旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

はじめてナイジェリアの人と話す時

2022-02-15 21:34:47 | 日記
「首都のアブジャは日本人が設計したのですね」
はじめてナイジェリア人と話すので予習をしていると、首都のアブジャは計画都市で1970年代に丹下健三が設計したとあった。
「え?そうなんですか」と驚くナイジェリア人。

かたことの英語対話でも、マンジ君が優秀で勤勉なことはわかる。
高等教育をうけて日本語AETの資格をとって日本の学校で働くほどなのだから。
「機能別にゾーンに分けられていて道路も広いし使いやすいですよ」
住んでいるからといって、その町・その国に詳しいわけではない。
日本人もそうですよね。

ナイジェリアは日本の二倍半の国土に、日本の二倍強の人が住む。
アフリカ最大の産油国。
アフリカ最大の経済力を持つ。
北部はイスラム教徒が多く、南部はキリスト教徒が多い。
二百以上の部族。
マンジ君によると三百以上の言語がある。
「日本にきて一つの言語とひとつの文化なのには驚きました」
15世紀にポルトガル人がやってきたが、本格的西欧化は19世紀後半からの百年に及ぶイギリス支配。
1960年に独立。
1999年までは軍事独裁政権。何度もクーデターが起き(外務省によると七回)、三度の民主化の試み(マンジ君いわく)があったが、「いつも政治家は自分勝手」(マンジ君曰く)。
海岸部のラゴスが最大都市だが過密都市。
北部イスラム教徒エリアと南部キリスト教徒エリアの間になる、標高三百メートル超の中央台地に首都を移転することになった。
気候の良いアブジャが選ばれた。
その都市計画コンペを丹下健三が勝ち取ったのだった。

最近のナイジェリアがニュースで報道される多くは、
北部で過激派が村を襲撃したとか
南部の石油利権問題だとか
ううむ、この世界からやってきたマンジ君に、日本はどんなふうに見えたか。

「スシは食べたけれど生の魚ははじめてです」
↓「どうやって食べるのかな?」

「醤油とワサビ、あ!そんなにつけたらダメだよ」
次の瞬間、ワサビにやられて鼻をおさえたマンジ君だった。







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「骨と十字架」観劇

2019-07-11 19:00:00 | 日記
人間は進化した猿なのか?

ガリレオの宗教裁判に代表されるように、科学的発見が宗教上の「真理」の矛盾を明らかにして糾弾されることは歴史上あった。
これは、北京原人の頭骨を発見した実在のイエズス会の司祭の話である。

ガリレオの生きたのは十七世紀だが、主人公ティヤール司祭が北京原人の頭骨を発見したのは1929年のこと。
この主題がいつの時代でも古くはならないことを示している。

優秀なイエズス会士であり考古人類学者でもあるティヤールの中で、科学と宗教は矛盾した事ではなかった。
しかし、北京原人の頭骨を発見し、現代の人間が猿から進化してきたいちばん先端にすぎないと思うに至り、悩み始める。

ジャワ原人(170万年前)⇒(北京原人70万年前)⇒ネアンデルタール人(40万年前)⇒クロマニヨン人(3万年前)
脳の容積がだんだんと大きくなり思考を深めるようになった猿が、やがて「神」という概念をつくりだしたのではないか?

地球が宇宙の中心で星々はそのまわりを回っているという「真理」は、今では過去のものになっている。

強い信仰心をもっていたが故に、自分の発見が導いた疑念との相克に苦しんだ。
ガリレオと違って宗教裁判にかけられたりはせず一般世界はティヤールを評価したのだが、ティヤール自身は生涯悩み続けていたようである。
**
この主題を扱った今日の舞台は、華やかになどなりようがない。
男五人が激しく言葉をぶつけあう言語劇で、大衆受けはしにくいと思えた。
それでも、じゅうぶんに観客を深い思考に誘い落とす力に魅了された。

↓新国立劇場のロビーにもこんな絵が↓

***
この舞台が翻訳劇ではなく、日本人の創作だということにもおどろいた。
一般的に宗教心の薄い日本人でもこういう主題を深く書くことができるのだ。
いや、日本人だからこそ書けたのかもしれない。
逆翻訳されて欧米で上演されたりしないかしらん。


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大阪のザ・シンフォニーホールへ

2018-03-11 07:23:11 | 日記
大阪にこんな立派なホールがあるなんてしらなかった。
大きすぎず、見やすく、聴きやすい場所である。正面のパイプオルガンの雰囲気はウィーンの学友教会ホールを思い出させる↓

今日の出演は大阪市民管弦楽団。
一月のドイツ、オーストリアへの旅でご一緒した方がそこでチェロを弾いておられる。
さらに、この方の本業は金属加工業で、世界のプロ演奏家にも愛用されるチェロのエンド・ピンを製造しておられる。
※youtubeにてエンドピンで音が変わるという例をだしてくださっております

