旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

カルカソンヌ、Hotel De la Citeでディナーを

2014-11-24 00:43:54 | フランス
フランスでモンサンミッシェルの次に観光客が多いというカルカソンヌ。
その城壁の中で最高のホテルがDe la Citeであるのは衆目の一致するところだろう。

前菜①●Duck foie gras cooked by itself, cured duck breast,
pink grapefruit marmelade, warm brioche bum, some pink pralines

この地方の名物のひとつフォア・グラ。これにはオレンジなどの甘めの食材と合わせることが多いが、今回はグレープフルーツのマーマレードと。ピンクのプラリネはさくっとしたビスケットという感じ

前菜②●Poached Tarbouriech Oyster , aspic of granny smith apples,
fennel and lemon confit, mini rye toasties with caviar, cider vinegar butter


ラングドック・ルシヨン地方の地中海で育てられた高級牡蠣「タルボリッシュ」を軽く茹でて、青リンゴのゼリーとうききょうとレモンのコンフィ、それにキャビアをのせたライ麦の薄いトースト。シードルにビネガーバターのソースがかけられている。
これまで牡蠣をこんな風に食べたことはなかった。今日いちばんの独創的な一皿だろう。すごくおいしい、かというとそうではなかったけれど、記憶に残った。

メイン①●Roasted wild turbot, porcini mushrooms with parsley and garlic,
potatoes with local saffron, turbot arnaise sauce

ローストしたヒラメ?カレイ?
実はこれは簡単ではない。辞書でひいても、カレイと書かれているものとヒラメと書かれているものがある。
「左カレイに右ヒラメ」は日本でしか通用しない事実なのであった。
※この話はこちらにもう少し詳しく書きました
ソースはベアメーズ~バターとエストラゴン、卵黄、を酢で煮詰めたもの

メイン②●Pan fried veal sweetbreads, sweet potato, chanterelle mushrooms with endives, puffed potatoes, veal coffee sauce

子牛肉を焼いたもの、ソースがコーヒー味というのはどういうのかと思っていたが、これがけっこう合う。カンタレッリ(=シャンタレッリ)という北ヨーロッパでもよくつかわれるキノコは旬で香りたかく味もよかった。この季節らしい。そして、人参のように見えるのはなんと、薄く長くスライスしたポテトを巻いたもの。色はサフランに漬けられて黄色くなっていたのだ。

デザート●Warm souffl with amarena cherries,
chocolate dacquoise with ice cream and kirsch

この写真ではなんのことかわからなくてすみません。温かいスフレとアマレナのチェリーは別の小皿。チョコ味のダコワーズ(メレンゲを使った焼き菓子)の下にアイスクリームとさくらんぼのコンフィが入っているのです。

コーヒーとスイーツ●
コーヒーとチョコ
コーヒーを頼むと自動的に出されるちょこっとスイーツ。

終わってからも、すぐ前にあるバーでゆっくりしたい。そんな雰囲気が楽しめる場所なのです。
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聖家族教会の塔にのぼり、カタロニア美術館へ行き、かたつむりを食べる

2014-11-13 01:42:59 | スペイン
《手造の旅》カルカソンヌからバルセロナへ8日間、最後の滞在都市バルセロナを観光する日。

訪れるたびにその進捗状況が気になるのが聖家族教会(サグラダ・ファミリア)

現在建っている使徒の塔のさらに上にキリストの塔が建つのが早く見たいもの。
およそ百年前のガウディが手掛けた部分はやはり他に比べて異彩を放っていると言っていいだろう

今回、小松がはじめて目にしたのは誕生の門の入り口に取り付けられた緑色の葉

まさに森に入っていくイメージなのだ。
まだ全く完成していない「栄光の門」を入ったところから正面祭壇を見て、天井方向へパノラマ撮影


最終的に正面玄関になる予定の「栄光の門」の外は現在ばんばん車が走る道路になっている。現在の予定では、三メートルの高低差を利用してその道路をまたぐブリッジをつくる事になっている。
これがその模型

