旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

富山(高岡)日帰り~高岡大仏は移動していた

2016-11-30 11:19:01 | 国内

来春一月のスリランカの旅説明に、富山へ日帰り。飛行機でやってきた。

雪山を超えて富山湾が見えてくると、飛行場はもうすぐ。

空港から富山駅へ向かうバスから、復元された富山城が見えた

今日向かう高岡は、富山から金沢方向へ列車で二十分ほど。近年北陸新幹線が出来たので、金沢手前の富山にも首都圏からの観光客が増えたらしい。接続も便利になっているのかもしれない。朝十時半には高岡の方にお会いすることが出来た。

**

「高岡で見たい所があればいってくださいね」と言われて、すぐに思い出したのは、高岡は銅像の街だということ。金沢二代目藩主が職人たちを優遇して誘致して歴史が始まり、現在では全国の銅像の九割?が、ここ高岡で造られているのだそうな。

その、象徴といってよいだろうか。高岡大仏は「日本三大大仏」に数えられている。

訪問した方の事務所に、ふとみると、そのミニチュアが飾られていた。

「これはオリジナルからとられたものなんですよ」 つまりホンモノと同じ型からつくらた限られた数しかないオリジナルをうたう事の出来る作品であった。

さっそく、ホンモノの場所へお連れくださる。意外だったのは、住宅街の中とでも形容したい場所にあるということ。車を止めたすぐうしろに、大仏様の背中がそびえていた。

ご対面にはやはり正面からお会いしたい。いったん参道の端まで行き、そこからゆっくり近づいてゆく。参道入口左右には仁王様。

光背をいただいた姿、落ち着いた顔から光る眼が参道をゆく人々を見据える。距離によって、位置によって、その視線の与える印象は変わる。参道の距離は大事なのだ。

参道はしかし、最初からこの長さがあったわけではないと、説明いただいてはじめて知った。大仏様は数十年前まで上の写真の灯篭の位置にあった。

「大仏様の後ろに土地が確保できたので、私の会社が動かすのを請け負ったのさです。灯篭はそれで寄進させていただいたのです」なるほど、この距離が、大仏様のお姿を見る時とても役にたっております。

奉納された灯篭がこれ↓

***

大仏様の下入る。「火事で焼けた大仏の頭の部分だけが安置されています」と、ホームページに解説されていたもの、見てみたい。

この大仏は、三代目で二代目までは木造だった。明治三十三年の大火で焼けてしまったのを、今度は得意の同で復元した、というわけである。↓

お顔の周りを囲っている青銅の仏たちは、もともとは今の光背に取り付ける予定だったもの。重すぎて断念することになり、ここに展示されているのだ↑

巨大な大仏の顔と共に撮った記念写真が飾られていた。これは、この木造の顔とはちがうようですが、どんな由来なのだろう?↓

年号は明治四十四年となっている。大火の十一年後ということ。

よく読んでみて理解した。これは、今現在の大仏様の顔だけが完成したのを記念して、職人たちが撮った写真だったのである。そうか、大仏をつくりだすには、それだけの年月が必要なのである。

それにしても、見る位置によってこんなに印象が変わるのか。下から見上げたお顔と比べる↓

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帰国日の朝も市場見学とスパーダ絵画館へ

2016-11-05 09:18:01 | イタリア

帰国便に乗る日だが、正午まで時間がある。この立地のホテルだからこそ、朝の三時間を有効に使える。徒歩五分のカンポ・デ・フィオーリの市場へ行こう。

↓下の写真、左はプンタレッラというローマでよく食べられている冬野菜。チコリの仲間なのでちょっと苦みが特徴でそれがおいしい↓

ザクロのジュースを試してみた↓

ま、味は飲んでみないとわからないですからね(^^)

チーズもたくさん この市場は観光客もたくさんやってくるので、それ向けの商品もたくさんあるが、それと同じぐらい日常の買い物の為の場所でもある。その混在具合がちょうどよいのです。

***一度ホテルに戻り、荷物を整理して10時半にチェックアウト。手荷物もホテルに預かってもらって、ほんの一時間だがスパーダ絵画館へ行ってみよう。こちらも徒歩五分。スパーダ家の邸宅がそのままミュージアムになっている場所。 超有名でなくても、気軽に短い時間に楽しめる、質も充分に高いモノがそろっている↓

