旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

角館と大村を姉妹都市にした十五歳

2011-11-25 06:58:23 | 国内
武家屋敷にしだれ桜、春はいかばかりか
有名な数か所を除いて多くの武家屋敷は無料なので気軽に入ることができる。門から見えた紅葉の美しさにひかれて小田野家にふらりと入る
「数十年前にこちらで泊まらせていただいたのですが、××さんはお元気ですか?」同行していたかたが、管理の方にそう話しかけてすこしびっくり。そうか、ここは最近までふつうに人の家だったのだ。今でも近隣には公開せず普通に暮らしがある御屋敷が何軒も見られた。

この小田野家からあの「解体新書」の挿絵を描いた人物が出ていることをはじめてしった。
田舎の下級武士の四男が江戸でそんなチャンスをつかんだのは平賀源内が角館にやってきたのが縁であった。源内はこの地の鉱山視察にやってきていたのである。
小田野直武は洋画というものをはじめて自分流に描き始める。この上野不忍池は、和洋どちらともつかない不思議な雰囲気がある。
源内との縁により杉田玄白、前野良沢に出会い、そして元本の挿絵から自分流の挿絵をつくりだしていった。
しかし、二十五歳でこれを描いた約五年後、彼の運命は暗転する。
勤務怠慢という理由で国元での謹慎を命じられてしまったのだ。同年、平賀源内が誤って殺人を犯し、自分も獄死するという事件が起きているが、ここらと関係はあるのだろうか?青柳家の屋敷において、三十二歳という若さで没している。病死か自殺かも定かでないそうな。こちら参照
http://www1.odn.ne.jp/~vivace/kakunodate/akitaranga.htm

***
蔵の多い町、なかにはそこを改造して私設の博物館にしているものもあった。
私の目を引いたのは、戊辰戦争において長崎の大村から援軍が派遣されてきたという、意外な話である。
秋田藩は、会津などを中心とした幕府側勢力・奥羽列藩同盟から離れて官軍に味方し、周辺の庄内や盛岡からの侵略がはじまっていた。
これに対するため、長崎から326名が船で援軍として送られてきたのだ。しかし、この地をめぐる戦いにおいて、大村からのこの援軍も17名の死者を出したのである。
となりに少年の顔をして刀を携える写真が飾られている。右の上に大村藩と書かれた文字がみえる。「少年鼓手 浜田謹吾 慶応三年8月3日」そして長崎の上野彦馬写真館にての撮影とある。これはあの坂本竜馬の有名な写真を撮影した場所で撮られたものであった。
浜田謹吾は当時十五歳。戦場で太鼓を叩く役目をもたされていたのは、多くはもっとも年少の兵士であった。今の中学3年か高校1年という年齢でこの内戦に従軍していたのである。

彼は刈和野の戦いで戦死。その襟から 「二葉より手くれ水くれ待つ花の 君が為にぞ咲けやこのとき」と記した、母親の書いた紙片が発見され、涙を誘った。彼の親族は長崎から墓を訪ね、そして、角館と長崎は姉妹都市となった。
※下記のサイトより引用。
http://www1.c3-net.ne.jp/hist_photo/akita_syonai2.html

日本には過ぎ去った時代かもしれない。しかし、世界に目を移してみると、まさに今、シリアやリビア、エジプトなどで起きている事態は日本の戊辰戦争のように、十代も半ばに達しないような子供たちさえも巻き込んで動いている。戊辰戦争において官軍は勝ち組であり幕府方は負け組となった。しかし、双方の個々の人々を見れば、誰もが日本という国を憂えていたと言えよう。

今日のニュースで見られる紛争の中の彼らは、我々日本人とそれほど遠い場所に立っているわけではないと思うべきなのである。
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秋田・角館でおいしく食べる

2011-11-18 15:47:29 | 国内
朝8時半、澄み渡った秋田の空。「きのうまで寒くて寒くて『しっかり着込んできてください』と電話しようかとおもっていたんですよ」ということはを聞いても、全く実感がわかない。