※この旅、ヴィーンはオペラ座で「ドン・ジョヴァンニ」、ベルリンではフィルハーモニーでモーツァルトとサンサーンスのヴァイオリン曲+ラヴェルの歌劇「子供と魔法」を見たのだが、この方といろいろお話してから聴いたことでずいぶん楽しさが増した。
もともとは小澤征爾氏が出演予定で彼自身の選曲によるものだったが、早々に代役にミッコ・フランクとということでツアーは催行された。結果はたいへんおもしろかったが、これについてはまた別に書きます。

今日の演目は

3月11日に合わせた曲のように見える演目だが、もともとはそれ以前からある楽曲。吹奏楽の世界では大変有名なのだとしった。
前半二曲は分かりやすかった。

後半のラフマニノフは、メロディアスでロマンチックな雰囲気。ロシア的に?冗長なところはあったにしても。
指揮の井村さんは熱くリードする方で、楽団全体の真剣さが伝わってきた。
皆さん、アマチュアなんですよね?こういう場があって、それにむかって練習を重ねてきたに違いない。

アンコールに「花は咲く」が演奏された。関西は阪神淡路震災を経験しているから、東日本の震災にも他人事でない強い共生意識を感じている方が多い。ラフマニノフのあとに、会場皆の心を暖かくしてくれる演奏だった。

演奏後に楽屋口でチェロを演奏したMさんとお話した。あきらかにほっとした晴れやかな顔をしておられた。
ああ、わかる。今日はひとつの生きてきた成果を感じる日、なのだ。
ジャンルは違うにしても同じアマチュアとして音楽を続けている身として、続けていく事・披露する場を持つことの重要さをあらためて感じる。



小松も、9月9日、久しぶりの「こま通信」LIVEミーティング、がんばります




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《手造の旅》屋久島+指宿 第二回 一日目 ブリの幸運

2017-04-22 12:28:42 | 日記

《手造の旅》屋久島+指宿 第二回 一日目★羽田発✈鹿児島✈屋久島 宮之浦環境文化村センター→吉田集落里めぐり→西部林道経由→屋久島カトリック教会→JRホテルチェックイン。 3月5日出発の第一回のブログ日記を参照しながら、ごらんください。

  鹿児島を飛び立った飛行機では黒砂糖の飴がでる。眼下に開聞岳が美しい↓

屋久島の飛行場が見えてきた。雨は降っていない。

日本のバスガイドさんは世界一!その土地の印象決める「出会う人」の中で、いちばんカギを握る方。よろしくお願いいたします

屋久島一の「都会」宮之浦到着。文化村センターで島のジオラマを見ながら概略を↓

展示に、今回の「里めぐり」の紹介もある。写真に写っている方々、前回行きあったお顔馴染みです↓

島の北端の岬の印象的「おっぱい岬」をまわり、吉田村へ到着。海からの風の強さがそのまま樹木のかたちになっている↓今日はふいていないけれど↓

元小学校の公民館へ。ここで村の方々が手造りしたお昼ご飯。きのうから用意してくださっていた皆さんの暖かいおもてなし↓

 こういう食事が出来る旅を《手造》したい!いつもそう思う↓

※こちら3月5日のブログからメニュー解説ごらんください

今日の幸運↓吉田村の堰堤で今朝ブリが釣られた。それを刺身にして出してくださった(^^)いつもあるとは限らない、最上のお刺身↓

「こんなふうに釣れるんです。プロの漁師が仕事に出来る量ではない。だけどおいしいのよ」↓

食事の後、三人の語り部さんと共に吉田村里めぐりに出発!

大きな石がごろごろした斜面にできた村をのぼってゆく

 登りきった場所にある小さな祠が「日高神社」 平家の落人で日高姓のルーツとされる。もともと日高家がまもっていたのだが、人が減って守りきれず、吉田村に託された↓

ここから三つの島が見える。追っ手を警戒して暮らした人々の見張り場所だったのだろうと思わせてくれる

村の墓地には、江戸時代につくられた平家の人々への追悼碑が、今も大事にされている↓

養蜂の箱をみつける↓日本ミツバチは蜜を大量生産できないが、洋モノにはない利点がたくさんあるそうな

今は分蜂の季節だそうな  

 ★吉田村唯一の産業、サバ節工場へ↓ふうんと良い香り↓

何も加えずにただ燻製してあるだけなので、ぜんぜん塩っぱくない。生臭さももちろんない↓これは、ほぐしてサラダとか、お昼に出してもらったフキとの和え物などに合いそう↓

****吉田村を出発し、永田浜で今年初めてのウミガメ上陸の跡を見る。

・・・西部林道をへて・・・「その二」へ続く

 

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山形へ

2015-03-19 09:57:34 | 日記
2016年春の《手造の旅》山形企画のための一泊二日
**
新幹線の窓をたたく雨音が心地よくてすぐに寝入ってしまった。
いくつかの駅をぼんやり覚えているが、眠気がすっかり落ちたのは福島駅。