中庭から建物外側のストゥッコ装飾を見上げる↓

セキュリティをうければここまでは無料で入る事が出来る。そして、その一角に、「ボッロミーニの遠近法」と呼ばれるおもしろい列柱がある↓

バロックの建築家としてベルニーニのライバルだったボッロミーニが1653年にベルナルディーノ・スパーダ枢機卿のためにつくった。奥行き9メートルしかないが、視覚的には35メートルの距離に見えるように、奥の柱をだんだん小さくしてこのような視点になった。管理人さんがわざわざ中へ入って行って「ほおら、奥に行くと、僕の方が柱より大きくみえるだろう?」とサービスしてくれた。

有料の絵画館(といっても5ユーロ)は、階段をのぼってゆく。19世紀までの絵画展示方法で、壁いっぱいにたくさんの絵がかけられた部屋が十ほどある↓

フレスコ画の壁も↓

「ちいさいけれどきれいな風景画ですね」と、お一人が目を留めた風車の画かれた小品。作者を見てみるとあのブリューゲル(父)の作品だった↓

「タベルナコロ」とよばれる、ちょっとした隠し引出のあつまった箪笥↓

「ほおら、こんな風にあけられるんだよ」と実演してくれた、先ほどの係員さん↓

17世紀頃の地球儀↓日本は西半分だけが西洋に認識されていたのが分かる↓

****さぁ、あと少しで正午。充実した午前中だった。小さなバスはテベレ川ちかくに待っていてくれた。ホテルからほんの十五メートルの場所⇒ 空港までは四十分ほど。

増えすぎた荷物をスーツケースから出して、紙袋に入れ替えて、それをこうして10ユーロのラッピングサービスしてもらった方。こうすれば、二個目のにもつとして預けられる。なるほど。

充実したローマとその周辺都市見学の旅でした!

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ボルゲーゼ美術館 ひさしぶりの再訪

2016-11-04 21:52:25 | イタリア

11月4日の午後はオプションでボルゲーゼ美術館。予約制で二時間ごとに一定数しか入場させない。だからこそ見学環境が保たれていると言っていいだろう。二階だけの、それほど大きくはない邸宅美術館だが、いや、だからこそ見るべき場所なのだ。

●「アポロとダフニ」若きベルニーニの作品は、小松がその作者の名前も知らない時に見て、呆然・唖然とさせられた↓

同じく、ベルニーニの「プルセルピナの略奪」↓

同じくベルニーニの「ダビデ」は、自分自身の顔。歯を喰いしばった顔は、自分自身を火であぶって、我慢する顔を見てモデルにしたと言われている↓

●19世紀のアントニオ・カノーヴァがナポレオンの妹をモデルに彫った「パオリーナ」も、ベルニーニの系譜に連なる彫刻家としてよいだろう↓

↑ボルゲーゼ家の当主がこのパオリーナ(フランスでは「ポーリーヌ」と発音)と結婚したので、これが制作された。

カラヴァッジョの作品群も、もちろんみどころ↓

二階にあるベルニーニの制作した、二つの、ほぼ同じ「シンピオーネ・ボルゲーゼの胸像」が並んでいる↓

↑上の写真左のものは、よく見ると額に横にヒビがはいっているのが見えるだろうか。 このヒビは完成直前に何が原因かわからないがついてしまったものと言われる。そこで、急きょまったく同じ胸像を彫り上げたのが右遠目に写っているもの。こうして並べて見比べると、先に制作していたものの方が生き生きしているようだ。

↑上の写真、二つの胸像の間に置かれている小さ目の胸像もベルニーニの少年時代の作品「パウルス五世」。以前は別の場所に展示してあったのを覚えている。今回しばらくぶりに訪れて、けっこう配置換えがあるのに気付いた。

ボルゲーゼ美術館については、また、別の機会にゆっくりと(^^)

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フォロ・ロマーノを歩く

2016-11-04 12:52:18 | イタリア

ホテルからフォロ・ロマーノへ行く前に、近くのサン・ルイ・フランチェージ教会へ行く
もちろんカラヴァッジョの出世作を見に

近くのパンテオンも見ておきましょ↓
世界中のあらゆる建築家に影響を与え続けてきた、紀元後二世紀の独創的な建物↓しかし、そんな事を知らなくても、不思議な雰囲気のこの空間には誰でも魅了されるのではないだろうか↓

