり、こちらの体験も可能です

****

「富良野自然塾」のスタートは、倉本さんが俳優を育てるためにはじめた「富良野塾」が元になっている。二十五年続けられた俳優養成塾は、一応終了したが、コンセプトはかたちを広げて、続けられている。

こちらから内容をご覧いただけます。

続いてご案内いただいた★富良野演劇工房★ りっぱな劇場でびっくり・・・次ページに続く

 

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富良野視察、「美瑛選果」に併設のレストラン「アスペルジュ」へ

2016-09-25 22:12:40 | 国内

北海道には豆を使ったパンの伝統があるというのを、このパンを見て実感した。札幌空港限定販売、美瑛選果の「豆パン」

小豆をのせているだけでなく、中にもぎっしり詰まっていた。

このパンのほかに、同じ店で焼きたてをうってくれるコーンパンも人気。外見はこのていどだが

中にはコーンがぎっしり↓

空港で美瑛選果の名前を知って、富良野にある美瑛選果(こちらはJAが運営)に併設されている、レストラン「アスペルジュ」へ行ってみることにした。

行ってみて知った事だが、このレストランは「ラパンフーズ」という北海道の食材にこだわった会社が運営していて、札幌のモエレ公園にある「ランファン・キ・レーヴ」には2014年に札幌在住の方に連れて行ってもらったことがあった。

★⇒2014年の「ランファン・キ・レーヴ」のお皿を載せたモエレ公園訪問の写真日記をご覧ください

店内は北欧風デザインで、明るくすっきりしている↓

よくあるブルスケッタだが、トマトとオリーブオイル両方が秀逸↓

サラダは彩ゆたか↓富良野産の野菜二十種類をつかっているそうな。左の細い赤い野菜は「スイス・チャード」なるもの。あとから訪れたお花畑の売店で売っていた。左のお皿のイモパンも、さっきのお皿と同じく青みを感じさせるフレッシュなオリーブオイルの風味がする。いくつでも食べられそうだけれど、あとの為に、ひとつにしておこう↓

続いて出されたこの泡は?↓実はこの下にふわっとしたマッシュポテトが隠れていたのです↓メニューでは「ジャガイモのピューレ」とだけ書かれている。

「茹で上げブロッコリー 一晩マリネした完熟トマトの低温ロースト」↓

「美瑛産豚ロースのグリル」はみしっと音がする感じの柔らかすぎない肉。付け合せの玉ねぎは、熱い鍋で出されてきて、そのソースもパンでぬぐってたべたい↓

デザートもおいしかったけれど その後で出された、これは何?↓

なぁんとマシュマロなんです。お皿に載せられているのは黒豆をチョコでコーティングしたもの。

★充実したこのランチ、七月八月の混雑時には団体予約はとってくれない。九月の空いたタイミングならば、OKとのことなので、2017年9月《手造の旅》で、味わっていただきたいと思います(^^)

***富良野へ向かう入口で、いきなりこんな花畑がみえてきて、車を止めた

九月ではもうラベンダーは終わっているから花は期待していなかったから、これはサプライズ

売店で売られていたスイス・チャード↓あ、さっき食べたフキみたいなのはこれだったのか

**

新富良野プリンスへチェックイン。売店で旭川の「ユーカラ織」のコーナーを見つけた。これ、三十年前に国内添乗をしていた当時、「ユーカラ織記念館」で何度も見て、その品の良さ・日本的な美しさが気に入っていた。

ユーカラ織は「優佳良織」と表記する。すごく歴史があるというモノではなく、1960年代にひとりの女性がはじめたスタイル。ながく受け継がれていってほしい↓

 

 

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ペルーを離れる日の午後、クスコ大聖堂前広場からロナルドくんのお母さんのお店へ

2016-09-13 14:37:07 | ペルー

サクサイワマン遺跡からクスコ市内へ降りてきた。大聖堂、やっぱり見ておきたいと思って入ることにした ※内部は撮影禁止、興味深い「最後の晩餐」があったので⇒こちらに書きました。


広場に出てきてみると、びっくり。警察・機動隊が大聖堂前にずらりと並んでいる。どうやらデモ隊を囲んでいるようだ↓



きのう、クスコに戻るときに出会った村のストライキでわかるように、大多数のアンデス農民たちは、観光の恩恵などたいしてうけていないのだろう。貧しい・学問のない人々の訴えというのは、いつの時代も・どんな国でもなかなか汲み上げられることはない。こうして我々外国人観光客の目につくところでで示威行為をすることが精いっぱいなのかもしれない。


