旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

チュニスのメディナ(旧市街)に残るトゥルベ・エル・ベイ

2019-04-04 08:00:00 | チュニジア
旧市街の宿に泊まれば、出発までの一時間でおもしろい散歩ができる。
オスマントルコ時代の「ベイ」の墓を訪れることができた↓

アーチをいくつも抜けていく

にゃにをしているのあんた?


↓パンを焼くちいさなお店

↓そろそろ…あれか?

↓雰囲気あるドーム↓これはこれで「Sidi=聖なる」人の墓か?

探していたのはこれではなく…
もうひとつ向こうに見えた緑色の屋根だった↓

これは釉薬で緑色に焼き上げたのだろう

↑草が生えているけれど周囲の建物と違う雰囲気がある

↓「ベイ」とはオスマントルコの統治下の地方長官への尊称

「トゥルベ」は墓のことを指す、たぶんトルコ語
さて、中は…
扉を押したが、閉まっている。よく見ると「修復中」の張り紙が…。

その様子を見ていた近所の人が数人声をかけてくれた。
「中に居るから呼んでみなよ」
どんどんっと扉をたたくと、すぐに開いて管理人さんが招き入れてくれた。

内部は二つの中庭を囲うかたちで何十もの墓碑がずらりと並んでいる

解説によると、ここに葬られているのは1705年以降にオスマントルコ下のチュニジアを統治したフサイン朝の「ベイ」たち。
※「ベイ」を「王」と訳しているものもあるが少々違和感がある
管理人によると1740年以降に16人の「ベイ」とその「妻たち」が葬られているという

↑この頭飾りのカタチがついたものが男性の墓
※イスラム教では地面に直接埋葬するので棺ではなく記念墓碑と理解する方がよい

ヨーロッパ的な装飾で、イタリアの大理石とオスマントルコ伝統のタイル装飾がされている
↓こちらが女性たちの墓


↓これは葬送の時に担ぐ台


旧市街のど真ん中にこういう廟があるのは少々違和感があるが

この場所に最初に墓碑が置かれたのは
「ベイ」以前にSidi(聖者)の墓があったからのようだ。
こういう細かい話を詳しく聴けるタイミング、またつくりたいなぁ。


路地を歩いて宿に戻ろう













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チュニジアでも指折りのレストランで

2019-03-14 19:20:00 | チュニジア
チュニスのメディナ(旧市街)、車で前まで行けない路地にある。このドアをドンドンっとノックして開いてもらう↓

まずは待合室があって、誰でもしばらく待たされる
こじゃれた品々を控え目に売っている

ジャズフェスティバル「チュニジアの夜」の案内が↓

シンプルなインテリアに生花↓

ここはもともとオスマン時代の高官が住んでいた

タイルの内装はなるほどそんな雰囲気だ



↓しばらくして通された「中庭」の天井を見上げると

↓我々のテーブルはこの「中庭」の一角だった

メニューはアラビア語とフランス語、ギャルソンは英語での質問にも応えてくれる

前菜はサラダとタジン料理にした

↓これが「野菜のタジン」なのだが、「あのタジン鍋」で出てくるわけではない。「あのタジン鍋」で調理してあるものをこんな風に盛りつけて出てくる。

確かに品が良い。これまで食べてきたレストランのような強い味でななく、香辛料が強いと感じさせはしない。
だが味わいは深い。

「イカのクスクス、ファルシ」があったので、是非食べてみたくなった。
だが、前菜とメインの間に入れるときっと量が多すぎる…
迷ったけれど五人で二人前だけ注文↓これが二人前

↑これは絶品! ここまでイカはどれもおいしかったが、群を抜いている↓

↑あ、これが、スースで出会った日本の人が話していた「いか飯」に違いない(^.^)
これだけ食べにまたチュニジアに来たい、料理でした。

メインは羊料理を主にオーダー、
「茹で羊」というので生臭いのかと心配していたが・・・

これがさすがの調理!パサつかず加熱しすぎず、骨からもはずしやすい。
羊肉がお好きでいろんな国で食べてきた方が「こんな羊料理はじめてだね」と感想をもらされた。
↓こちらも茹でた雰囲気だが味つけが違う。付け合せのナッツごはんも好き↓