タクシーにのって、フォロ・ロマーノのパラティーノ側入場口へむかう。

途中見えてきた「マルケルス劇場」は、コロッセオよりも80年以上も古い時代につくられたもので、コロッセオの建築上のモデルになったと言われている↓

今日は、第一次大戦のパレードがあるとのことで、パラティーノの丘の下までつくのに、少し時間がかかった。入場⇒ゆっくりと丘を登ってゆくと、広大な宮殿の跡がみえてきた。

パラティーノの丘はもともと皇帝たちの宮殿があったところで、パレスという英語の語源にもなっている場所。フォロ・ローマ―の一画にあるというよりも、フォロ・ロマーノを見下ろすフォロ・ロマーノよりも大きな敷地をもった宮殿跡↓

贅沢な黄色の大理石の柱がころがっていた↓

もともとローマは七つの丘の上に出来た街だったというのがよく理解できる。

あ、うさちゃん発見ガイドさんの話によると、ずっとここに住み着いている二匹のうちの一匹。栄養よいです(^^)

 

下は、皇帝が見おろしていたフォロ・ロマーノの眺め↓



こんどは、下から見上げる皇帝宮殿の跡↓さっきはあそこから見下ろしていたのだ。


●ティトス帝の凱旋門は、紀元後一世紀の建築↓

 

内側に刻まれた、ティトス帝がエルサレムのユダヤ人反乱を鎮圧した凱旋の様子。ユダヤのシンボルであるメノーラ(七つの燭台)が見られる↓

 

 

これゆえに、ユダヤ人はこの門をぜったいくぐらないのだそうだ。

 

オリジナルの古代の石畳⇒ 暗殺されたカエサルがここで火葬されたと言われている場所⇒今でも花を手向ける人が絶えない。

 

●ロムルスの神殿(コスマ&ダミアーノ教会)↓は、AD307年にマクセンティウス帝によって建設された。ロムルスといっても、ローマの建国者のロムルスではなく、マクセンティウスの若くして亡くなった息子ロムルスに捧げたもの↓

 


↑ブロンズの扉はなんと4世紀のオリジナル!今でも錠前は作動するのだそうだ。

 

↑神殿は後年になって教会として使われるようになったのだが、入口は逆サイドの二階部分につくられた。※そちらから入ると、教会として使われるようになってから作られた黄金のモザイク画を見ることが出来る。また次回。

 

19世紀にはフォロロマーノが半ば土に覆われていたので、↑この扉は開かなくなっていたのだが、1879年にもういちど開くところまで復元されたとのこと(現地の解説版より)↑

 

●アントニヌス・ピウスと妃ファウスティナの神殿↓(サン・ロレンツォ・イン・ミランダ教会)

 

 

五賢帝時代の四番目にあたるアントニヌス・ピウス帝がAD141年に妃のファウスティナに捧げたもの。こちらも後年教会に転用されたので、神殿の柱の後ろに教会が入り込んだような面白い形状を見せている。横から見るとそれはもっとよくわかる↓

 

 

フォロロマーノを横切って20世紀につくられたフォーリ・インペリアーリ通りに出る↓

 

 

上の写真でいちばん左にちょっとだけ見えている「イタリア統一記念塔」は1911年にフォロロマーノの一部を壊して(下に入れ込むようにして)、建設された↓

 

 

そのままコルソ通りを少し歩き、昼食は19世紀のアーケードの中にあるバッフェにむかう⇒

 

 

あ、こんなところでバッフェ昼食、美味しそう・楽しそう(^^)↓

 

  

 

 

晴れたけれど、暑すぎない、フォロロマーノ散策には最適の午前中だった。

午後はオプションでボルゲーゼ美術館へ・・・

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ヴァチカン特別観光

2016-11-03 17:43:48 | イタリア

見たかった★「ブラマンテの螺旋(階段)」

 

 

特別の許可をもらったグループしか入る事が出来ない場所。

 

※⇒こちらから動画ごらんいただけます

 

※⇒こちらに日本の会津「さざえ堂」に至る螺旋の話、書きました

 