「これからトンネル区間が続き、電波の受信状態が良くない区間にはいります」と車内アナウンスがはいる。
雨は止んでいる。低い雲の上に雪をかぶった山が見えてはっとした。


そして新幹線がトンネルを出ると、ちょっとどころではない雪が風景をがらりと変えた。

畝に縞模様になった雪が美しい。

これまでも東北を訪れた事はあったが、もっと暖かい観光シーズンだけ。
そうか、これが東北なのだ。三月とはまだまだ雪の季節なのか。


大阪と兵庫で生まれ育ったせいだろうか、三月に雪がいっぱいだという意識がぜんぜんなかった。
いくらニュースで報道されていようと、「知らない」というのは、そういう事なのである。

17:46山形へ到着。
思ったよりも寒くはなくてほっとする。
今日の泊はワシントンホテル山形駅西口。駅から直結している高いビルの19階から24階がホテルとしてつかわれている。ワシントンホテルは七日町の方にもあったが、地元にお住まいの方がこちらを勧めてくれた。実際、行ってみると確かにこちらの方が新しく気の利いたつくりになっている。
24階がフロントになっていて、「夜景が楽しめる」とホームページに書いてあった。

チェックインしてすぐに東口から七日町へ向かう。
六年前にフランスの旅でご一緒した方とお会いすることになっている。

そのお二人がえらんでくださったのは「東京天國」というてんぷら屋さん。
歴史を感じさせる店構えの二階でおちついた
※この店の話をもう少し⇒こちらに書きました

夕食後にいただいた榮玉堂のどら焼き。
ふわふわクリームの、はっとさせられる美味しさだった。


*****
翌朝、24階の朝食レストランからの眺め夜景はさほどでもなかったが、たしかに見晴らしはよい。四角い堀にかこまれた一角がかつての城であることはすぐわかった。

調べてみるとあの掘割の中に博物館がある。
朝食をゆっくり食べていたので09:45発の仙山線には間に合いそうもない。次の列車までは一時間ある。よし、この時間に「縄文の女神」を見に行こう。

さっと歩き出して十分で到着。入口に等身大に拡大された「女神」が置かれている「あまり時間がないのですが…」と入口で話すと、まよわず「あ、それでは二階の二号室をご覧ください」と教えてくれた。

ひっそりした博物館をどんどん奥まで歩いてゆく。
だれもいない「国宝展示室」に写真で見慣れた「女神」が鎮座している。しかし、この像、正面から見ているだけではその魅力があまり伝わってこない。
デフォルメした造形がとても現代的で印象的ではあるが、美しかと訊かれると即答できない。

斜め前からの図、ポスターにもなっている。だが、これでも、それほど魅力的な造形ではない、と思った。

だが、ゆっくりうしろへ回り込んでいくと、いっきに見え方が変わった。

この背中から腰にかけてのライン。写実というのとは違うが、充分な美しさが込めてあるではないか。

思い出したのは、ルーブル美術館所蔵ドミニク・アングル作「グランド・オダリスク」美しい背中が大好きだったアングルは、あまりに好きすぎて、長く引き伸ばした背骨を創作してしまった。
発表した当時は「歪んでいる」とか「こんなポーズはとれっこない」とか言われて評価されなかったが、見たままに再現することが上質な表現にはならない。

「縄文の女神」を制作した人物が、アングルと同じように考えていたわけはないだろう。
それでも、この背中にこそ、この造形の魅力があると感じるのである

真後ろ近くから横から・・・ん~、やっぱり斜め後ろからがいちばん。

考古学的な面白さも満載。
使われている土にキラキラと光る雲母が混ざっているのは、数年前に諏訪湖畔・尖り石遺跡で見たこの「縄文のヴィーナス」と同じ。
こちらも現地で見てはじめてその魅力を理解できた。写真では分からないキラキラ光る雲母を含んだ土を素材に使うというアイデアは土偶を制作する時の定石だったのだろうか。

「ヴィーナス」が高さ27センチなのに比べ、「女神」は45センチとこの種のものとしてはいちばん大きい。
頭の部分に何かつけられていた穴があるのが分かる

たくさんの類似した破片が見つかり、まわりのショーケースに展示されている破片ではあるが、ひとつひとつが四千五百年前の誰かの手によってうみだされたと思うと興味深い。「縄文の女神」がこの種の土偶の頂点だというのが理解できる。すべて重要文化財指定となっている。



*****
復元された城壁の中は今でも発掘調査が続けられている。
江戸期に崩落した城壁の石が見つかって、それがこんなかたちで残されていた

この洋館建築は、明治十一年に「済生館」という病院として建築されたもの。宮大工が七か月で建て上げたそうな。現在は郷土資料館としてこの場所へ移築されている。内部も見て見たかったが、次の機会に。


・・さて、10:50発の仙山線に乗って、山寺へ向かおう。
翌日の日記に続く

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