↓定番のラムチョップ

牛の煮込みはグヤーシュみたいだったが


ここで食事をしたことで、チュニジア料理への評価は確実に上がった。
次回《手造の旅》でチュニジアを訪れたら、必ず再訪したい。
それだけの価値がある。



最後にコーヒーを

ちょっと東洋的なデザインのカップだが、

チュニジア産で「砂漠のバラ」というシリーズのようです(^.^)

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ドゥッガからチュニスに戻りメディナを歩いてホテルへ戻る

2019-03-14 17:00:00 | チュニジア
新しいドウッガ村、往路にはモスクまわりに朝市が出ていた

★遺跡郊外に同名の街があるのはギリシャのデルフィのようだと思ったら、ここドゥッガもデルフィと同じようにもともとの街は遺跡の上にあったのだった。
フランスは村ごと移転させて発掘を行っていたのである。

衣料から食料から、いろんなお店が出て

いちばん人が集まっていたこのテントは何を売っているの?↓

フランスの電話会社「オレンジ」が無料のSIMカードを配っていたのでした


↓遺跡見学を終えてお昼に通った時にはがらんとして

ロータリーをヤギの群れが横切った


ドゥッガ遺跡のすぐ外にある町の古称を冠したホテル

THUGGAは現地リビア語でTBGGと母音表記されTuBGaGaと発音されていたのが「ドゥッガ」の名前のルーツなのだ。

遺跡見学の後、ここで名物のイノシシを食べるかちょっと迷ったのだが、
思ったよりずっとおいしかった
もう一つのの選択はチキン

**
チュニス新市街に入る。「チュニスのシャンゼリゼ」に近づくとびっくりするような新しいビルがならんでいる


突き当りのフランス門近くにI LOVE TUNIS 昨夜歩いた時とはぜんぜん違って見える

フランス門のある広場。ここから奥が旧市街=メディナ

大聖堂の前に立つのは13世紀イスラム世界きっての歴史家とされるイブン・ハルドゥーン

↑彼はチュニス生まれでモロッコやカイロで活躍し、カイロにやってきたチムールにも招かれたそうだ

メディナの市場を抜けてホテルに戻ろう。
ディーツとピスタチオを買いたいとリクエストしたら、専門店が集まる一角へ連れて行ってくれた。

ディーツは日本の干柿のような味わいだと小松は思う

↑上の写真で奥にある小さなものはいちじく。
砂糖による甘味が高級だった時代・世界では、洋の東西を問わずこれらの甘味が定番だったのですねぇ。
↓こちらの店頭に干してあるのは何?

↓なんと、イカでした!

今回、イカはどこで食べてもおいしかったなぁ

↓ピスタチオは豆の専門店でキロ売りしている

こういう店から小売店にいくのですな
↓ピスタチオ、殻ごと炒って塩味をつけたものを買いました↓

小粒だがじつにおいしかった(^.^)もう一キロ買ってくればよかったと帰国後に思った小松でした

↓こちらはディーツとナッツを組み合わせたちょっと高級なお菓子店↓

**
ここからはメディナ内の通りに面したお店↓







↓グランドモスクのミナレットが見えてきた 我々の滞在する宿も近い


夕食は「チュニジアでも指折りのレストラン」に予約を入れてもらった(^.^)

