来春一月のスリランカの旅説明に、富山へ日帰り。飛行機でやってきた。
今日向かう高岡は、富山から金沢方向へ列車で二十分ほど。近年北陸新幹線が出来たので、金沢手前の富山にも首都圏からの観光客が増えたらしい。接続も便利になっているのかもしれない。朝十時半には高岡の方にお会いすることが出来た。
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「高岡で見たい所があればいってくださいね」と言われて、すぐに思い出したのは、高岡は銅像の街だということ。金沢二代目藩主が職人たちを優遇して誘致して歴史が始まり、現在では全国の銅像の九割?が、ここ高岡で造られているのだそうな。
その、象徴といってよいだろうか。高岡大仏は「日本三大大仏」に数えられている。
訪問した方の事務所に、ふとみると、そのミニチュアが飾られていた。
「これはオリジナルからとられたものなんですよ」 つまりホンモノと同じ型からつくらた限られた数しかないオリジナルをうたう事の出来る作品であった。
さっそく、ホンモノの場所へお連れくださる。意外だったのは、住宅街の中とでも形容したい場所にあるということ。車を止めたすぐうしろに、大仏様の背中がそびえていた。
ご対面にはやはり正面からお会いしたい。いったん参道の端まで行き、そこからゆっくり近づいてゆく。参道入口左右には仁王様。
光背をいただいた姿、落ち着いた顔から光る眼が参道をゆく人々を見据える。距離によって、位置によって、その視線の与える印象は変わる。参道の距離は大事なのだ。
参道はしかし、最初からこの長さがあったわけではないと、説明いただいてはじめて知った。大仏様は数十年前まで上の写真の灯篭の位置にあった。
「大仏様の後ろに土地が確保できたので、私の会社が動かすのを請け負ったのさです。灯篭はそれで寄進させていただいたのです」なるほど、この距離が、大仏様のお姿を見る時とても役にたっております。
奉納された灯篭がこれ↓
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大仏様の下入る。「火事で焼けた大仏の頭の部分だけが安置されています」と、ホームページに解説されていたもの、見てみたい。
この大仏は、三代目で二代目までは木造だった。明治三十三年の大火で焼けてしまったのを、今度は得意の同で復元した、というわけである。↓
お顔の周りを囲っている青銅の仏たちは、もともとは今の光背に取り付ける予定だったもの。重すぎて断念することになり、ここに展示されているのだ↑
巨大な大仏の顔と共に撮った記念写真が飾られていた。これは、この木造の顔とはちがうようですが、どんな由来なのだろう?↓
年号は明治四十四年となっている。大火の十一年後ということ。
よく読んでみて理解した。これは、今現在の大仏様の顔だけが完成したのを記念して、職人たちが撮った写真だったのである。そうか、大仏をつくりだすには、それだけの年月が必要なのである。
それにしても、見る位置によってこんなに印象が変わるのか。下から見上げたお顔と比べる↓