少々わかりにくいが下が現在のその道路の様子。教会側の壁はまだコンクリートの打ちっぱなしそのまま。
また、ブリッジが出来たらぶち当たることになる右側の家はまだ立ち退いていない。


新しくつくられた柱は石ではなく、コンクリートに石を張ったモノ


★塔の上に上るエレベーターは、一般のツアーではなかなか含まれていない。が、もちろんその価値がある。
誕生の塔を内側から見ると

塔の上の果実を間近に

工事主任だったスビラックス氏(なんと今年2014年春に亡くなったのだそうだ)の彫刻を後ろから

工事人の家族の子供たちのためにガウディが建てた学校の屋根がおもしろい。

そして、有名な巻貝そっくりのらせん階段を下りる

見上げると

どこにでも落書きする人はいるのね


地下の博物館も展示が変わるから見ておかなくては。
今回、信頼するガイドさんに教えていただいたのは、ガウディがデザインした鐘。
この細長い鐘は建物の形にあわせてデザインされたものだろう。
しかし、実際に設置されることはなかったのだそうだ。


****
●サン・パウ病院
同時代の建築家で、ガウディの師のひとりでもあったルイス・ドメニク・モンタネリが手掛けた。今でも現役の病院で、世界遺産にも登録されている。net百科事典には「老朽化で閉鎖された」などと書いてあるが、実際は敷地内の別のモンタネリが設計した建物で診療が行われている。なにせ9区画全部をつかった広大な敷地になっているのだ。この主要ビルだけは病院機能が除かれているが、申し込めば見学できる。

正面玄関には出資者のパウ・ジル氏の像が置かれている


モンタネリはガウディより二歳年長でしかないが、資産家の家に生まれ、建築家としての活躍も早かった。
1888年の万博では、こんなレストランも建設している

代表作は世界遺産となったカタロニア音楽堂だろう。


*****
●グエル公園
今年、入城有料になってからはじめて訪れた。
だが、公園全体が有料化されたわけではなく、主要ヶ所だけを「モニュメント・ゾーン」としていた。
ここから

市場の為の屋根

正面階段


バスの駐車場へは外壁にそって坂をのぼる

ここは無料エリア


******
●カサミラ
2014年11月現在、カサミラの外観はこんな様子

修復が終わった横の部分だけちらり

内部は普通いオープンしているので見学できる。もちろん有料だが。

カサミラの斜め向かい、グラシア大通りを挟んで日本人建築家の建物がある

仙台メディアテークを手掛けた伊藤豊雄氏ももちろんガウディに敬意を表しているのだ。

*******
★昼食はピンチョスのお店で好きなものを食べよう。人数が少ない《手造の旅》だからこんな店にも入って好き勝手出来る。
お昼時にはカウンターの作り置きだけでなく、温かいものをどんどん出してくれる。厨房から出てくるときにチーンと大きな音をさせて知らせて、席をまわってくれるなんだか飲茶みたいで楽しい(^^)
そして美味しい!
お勘定はピンチョス(つまようじ)の数×1ユーロ+飲み物代金。実にリーズナブルで簡単。※でも、会計には結構時間がかかっておりました。
次回の手造りもここで食べたいなぁ(笑)

*******さぁ、いよいよカタロニア美術館へ向かう。もと闘牛場のショッピングセンターがあるスペイン広場をすぎると、丘の上に宮殿のような建物が見えてきたここが、ロマネスク壁画のコレクションでは世界唯一無二のコレクションを収蔵するカタロニア美術館=通称MNACである。


ピレネー山脈の村にのこされた小さな教会にはたくさんのロマネスク彫刻がある。二十世紀初頭にはほとんど顧みられず、ぼろぼろになっていた壁画をはがして一堂に集めているのだ。展示方法はもともとどのような場所に・高さにあったのかを再現するかたちでされているのが良心的。下のような展示スペースがたくさんあるのだ。