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ドゥッガ遺跡~カピトリウム

2019-03-14 13:49:08 | チュニジア

かつて街の中心だったと思われる神殿が復元されている


ジュピター(ゼウス)、ジュノー(ヘラ)、ミネルヴァ(アテナ)の三神を祀ったとされている。

内陣のこの壁龕には↓

高さ六メートルのジュピター像があったのだろう。その頭だけが発見されてバルドー博物館に収蔵されているそうだ(今回倉庫入りしていて見られず)。
↓全体の復元図

おもしろいのは上の図で神殿の右側に位置するメルキュール(エルメス)の広場↑
↑小さな円が描かれているのが分かるだろうか↓

商業や旅行や(泥棒も)司る神であったので、東西南北それぞれの方向にある地域名と、そこから吹いてくる風の名前を記したウィンド・ローズと呼ばれる円が刻まれている↓

ローマ世界全体を見てもこういう例はめずらしいそうな

↓神殿の横壁には当時のドゥッガの人口を記した文字もあった



**
丘の斜面上部に位置する神殿から少し階段を下りてコンコルディア(和合)神殿前へ↓…あとから読んだ最新の現地解説本によるとその前にある四角い広場との関連はないだろうとのこと


***さらに階段を下りて浴場設備へ

アーチ型の通路にもお湯が流れていたパイプの跡↓


****
遺跡の中でいちばん大きな私邸↓

その床↓



↓公道に沿った壁には窓はなく、中庭に向かってだけ窓がひらかれていた典型的なローマの邸宅建築にみえる↓

↑公道の石畳はきっとうるさかったでのでしょう。荷車の轍が残っている。

この設備って何?↓あ、ローマ遺跡でよく見かける

公衆トイレの跡

娼館だったとされる建物の入口




↓下水の蓋


★ヌミディアの王子アテバンの墓は町の中心から少し離れた場所に見えた
















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ドゥッガ遺跡~劇場

2019-03-14 09:17:30 | チュニジア
標高六百メートル程の斜面に広がる都市遺跡である

↑バスを止めた場所から百メートルでいきなり劇場跡

↓もともとはこんなだったのか

↓舞台中央から上手側を見る

↓舞台のそでにあるこれは何?

「これは、古代のプロンプターなんだよ」とガイドのシュクリさん
どういう意味???…あ、セリフを忘れた人にここから教えていた、ということか。なるほど~
★アフリカ原住民(ヌミディア人)からAD172年にローマ本国の元老院になったPublius.Marcius.Quadratusプブリウス・マルキウス・クワドラトゥスが祖国に華を飾る事業として建設した劇場。残されていた劇場の入口碑文に書かれていたそうだ

**
劇場をあとにして、神殿へ向かう道↓轍がくっきり溝になっている

↓ふりむくと、ローマ遺跡には見かけない丸いドームがあった

予想通りモスクだった建物だった。
★なぜ、モスクがあるのだろう?
この町がもっとも栄えたのは帝政ローマ時代だが、七世紀以降アラブ・イスラムの支配になってもの村として人は住み続けていたのだ。19世紀から20世紀前半のフランス領だった時代に村を移転させて遺跡を掘り出したということ。
ギリシャのデルフィと同じようなことを、ここでもやっていたフランス。

神殿が見えてきた


が、シュクリさんはそこへ向かわず、先に市域を区切るアレクサンドル・セヴェルスの門へ我々を導いた↓

↓この門をくぐると…

↓巨大な貯水槽が姿を見せた

※この旅で見た水道橋はこちらに載せています
あとから資料を読んで知ったのだが、このドゥッガの街にはこういった貯水槽が七か所もあった。
最も古いものはもう少し斜面の上の方にありそこは近くの泉からの水を溜めるわりに単純な仕組みだったようだが、この貯水槽は紀元後二世紀後半に建設された最終形。直線距離で8.5キロ離れた水源から、12㎞を超える長さの水道管を建設してドゥッガまで水をひいた。
当時の人口は二万五千人と広場に誇らしげに刻まれていたのだから、そのぐらいの水が必要だったのだろう。あるいは、充分な水が供給できる都市だったからそれだけの人口が住むことが可能だったのだ。
↓THVGGES(ドゥッガの人々)XXVMII(二万五千人) 
↓メルキュール広場の碑文に残されているその部分

↑左下部分

↓天の神 カエレスティスの神殿は紀元後222年から225年にかけて建設されたと解説解説書に書かれていた

それはつまりアレクサンドル・セヴェルス帝の統治期間にあたる。
大叔父のセプティミス・セヴェルス帝からはじまる王朝は彼が部下の兵士たちによって暗殺されて終わった。

暗殺されたのは遥かドイツのマインツだが、このアフリカでも彼に捧げる神殿の建設が行われていたのか
↓神殿への捧げものを保管していたと思われる穴↓





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