昼前には角館へと着いた。城下町としてきれいに区画整理され、幅の広い整った道の両側に樹齢やいかにと思わせる木々が高々と枝ぶりを競っている。
葉は落ちて明るく光が差し込む。紅葉の葉が光りを透かせて紅さをましている。

さっそく昼食。武家屋敷の途切れたところにある旧家を料理屋にしてある「じんべい」という店へ。
やはりここは「きりたんぽ」をいただきたい。比内地鶏、ごぼう、まいたけを先に入れてしばらく出汁の味に生かされるのを待つ。「きりたんぽ」は最後に入れて、けっしてぐだぐだに煮込んでしまわないように。
そうすれば、「きりたんぽ」のおいしさは、おいしい米の味だと気付くに違いない。いぶりがっこもかりっとおいしい。さいごに右上に見える薄緑色の緑豆稲庭うどんを入れて〆。

「さくら」地ビールはエールに近い味わい

秋田の漬物はしっかり漬かっていて比較的濃いめの味わい。そのなかでひかくてきさらっと食べられると感じたのが、この「なた漬け」

http://www.akitafan.com/cooking/58.html

秋田と角館のあいだにある物産館では「しょうゆソフトクリーム」もおいしかった



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北条早雲の墓、幻の六代目

2011-11-18 05:05:02 | 国内
箱根湯本の早雲寺へ。

戦国時代の嚆矢となった北条早雲(彼自身は一度も「北条」と名乗りはしなかったが)をはじめ、五代の墓所がここにある。

冬の始まりが感じられる空気だけれど、木漏れ日がきもちよい。禅宗らしく簡素で清潔な境内へ入る。と、ぱらぱらと木立を打つ音がまわりで聞こえる。それがどんぐりが落ちる音だとやがて分った。

それほど大きくない敷地、看板を追って墓地横の短い階段をあがっていくと、北条五代の墓碑が並んだ場所に出る。
このうち、どれが初代早雲のものか。近づいて刻まれた文字を読んでいくと、右端に下のように刻まれていた。「伊勢新九郎」が彼の俗名である。

はじめはやってきた感慨だけを感じていたのだが、しばらくするとこの場所にどうも納まりの悪さを感じるようになってきた。この墓碑の置き方は五基の墓が置かれることしか想定していない。

これは北条氏は五代で終わったことが分かってから設計された墓陵なのだ。
六代目七代目の墓がここに置かれることは考えられていない。
それはなぜか?説明書きをゆっくり読んでだんだんと分ってきた。

早雲寺は豊臣秀吉が北条攻めをする際に陣を置いた場所。陣を小田原城へより近い場所へ移動する際に、北条五代が守ってきた伽藍をことごとく焼き払ったと伝えられている(寺の説明書きより)。当然、その時にオリジナルの北条氏の墓も破壊されたことは間違いない。

では、今、目の前にある墓碑はいつ、誰が建立したものなのか?
小田原城落城の際、五代目氏直は徳川家康の娘と結婚していた事もあり助命され高野山へ蟄居、翌年には赦されて河内へ所領を与えられている。敗軍の一族であったにもかかわらず、才に恵まれ秀吉の覚えも良かったのだが、三十歳の若さで病没。叔父の氏規が後を継ぎ、これが狭山北条氏として幕末まで続く藩の祖となった。

この墓碑はその狭山北条氏第五代氏盛が寛文十二年(1672年)8月15日、初代早雲の命日に建立。小田原城落城から八十二年後の事になる(墓碑の説明版より)。なるほど、すでに無くなってしまった宗家五代を弔うための墓碑だったのである。

ふと、すぐ左に形の違う墓碑があることに気付いた。
はて、これは誰のものなのか?こちらには全く説明版などが付けられていない。

薄れている文字をじっくり読み取っていく。
本人の名前は戒名が大きく刻まれているだけで、俗名はない。しかし、左の二行に父母の名前があった。左行上のほうに「徳川家康女(とくがわいえやすのむすめ)」、その右の行一番下に北条氏直と読める。
そして、戒名の右の行には没年とその年齢として「寛文十二年六月四日八十八歳卒」と書かれていた。