一点一点が大きいので、ここまでにするにはたいへんな労力がかかっただろう。小松は博物館が修復される前に訪れて以来だったので、ずいぶんまた進歩したと感じた。
おなじみのロマネスク柱頭彫刻も豊富

まったく日本の仏像彫刻にそっくりのものも 迫力のグリフォン。縦一メートルぐらいあります きのう訪れたカルドナの教会入口のフレスコを発見なにもなくなってしまった現状をみた後だと、「どうして元の場所に置いておいてくれなかったの?」と思ってしまうが、剥がす決断をした当時はそれだけひどい現状だったのだろう。

カタロニア美術館のドームの下はこんなふうになっている↓

現在、前述のロマネスクだけでなく、ゴシック部門も、ルネサンスやバロックの部門も、ピカソなどの現代美術の部門も設置されて、一日ではとても見切れない。※必見はここにしかないロマネスク壁画ですが。

*******
ひとやすみして、18時から今回の旅で最後の夕食へ。
18時はスペインの夕食時間ではまったくないが、20時半からではあまりにも辛い方が多いので、この時間でもオープンしていて、かつ、ぜったいおいしい料理を提供してくれる老舗を選んだ。
●ロス・カラコーリェス
いりぐちはほんとに小さい、わかりにくいが、中は迷路のように入り組んでたくさんの部屋がある。
 「かたつむり」の名前通り店内には各所にかたつむりナプキンもこんなそして、料理にもカタツムリこれはしかし、フランスのエスカルゴとは全く違う料理法と味。身よりもソースがおいしい。
季節のキノコも 数年前北スペインの旅で知って大好きになったピミエンテ・デ・パドロンもあった!
これは、辛いものが時々あるのだが、どれがそうかは見た目では分からない。
冬になるほど辛いものに当たる確率がたかいようだ。今回小松は2/5で当たりました。
もちろん焼いたピミエンテもバカリャオ(塩漬けタラを水もどし)のサラダ
そして、パエリア三種類をメインにしましたデザートはクレメ・カタラナいわゆるクレメ・ブリュレと同じ。他にチーズとはちみつというシンプルなのもおいしかった。

《手造の旅》最後の食事もおいしくいただけて満足(^^)
食事を終えてもまだ20時半というのも、体が楽(^^)
いかに「郷に入っては郷に従え」というものの、おいしく食べるためには体調を考えた方がよいですね。




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カタロニアの小さな町めぐり②~カルドナ、マンレサ

2014-11-12 19:56:18 | スペイン
イエズス会の創始者イグナチオ・デ・ロヨラが神と対話した洞窟が↑写真右の大教会の地下にある。
**
●カルドナは日本人にも人気のパラドールが丘の上にそびえている。

いかにも古城といった風情は確かに目を引く。今回ここへ泊るかどうか迷ったが、あえてお昼のお茶にて訪れることにした。

城の入り口で車を降り物見やぐらからながめる↓

露天掘りされているのは塩!