***午前中のトラステヴェレ観光を終え、ホテルで二時間休憩。14:45に再びホテルを出て、ヴァチカン特別見学に向かった。ヴァチカン・ミュージアムは見所が多く時間もかかるから体力を回復して、気持ちも新たに訪れてほしかったのであります⇒ 通常の入場、その後特別観光の場合グループに専用の係員が付いてくれて、「特別観光」の入口を開けてくれる。まずは、冒頭の「ブラマンテの螺旋(階段)」。

次の★「マスクの間」は、古代の動物彫刻コレクションの部屋の奥に位置していた。古代も今も、動物に対する人間の視線は変わらない↓

「マスクの間」は、床の中央に古代ローマのモザイク画がはめられているゆえ、そのように呼ばれている↓

周囲を囲む蔦のデザインは、この床をつくった16世紀ごろのもの↑古代のモザイク画と上手に調和させている。

部屋の一角に、おもしろい椅子があった。これが★「法皇が男であることを確かめるための椅子」↓伝説的に語られている

伝説では9世紀に「ジョヴァンナ」という法皇が女性で、当時使っていたラテラノ宮殿からサン・ピエトロ聖堂への行幸行列中に愛人の子供を出産するという「不祥事」が起きたという。これ以後、新法王が男であることを確かめる習慣がはじまり、この椅子に新法王が座ると、枢機卿の担当者が下から穴を見て「"Testiculos habet et bene pendentes"(「彼には、睾丸がある、そして、それはきちんとぶら下がっている」)と宣言する」習慣だったとか(Wikiのweb辞典より)」あるいは、手を入れて触ってたしかめていたとか↓

※⇒こちらにもう一つの椅子の写真を含め、書きました

この椅子、ホンモノをみると高価な赤大理石でできている。そして、実はキリスト教成立以前の古代のモノというのが考古学的解釈だそうだ。赤大理石は古代ローマ皇帝の棺にも使われる高価な材料。この椅子はローマ皇帝ファミリーの出産用の椅子だったのではないか、との仮説である。

それが、法皇庁にて使われたのは、「大地の恵みをもたらす法皇」の椅子として使われた?との推察につながっている。ううむ、謎の多い椅子。だからこそおもしろい。

★ニコリーナ礼拝堂は、ニコラオス五世がフラ・アンジェリコに描かせたフレスコ画でうめつくされた小さな空間。フラ・アンジェリコが遺した大画面フレスコの最高傑作とも言われる。以前は一般観光でも入場することが出来ていたが、小さすぎる場所だからか、近年は「特別観光」でのみ見学できる場所になった↓

※このフレスコについてはまたの機会にふれたいとおもいます

三か所の「特別見学」を終えると、もう16時半近くになっていた。一般的な観光は17時には追い出されてしまう。そこまでの時間で、ラファエロの「アテナイの学堂」をはじめ、著名なフレスコ画で飾られた部屋を見学した。

そして17時。え?これからシスティーナ礼拝堂へ入って良いのですか?↓

我々が入ると、最後に残っていた見学者が出されてゆく。 怪訝そうな人々の視線をうけながら、ヴァチカンのガイドさんと我々十人だけが、システィーナ礼拝堂に残された。

・・・静かだ。そして、広い。 いつも満員電車の様な人の中で見ているので、これほど巨大な絵であった事を忘れていた。振り仰ぐと、降ってくるようにフレスコ画が視界をいっぱいにする。 ・・・なんという迫力、さっき見たフラ・アンジェリコのニコリーナ礼拝堂と比べてはいけないのだろうけれど、スケールも表現力も、桁外れである。 ミケランジェロは弟子を使わず自分一人で画いたなんて、あらためて驚いてしまう。

通常は中でのガイディングも禁止されているシスティーナ礼拝堂だが、この貸切では特別に許されている。ガイドのUさんは時間いっぱいまで、じっくりと解説してくださった。

 

外へ出ると、もう真っ暗 専用のミニバスに乗って、ホテルまで帰る。が、すぐにみんなでカンポ・デ・フィオーリ近くの老舗レストランへ。ここはもとポンペイウス劇場があった場所で、カエサルもその一角で暗殺されたと言われている場所。地下の部屋にはこんなふうに古代の柱ものこされている↓ メニューには、アーティチョークのフライも入れてもらった↓ 「ここのティラミスは絶品ですよ」とのことで・・・ん、たしかにおいしい 「なんと得難いヴァチカン特別見学だったのだろう…」終わってみてひしひし感じている。
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