五代目氏直(三十歳で病没した前出の人物)の息子、そして徳川家康の孫にあたる人物のようだ。
…その場で名前はわからなかったが、その後調べてみると、北条氏次という名前にいきあたった。氏直の遺児で小田原城落城の際にかつての家臣に託され、匿われて仙台に暮らしたとされる。

その存在を疑問視する記載もあったが、次のような経緯を書いた資料もあった。
小田原落城の際六歳であった氏次は、桑島万機斎という者に匿われた。 桑島は、北条氏照(氏直の叔父の一人、氏次にとっては大叔父、落城時に切腹)に仕えた馬医である。小田原落城の際には仙台の伊達正宗に仕えていたので氏次もそこで育てられ、匿われた「氏次」も桑島孫六と名乗った。 北条の直系として最後の最後の名前「氏次」はやがて幻となり、次の代からは桑島姓だけを名乗るようになっていったというのである。

奇しくも北条五代の墓碑が狭山北条氏によって建立されたと同じ年に、その「北条氏次」は没していた。しかし、同年にこの碑が建てられたと考えるのは無理がある。では、いつ?誰が?これを建てたのか。裏面の文字からその経緯が多少よみとれてく。

写真左に「明治二十三年」の文字が読める。
ふうむ、そんなに新しいものだったのだ。では、誰がこれを?
「桑島孟謹建」という文字が読める
この桑島という人物は幕末期の志士の一人だそうで、岡山大学付属図書館池田文庫には彼が編纂した「尊王事績」という一書が所蔵されているようだ。http://www.lib.okayama-u.ac.jp/ikeda/mdetail.php?nm=28709&title=&cat=&author=桑島&grp=&bunrui=&reel=&koma=&page_num=

どのような経緯になるかは不明だが、長い徳川の世を経ても、桑島家は北条宗家の血筋であるという意識を持ち続けていたのだろう。その祖であり、幻の北条六代目であった「北条氏次」の墓碑をここに建てたのは、まぎれもないその表れである。

余談ながら墓碑裏面には、この文字を刻んだ石工・菊川某の名前も刻まれている。「箱根湯本石工 菊川…」
この墓の近くにはいくつかの菊川姓の墓標があった。
コメント (2)
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八島湿原

2011-11-16 12:16:05 | 国内
~10月14日日帰り諏訪湖の旅の続き

諏訪湖から30分ほどあがっていくと森林限界を超えていっきに視界がひらける。標高1700m霧ケ峰高原に至る。山々の尾根には見晴らしがよさそうな歩く道がたくさんあるのがわかる。
ヴィーナスラインの途中で車を降り、このあたりをゆっくり歩けるような旅が組んでみたい。
特にこの八島湿原は木道も整備されて歩きやすそうだ。
下の写真で右上の尾根がもっとも標高が高い車山1925m。
湿原は植物が豊かだが、近年は保護されて増えすぎた鹿が食い荒してしまうので、下の写真のように湿原のまわりをネットで囲んで動物が入れないようにしてある。



**
再び諏訪大社の近くへ降り、ここで作られ、ここでしか食べられない和菓子の店を紹介していただいた。
「新鶴」は明治六年創業 http://shinturu.com/
名物の塩羊羹は塩辛いわけではない。甘さをひかえ実に上品な味であった。
そのほかに季節らしい柿のかたちをしたお餅のような触感の「雪餅(せっぺい)」、鹿の子に、信州らしい味噌饅頭。

***
諏訪湖畔を走っているとき、「間欠泉」という看板が見えた。温泉は世界に多くとも、間欠泉はどこにでもあるものではない。有名なのはアメリカのイエローストーン国立公園、ニュージーランド北島のロトルアがあげられる程度。諏訪湖にあるとは思わなかったので、ぜひ少しでも見ておきたかった。