カルドナは中世以来岩塩があることで繁栄してきた。
川には古い橋の枠だけがのこされている。

乙女の塔の横にあるカフェでゆっくり

15時から城内にあるロマネスク教会の見学ができる。

中庭をとおり

教会のカギが開けられ内部に入ると、ロマネスクにしてはとても明るい空間がひろがった。

壁には何の絵もない。かつてはあったのかもしれないが。
高さは二十メートルほどもあるだろうか。中央の天上に光を入れるための穴があけられている。

同様のものはけっこうほか他の場所でも、オリジナルの構造が残されている所ではみかけた

寡黙な管理人さんがあとからおしえてくれたのだが、この構造の上には木造八角形のカバードームが後年付け加えられている。下の断面図がそれ↓

見れば、内部が三階に区切られているが、18世紀ごろは兵士がここに寝泊まりしていたのだそうだ。

祭壇の前にある階段から、半地下のクリプトに入っていける

この柱の構造は、あのガウディが使っているものと同じ。


小さな窓にはまっているアラバスターの石はホンモノなのだろうか

本堂の床横に一段低くなっている部分があるが、こちらが修復以前のオリジナルの床になるのだそうだ。

階段で上階にもあがっていける


入口のポーチには、現在はなにもないが、そこにあったフレスコ画を、バルセロナのカタロニア美術館で見つけた。

バルセロナのカタロニア美術館は、およそ世界でただ一つ、ロマネスクの壁画のコレクションがまとまって見学できる場所である。
しかし、いかに剥落の危険がある状態だったとはいえ、もともとの壁からフレスコ画を剥がしてくるのには抵抗があったにちがいない。せめて、元あった場所にはレプリカを置く配慮がほしい。カルドナのなにもなくなってしまった壁を見て、あとからバルセロナでホンモノを見ると、そう思わずにいられない。

**カルドナから二十数キロでマンレサ

●マンレサ
ネットで情報を集めていた時には、この古い橋が目をひいた

だが、是非行ってみたいと思わせたのは「イグナチオ・デ・ロヨラが瞑想した洞窟があって、そこには高山右近の絵が画いてあるのですよ」というガイドさんからの言葉だった。

まさかこんなスペインの田舎町に、高山右近の姿が描かれているなんて。
日本にキリスト教を伝えたイエズス会の創始者ロヨラゆかりの場所だからなのだろうが、見てみたい。

もともとは洞窟しかなかった岩山には、現在壮麗なイエズス会の「宮殿」が建てられていた。

谷を挟んで旧市街の丘の上にはゴシック様式の教会が見える。

小型のバスは教会の入り口まで到着。バロックスタイルの入り口を入る

内部ももちろん新しい

イグナチオ・デ・ロヨラは貴族・軍人だったが、二十歳の時戦場で負傷し療養中に宗教界への志をもった。

マンレサに来たのはここからほど近い高名な巡礼地モン・セラート(のこぎり山)の修道院を訪れるため。
そこに軍人として使っていた剣を奉納した後、この崖の洞窟で十か月の間祈りの日々を過ごしたのだった。

のこぎりのようなモン・セラート山がロヨラの祈った洞窟からも見える

1522年の春、ロヨラがやってきた洞窟は、教会を入って左の奥の方に隠れるように位置している。

ここでひたすら神との対話の日々を過ごし、その時に刻んだという十字架も残されている

正面祭壇には神から啓示をうけて、何かを書いているロヨラの姿

後年出版されることになる英語なら「Spiritual Exercises」日本語では「霊操」と訳されている文章を書き始めたのだと言われている。※「霊操」とは体ではなく心の体操という意味

この洞窟への前室の壁に
★高山右近は描かれていた。

レパントの海戦で活躍したスペイン王の弟ドン・ファン・デ・オーストリアの横でロザリオを手に祈っているちょんまげ姿。

名前はJUSTO UKANDONOとなっている。
彼は十二歳の時に父の影響で、日本人イエズス会士ロレンソに洗礼を受けてJUSTOの名前をもらった。ロレンソはあのザビエルの弟子である。

「UKANDONO」はもちろん「右近」なのだろうが、彼の本当の名前ではない。朝廷からの冠位からきている。しかし、調べてみると本当に朝廷より「右近衛大将」に任命されたわけではなく、自分でそのように名乗っていたようだ。

信仰の為に一国一城の主である地位を捨て、最後はマニラに追放されて客死した。その生き方は、西洋の果てにも畏敬を持って伝えられていたということか。

※このタイル絵は1915年から22年にかけて、イエズス会士マルティ・コロネスによって描かれたもの。今からおよそ百年程度前のものでしかない。
イエズス会は繁栄に驕りが出てか、1773年に法王クレメンス14世によって一度禁止され、1814年になってやっと復活が許された。イエズス会不遇の時代には、この場所も馬小屋になったりして荒れ果てていたのだそうだ。

