旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ワイン列車でレマン湖北岸の葡萄畑へ~古城のワイン蔵で試飲

2021-03-29 06:20:33 | スイス
2008年スイスの旅より
黄色いワイン列車

車体にはこの地区の名前サン・サフォラン

↑湖岸を走る主要線路とは別に↑ヴヴェイからワイン畑の上のシェブレまで走る列車に乗り、下のサン・サフォラン村までワイン畑を歩いて降りてくるのだ。

↓下のグーグル地図で左に囲われたあたりが終点のシェブレ村、そのすぐ右にサン・サフォラン村の表記がある

↑右上の方にケーブルカーで行った「モン・ペルラン」の表記※こちらに載せました
ヴヴェイは小さな町だが近くに見所が多い。

この路線は駅に改札もなければ車内検察も(基本的には)来ない「セルフ・チェック・エリア」(右上に表記)↑でも「見てますよ」という意味で目のマーク(左上)がある。

↑「HALT=英語ならSTOP」
このボタンを押して次の駅に止まるのをリクエストする、バスみたいに(^.^)

ヴヴェイを出てしばらくで
ネッスルで有名なネスレの本社ビルが見える
レマン湖がひろがる車窓

↑終点シェブレ村の小さな駅
古い葡萄絞り器がある
近くで地元の野菜を売っている。
人件費の高いスイス人が生産する野菜はどうしても高くなるが、それでも外国産よりも地元の安心な農産物を買う人が多い。

地域やひいてはその国の消費者の意識が高いことで、先進国の農業は続けられる。

また、質の高いワインを手をかけてつくりだすのもスイスの強み。

ワイン畑を歩いて、ワイン蔵で試飲が楽しみ(^.^)


まだ七月なのでブドウの実はこんな感じ。

この斜面の畑での収穫作業はたいへんだろうなぁ↓おや?

↑畑の間にうねうね上下するレールが見える↑

近づいてみると、なるほどここに積んで運ぶのか。

どこまでも広がる広大なブドウ畑だがこの地区は大資本の巨大な畑とはちがう。
何人もの作り手がそれぞれの個性を持ったワイン造りをしている。

↑小さな村の中にいくつものワイン蔵への表示があった。

同じ品種の葡萄を使っている隣の畑でも味わいの異なるワインになるのがおもしろい。

湖近くを走る線路まで降りていき、

Rivasの小さな駅をこえて、

古いお城にあるワイン蔵を訪ねた

家庭のテーブルに招かれたような試飲会

ワインにはチーズ(^.^)
男の子は待ちきれない様子でサラミを口に入れる(あれ?ワイン飲むのかな)

この地域の白ワインはほぼシャスラ種を使っている。
わざわざ表記しないのです。

この日、楽しんだのはこの四種類。
↑いちばん右の赤ワインだけは「ピノ・ノワール」と葡萄品種が記されていた。

まだワインを楽しむ年齢にならない子はテーブルでこれ(^.^)

↑2008年にはニンテンドーDSが世界中にひろがっておりました↑
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ローザンヌの東~チャップリンの住んだ街とモン・ペルラン

2021-03-28 08:16:56 | スイス
2004、2005、2008年 スイスの旅より

ワイン畑が湖への斜面を埋める、レマン湖東部

ローザンヌのあるヴォー州は面積でいえばスイスの七パーセントしかないが、スイスワインの四分の一を生産している。

レマン湖東部↓右下にはシヨン城※こちらに書きました

↑シヨン城のすぐ上にジャズフェスティバルで有名なモントルーがみえる。
さらに上右(西)に「ブベー」と表記されたVEVEY(ヴヴェイ)の街。

ここは晩年のチャップリンが住んだので↑こんな銅像が置かれている
アメリカから追放されたチャップリンは豪邸を購入し、その死まで家族と住んだ。

旧市街の道を時には歩いたのかしらん
上記の地図左上に「モン・ペルラン」と表記された高台までケーブルカーが通っている

2005年にたった一度だけこれに乗った。


モンMont=山といっても上がった先も山の中ではなく


↑こんな展望台があった★このページトップの写真はここからの眺めです

小さな食料品店で地元のチーズを買って食べたりするのが楽しい時間(^.^)