噴出時間は冬季一日四回、15:30の回を待つ。時間をはっきり書き出して毎日同じ時間に噴出するのは、実際自然の間欠泉とはもう言えないだろう。人為的にコントロールしなくては定期的に正確に噴出するようなものではないのである。しかし、ま、おもしろいものではあります。
やがてぼこぼことお湯が波立ち始め、ぶわぁっと噴出したが高さは五メートルもあっただろうか。昔はこの建物の二階部分ぐらいまで吹き上がったのだそうなのだが、こちらも近年は力がなくなってきているそうな。

かつてここは湖に七つある温泉湧出箇所のひとつだったそうだ。現代になってからの埋め立て地である。

****
すぐ近くに公営の足湯があった。

もちろん、入りましたとも(笑)
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晩秋の美しい諏訪へ

2011-11-14 09:09:31 | 国内
11月も半ばだというのに陽が温かく、諏訪湖湖畔の桜が赤く紅葉して美しい。
諏訪湖は標高760mに位置し、冬に完全氷結した湖面が春先に音を立てて割れる「御神渡(おみわたり)」で有名。しかし近年は完全氷結は難しいので「御神渡」もみられないとの事。

時に、「御身渡」とは何なのか?神様が何故こんな湖の上を渡られるのか?
諏訪大社は諏訪湖をはさんで四か所あるが故に「御身渡」されるのだと、はじめて知った。

つまり、
諏訪湖の南、諏訪市と茅野市方向に上社ありが本宮と前宮の二つに分かれている。
諏訪湖の北、岡谷市方向下諏訪町に下社があり春宮と秋宮の二つに分かれている。
今回、春宮と秋宮を訪れた(写真下春宮)
昨年あたらしくなった社殿は端正である。

七年ごとに行われる大祭では社殿を囲んで四隅に置かれた御柱を山から引いてくるのが有名。この写真右手に立てられているのがそれ(写真下は秋宮)


この大木は国有林から切り出してきて、人力で境内まで運ばれる。途中にある斜度45度近い坂を落とす「木落とし」が奇祭としてテレビでもよく放映される。車で少しああがっていったところにその場所があり、モデルの大木がこのように置かれていた。
御柱の先端、御幣の付けられたあたりに勢子の代表が乗る。柱を支えている綱が切られ、柱もろともに坂を下る…というか落ちていく。落とされる柱が跳ねたりひっくり返ったりしたら命にかかわる行為のだが、もちろん氏子たちには名誉な事なのだ。

御柱は各社殿に四つ必要になるので、二宮で八本。上社、下社、それぞれの地域の氏子が担当する。八本のうちどれをどの地区が担当するのかを下社では持ち回りなのだが、上社ではくじびきで決めるのだそうだ。社殿に向かって右側手前が一番位の高い御柱であるとされるので、どの柱を引くことになるのか…くじびきをする人は責任重大。

**

春宮のちかくに三百年前にさかのぼるという「万冶の石仏」がある。

伝説によると、春宮に石の大鳥居を作るときこの石を材料にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出し、石工たちは恐れをなして仕事をやめてしまった。
その夜、石工の夢枕にて「上原山(茅野市)に良い石材がある」とお告げがあり、鳥居は完成。この石には阿弥陀如来を祀って記念としたそうである。※説明文より

諏訪湖畔から少し山側へ入った斜面にくねくねと続く中山道をいき、高台にあがったところにある蕎麦屋で昼食。
今日は天気が良すぎて風景が白くなっている。遠方の山々はちと見えないが、湖は眼前に広がっている。もちろん新蕎麦をいただきました。

近くの立石公園からのパノラマ↓拡大してご覧ください

この公園に国蝶オオムラサキの飼育(?)をしているところがあった。このあたりはかつて普通にとんでいたのだそうだ。コムラサキという蝶もいるのだそうだ。へぇ。

~続く



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