***
17時前にバルセロナのホテルに到着。夕暮れてゆくランブラス通りを歩き、大聖堂の裏側ゴシック地区まで足をのばした。十数年前ならひしひし「危ない」感があった場所だが、観光客が押し寄せている影響か、ずいぶんこぎれいになっている。
それでも、皆さん手ぶらでいきましょ。盗られる標的になるものを持っていなければずいぶん安心です(^^)

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カタロニアの小さな町めぐり①~セウ・デウルジェル、Organya,Solsona

2014-11-12 08:15:20 | スペイン
きのう夕暮れの雨の中、17時半ごろにセウ・デウルジェルのパラドールに到着した。20時半からの夕食をご紹介。
○Escudella(エスクデッラ)地元の名物スープだそうな

ひよこ豆、しろいんげん、セモリナ粉、ソーセージにミートボール、それに野菜もいろいろ入っている。
出汁がよく出ておいしい。
メインはステーキシンプルだが付け合せも含めておいしい。デザートはリンゴまるごと甘く焼いたもの

パラドールは朝食も楽しみいろいろな種類があるのもそうだが、やはりパンがおいしい。このフォアグラと、ついつい食べてしまいました

**カタロニアの小さな町めぐり~こんな行程は《手造の旅》でなければできませぬ

●セウ・デ・ウルジェルの街は小さい。宿泊したパラドールのすぐうしろに大聖堂がある。

まるで要塞のような外観。実際にそういう役割があった時代だったのだファサードにはロマネスクらしい彫刻


09:30過ぎにやってきて開館準備をはじめた管理人さんに頼んで早く入れてもらった。中庭の回廊ここの柱頭彫刻は特におもしろくて見飽きない。この人物は楽器を弾いているように見える。

修道士たちの為の教会部分壁に刻まれた鐘の絵と文字はなにをあらわしているのか?

10時になって博物館が開いた。
この地方の貴重なロマネスクフレスコ画集められている。日本の古い仏画の様。
驚いたのは、こんなところで日本語の説明があるビデオが用意されていたこと。時々は日本人観顧客もやってくるということだ。このビデオで解説されていたのは10世紀ごろの写本について。まさにロマネスク時代に画かれた挿絵は、率直に見れば棟方志功を思い出させるとてもモダンな表現がされている。

ビデオ上映された部屋に、ペルガモ紙(=羊皮紙)でつくられた本が置かれていたが、開かれて見られるのきまったページだけだったが、その美術的価値はよく理解できた。

10:40頃、セウ・デ・ウルジェルを出てソルソーナへ向かう途中
●ORGANYA村の教会もロマネスクの部分が残されているということで、止めていただいた。小さなバスなのでこういう事もできてしまう。ああ、いい感じの入り口ですねぇ全体を見ると広場に面した部分は半分が再建されているのがわかる。壁の上部に残る小さなロマネスクの窓が応時をしのばせる後ろにまわってみると、よりロマネスク建築のオリジナル部分がはっきり残っていた。保護するための屋根がとりつけられたのはごく近年のように見えた。


内部はやはり新しくなっている。現役で使い続けられている教会は快適であるべきなのだろう。祭壇の聖母子像よりも、その横に掲げられてた木彫の磔刑が一見して貴重なものなのだとわかる。服を着たまま十字架にかかっている姿はイタリアのルッカにある「最古の磔刑像」を思い出させる。後陣の丸窓にはめられたステンドグラスも気になる雰囲気は13世紀だがオリジナルなのだろうか。

::街を離れて振り返ると、谷にかかる雲の下にさっきの教会の鐘楼が見えた。

川はいつか細長い湖になっている

●SOLSONAは城壁があった部分が視覚的にわかる町。
このルートを走ることを決めた時、写真と地図を見て止める価値があると感じた。
城壁があった外周道路沿いで下車。頑丈な城壁構造を利用して後年家が建てられているのはよく目にする