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レマン湖のシヨン城

2021-03-25 08:11:36 | スイス
2004、2005、2008年 スイスの旅より
シヨン城はレマン湖に突き出した岩場の上いっぱいに建てられている

湖を行く船を見張るのに絶好の、誰が見ても要害の地。
12世紀には砦のようなものがあったと文献に出てくるのだそうだ。

現在見られるスタイルは16世紀ぐらいのものか。

山岳観光が盛んなスイスにおいて、最も入場者数が多い歴史的建造物なのだそうだ。

この場所がヨーロッパで有名なのは英国の詩人バイロンが「シヨンの囚人」という長編詩を書いたから。

その囚人が繋がれていたという地下牢がここ↑

16世紀、サヴォア家に支配されていた時代のジュネーヴで、都市の独立を支持した修道院長フランソワ・ボニヴァールが幽閉され、柱につながれていたという↑1530年にスイス盟約同盟のベルン(上の写真で左上に熊のマークの旗を手にしている)が、彼を救出した。

その柱がこれ↑と説明されたのだろう、バイロンがそこに名前を刻んだ…と伝わるけれど…

↑「BYRON」とは読めるが、本人が刻んだという確証はない。
19世紀に「グランド・ツアー」と称してやってきた英国人のお金持ちを満足させるために、地元の人々はいろんなものを用意していた時代なのだから。

上層階もしっかりガイディングツアーがある

スイス兵がつかいはじめたと言われる槍と斧と刀を合わせた兵器は↓

「スイス・アーミーナイフの元祖」なのだそうな(^.^)

↑当時のトイレはこんなカタチで、直接湖に落とす構造だった↑

16世紀はじめにはレマン湖の東端のシヨン城まで支配していたサヴォア家だったが、宗教改革がひろがるとベルンが応援してジュネーヴが独立。
ベルン勢力はローザンヌ周辺=現在のヴォー州まで広がった。
1798年、フランス革命の影響が及び、ドイツ語のベルン州からフランス語圏のヴォーを独立させる運動が成功。
四カ月だけ「レマン共和国」として独立した後、ナポレオンによってつくられた新しいスイス「ヘルベチア共和国」のひとつのカントン(州)となった。

↑緑地と白がヴォーの紋章↑中に「自由と祖国」
と書かれているのが、いかにもフランス革命時代にドイツ語圏から独立を果たしたフランス語圏=ヴォー州(当時は「レマン共和国」)らしいデザインではないか。

これらの紋章はつまり19世紀ごろに画かれたものだろう。

中世と近代が入り混じった場所である。
さらに城のすぐそばの道を注意してみれば↓現代スイスらしい場所もみつかる↓

これは地中に建設された防空壕?備蓄庫?の入口扉。
多言語・多民族・新旧教、入り混じるスイス。
これらをまとめてきたのは、それぞれの場所で迫害されていた人々がアルプスの要害に集まり、固くその地を護る決心だった。
「永世中立」という概念は、それを護りきる決意と装備を持てる財力があってはじめて成り立つものなのだ。
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ローザンヌ~オリンピック博物館、バレエコンクール、アール・ブリュット

2021-03-23 14:55:35 | スイス
2008年スイスの旅より
レマン湖に面したローザンヌ、対岸はフランス領。

チャップリンも長期滞在していたボーリヴァージュ・パレスに連泊した。

北京オリンピックが開催される直前2008の七月。
国際オリンピック委員会があるローザンヌにあるオリンピック博物館の入口もこんな風になっていた↑

ゆったりした敷地に、聖火や巨大な彫刻作品が点在している。


↑あ、これはフォロンの作品だ(^.^)

展示も普通の博物館とちょっと違う↑砲丸投げの球ってこんなに重たいんだ↑
※大きい方が男性用で7.26㎏、小さい女性用は4㎏

↑走り高跳びの世界記録ってこんなに高いのか↑
こんなふうに体感・実感できる展示がたくさんある。


若手バレエダンサーの登竜門「ローザンヌコンクール」は1973年からスタート↑第三回からの会場がこのボーリュ劇場↑

「ローザンヌ オリンピックの首都」↑

★「アール・ブリュット・コレクション」はあまり有名ではないがここでなければ出会えない「アーティスト」の作品をたくさん所蔵している。

「アール・ブリュット」とはフランス語で、直訳すれば「生の芸術」となる。
精神病を治療する医師が、精神病とされる人々が衝撃的でストレートな表現をすることに注目して名付けた。