この写真からは伝わりにくいが、静かな集まりだった。スローガンを掲げる人はいるが、大声で叫ぶようなことはなく、物売りが人々の間をのんびりとまわっている。


警察・機動隊も、足元に座っている犬を追い払うこともなく、時々足で相手をしてやっていたりする↓



なんだか不思議な、ゆるいデモ隊と警察・機動隊の関係。これは両者がけっして敵対関係ではないことからくる雰囲気かもしれない。警察・機動隊のメンバーもクスコの一般住民。デモをしている人々の気持ちも理解しているだろうから。



**さぁ、クスコの最後に、この旅最後のガイドをしてくれたロナルドくんのおかあさんの店にいってみよう。


そのお土産物屋街は大聖堂からは少し離れた場所にあった。空港からの道で何度も通った広場。「この広場の名前は?」ときくと「しっぽ広場」だという。インカ帝国時代のクスコはピューマの形につくられているが、そのしっぽの部分にあたるから、この名前がついているのだそうだ 観光客が足を運びやすいとは言えない、観光バスが横付けすることなない立地


一坪ほどの敷地のお土産物屋がぎっしり集まっている↓


はっきり言って、どこも同じような品揃え。露店よりはずっとよいが、ここで商売をしていくのは、思うほど楽ではないだろう。

ロナルドくんのお母さんは我々の手をとって迎えてくれた。

  ※ロナルドくんの話をこちらに書きました


とりたてて買いたいものがあるわけではなかった、けれど、ふと小さな指人形が目についた。指にはめてみると、とても小さい。楽しそうにつくっている子供の姿が見えるような気がした。

昨年、チチカカ湖へ行く途中に寄った農家がつくっていた人形を思い出した。
⇒こちらにもう少し書きました

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サクサイワマン遺跡~巨石の石組みに圧倒される

2016-09-13 11:39:51 | ペルー

クスコから十五分ほど、盆地の市街を見下ろす丘にあるサクサイワマン遺跡は、数あるインカ遺跡のなかで最も大きな石を積み上げてあることで知られている。今回、リマへ戻るフライトが午後三時となり、せっかくだから午前中にオプションを組んで訪れた。

***朝、ホテルのちかくを散歩していて入った「パン・コン・チチャロン」屋さんの話はこちらに書きました

市街を出て、くねくねした古い道をのぼっていくと、クスコの赤い屋根が見晴らせる場所に至る。

旧市街中心のクスコ大聖堂の屋根は、あんな風にもこもこしていたのか↓

★ちょうど逆側にの丘に文字が書いてある。VIVA EL PERU(ペルー、万歳)↓

ここで、ガイドのロナルドくんは、びっくりすることを言った。

「ぼくがちいさいころ、あそこにはハンマーと鎌のマークがつけられていたんです。」 それはいったい?⇒※こちらにもう少し書きました。

 

サクサイワマン遺跡入口のこの展望場所には、観光客を目当てに写真を撮らせる地元民がいる。この動物は、アルパカです↓

****さて、サクサイワマン遺跡に入る

ここは「要塞」と説明されることもあるが、実際には神殿であった。全体は稲妻の形「ギザギザ」になっており、雨・天空・光というようなものを崇拝した場所だったと考えられる。「要塞」と呼ばれるのは、1536年にスペイン支配に対してたちあがった人々がここに立てこもって抵抗をしたから。

上の写真でも丸く見える部分には塔がたっていたと推察される。現場ではこのように見える↓

ムユック・マルカ(「丸い塔」)と通称される。この塔が市内に復元されています」とロナルドくんが言って、ぴんっときた。空港から市内へ行く時に必ず見る、インカ皇帝の像がのせられた塔はそういうものだったのか

 

近づくと、石組みは驚異的な大きさ。それが緻密に組み合わされているのにあらためて驚かされる。

入口、扉のあった門

巨石を組み合わせた中に、リャマを画いた場所がある↓

右側を向いたリャマの姿、石の中に見えますでしょうか?↓

※顔とその上の耳のかたちがポイント。足は表現されていません。

考古学者の推察によると、この場所はリャマを犠牲に捧げていたとのことですが・・・わかりません。

鉄器も車輪も持たなかったインカの人々が、どうやってこれらの石をこのように組み上げたのか?

グラハム・ハンコックの「神々の指紋」では、インカではなくはるか古代の文明がつくりあげたのではないかと推察している。現物を見ると、そうも思いたくなる。

いちばん傑作な仮説「石にはひとつひとつ名前があって、王がその名前を呼んで指図すると、そのとおりに浮き上がって移動した」

 **

下の写真、遺跡の周りにはユーカリが高く茂っている。が、これはオーストラリアから入ってきたもので、インカ時代にはなかった。インカ時代にあった樹木は手前の低木程度。木材をつかった日本のような巨大な構造物は当時は考えられなかったのだろう↓

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