心の奥底からの抑えられない衝動があふれ出して造りだされたと感じさせる「作品」があつめられている。

売るために「芸術」をつくりはじめてしまったら、
それはもう商品ではないだろうか?
百五銀行の頭取をしながら陶芸家として名を成した川喜田半泥子は生涯一作品も売らなかったという逸話を思い出す。
※川喜田半泥子の「ねこなんちゅ」他については2015年の展覧会の話をこちらに書きました

心に闇を抱えた人々がつくりだした表現芸術は半泥子とは別のものだが、
売るための「芸術」ではないということは共通する。

「芸術」は「商品」であってはいけないのかもしれない。


日本では資生堂が後援した展覧会も何度か開催されていた。
**

ローザンヌ旧市街にも大聖堂がある。

急な斜面にできた旧市街だ。

レマン湖の西の端に位置するジュネーヴがフランス語プロテスタントの中心だったが、ローザンヌのカテドラルはカトリックでありつづけた。

実際にはローザンヌはカトリックとプロテスタントに分裂していたそうだが、このカテドラルがカトリックに留まったことによってこれらの彫刻類がそれほど破壊されなかったのは幸いだ。

旧市街の坂道を歩く


バスに乗って湖畔のホテルまでもどろう。

夏だから夜9時過ぎまで明るい庭先を見ながら、ダイニングでゆっくり。




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瀬戸内下見~「阿伏兎(あぶと)観音」からベラビスタ尾道へ

2021-03-13 10:01:02 | 国内
海面から二十八メートルの高さにある観音堂より

西暦十世紀、航海安全を祈って崖の上に十一面観音が建てられた。
その場所は朝鮮通信使が「ウサギが伏せているようなカタチだ」と言ったので「阿伏兎」と名付けられた岩の上。
寺の名前は磐台寺だが、通称「阿伏兎観音」と呼ばれるようになった。

ここは安藤広重が画いたころとそれほどは変わっていないのだろう。

写真の無い時代、誇張した表現で旅ごころを誘う(^.^)

源平の合戦で観音像は海に落ちて行方がわからなくなった。
南北朝時代のある夜、地元漁師の夢枕に観音があらわれ、海中から観音像が引き上げられた。
ふたたび岩の上に安置された観音像を納めるために、戦国時代にこの地を治めていた毛利輝元が観音堂を建立したと伝わる。
↑現在のものは江戸時代前期に福山藩が修復したもの↑縁台が外側に傾いている。
↑上の写真で左の海辺に見える多宝塔の場所から観音堂を見上げる↓

2004年の台風被害を修復する際、天正十七年の年号が入った金箔の残る瓦がみつかったのだそうだ。

駐車場から少し歩かなくてはならないので

最初は寄るつもりではなかったのだが、

あまりに良いお天気なので駐車場から海沿いを歩いた。

行き止まりがお寺の入口になっていて

入場料を払って小さな境内を抜けると

赤い階段があらわれる。
登ってゆくと冒頭の観音堂に至る。

ここは子授けご利益があるとされ、おっぱいの絵馬がたくさん奉納されていた。
伝説の十一面観音が奥にあるのだろうか。
**

駐車場手前には昔ながらの旅館があり

遊覧船も出しているようだ。
天気が良ければこういうのもありですね(^.^)時間が必要ですが。
旅の本番への取捨選択、いつも悩みます。
***
尾道でいちばん泊ってほしい宿は

数年前にこのベラビスタを知って、いろいろ比べてきましたが現状はここしかないという結論。

少し高台から、いわゆる「インフィニティ・プール」ごしに瀬戸内の島々が見渡せる。

ふりかえって見上げるとこんな感じで客室が配置されていて、

部屋(さまざまなのですが)からの景色、バスビューのカテゴリーの部屋からは

こんな感じでたのしめる。

別棟にむかうと

こんなすばらしいダイニングが待っている。

どんな料理が楽しめるのか、わくわくします(^.^)

近年は外国人向けに意図的に豪華な和室にした高級ホテルも多いけれど、
日本人年配層にとっても洋室の方が使いやすいと思うのです。

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