城壁沿い、目の前に大聖堂がそびえていた。

丸いロマネスクの後陣の上にゴシックの身廊の屋根がそびえている。鐘楼はロマネスク風だがオリジナルではないだろう。左右に伸びる壁は再構築されている。
教会の入り口部分はルネサンスからロマネスク

旧市街の細い道を少し上ってゆく。路地の上に鐘楼が見える。
英語も書かれた説明版によれば16世紀初めごろの塔で、近くにはユダヤ人区もあったそうだ。写真に見える黄色い旗はカタロニアの独立を支持する政党のもの。このあたりは街をあげて独立派のようだ。

軒には応時のものと思われる木彫が見下ろしていた
道なりに歩いていくと、北の城門へ出た。説明版によると、18世紀までは修道院の横に位置していた町への正面玄関だったそうだ。封建時代にも、支配者はソルソーナの意志を尊重することを宣言してから入城していたと説明版に誇らしく書かれていた

★ソルソーナで美味しい昼食!
小松がキノコ好きなので「そんなメニューがどこかで食べたいです」と、連絡しておいたので、バルセロナのガイドさんがそれが可能なレストランを選んでくれていた。
ヤギのチーズのサラダと焼き立てのパン
ヤギが苦手な人でもこれは美味しいと言ってもらえるにちがいない。
ポテトに混ぜてあるのもマイタケのようなキノコオリーブオイルをつけてもよい。オリーブオイルは二種類出されていたが、アルベキーナという小粒なオリーブの種類をつかったものが無類においしく、こんな風にして食べてしまいました  ポークのソーセージ二種類黒い方は血であります。赤ワインによく合う。
ここまでぺろっと食べてしまったので、メインは小さ目にしてもらって正解
牛の頬肉をあんず茸と玉ねぎとともに五時間煮込んだもの。肉もキノコもおいしかったが、「このスープはごはんにかけたいね」との声もあがった。

デザートには地元の甘い蒸留酒と伝統的なビスコットを薄く焼かれていて市販のものより食べやすい。

ゆっくりしっかり食べて、車でお昼寝三十分・・・もう次のカルドナのパラドールが見えてくる。




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不思議の国アンドラ

2014-11-11 15:30:34 | アンドラ
カルカソンヌを出て、ピレネー山脈の谷にある小国アンドラを目指す。きのう遠くに見えていた雪山が近づいてきた

アンドラはフランスとスペインの国境の谷に、シャルルマーニュ(カール大帝)が803年においた辺境伯を起源とする。フランス側のフォア伯とスペイン側のウルジェル(これはカタロニア語発音、スペイン語ではウルヘル)司教が一年交代で統治してきた。フォア伯の城の近くをとおる
中世ヨーロッパには何百とあった小国の中で、現代まで生き延びている国はほんの数か国しかない。それぞれちがった条件がそれを可能にしただが、アンドラの場合にはこの「共同統治」が功を奏して、フランスにもスペインにも併合されなかったのだ。

ピレネーは標高三千メートルを超える峰が十以上ある。今日越えてゆくアンドラ領アンバリラ峠は二千四百メートルほど。国境を超えてすぐのパ・ド・ラ・カサはすでに標高二千メートル。この雪山に巨大なショッピング・タウンが突然出現した。見えてきたカラフルなビルは駐車場だった。

アンドラは近年まで「税金のない国」として知られていた。現在では4%の消費税がかけられるようになったが、それでも周辺ヨーロッパ諸国が20%を超えるのだから、充分に安い。

タバコはフランスで7ユーロのものが半額の3ユーロ半程度で買えるのだそうだ。もちろんブランド品も。そして酒、砂糖なども、多様な品々が免税になるというので、「スキーのついでに」「ハイキングのついでに」買いだしていく。こういうひとをたくさんみかける

 アンドラはEUに入っていないのでこういった「おきて破り」が出来る。だが、使われている通貨はユーロだという不思議。
フランス、スペインそれぞれの国境で、免税買い物の持ち込み量を厳しくチェックしている。品目ごとに持ち込める量が決まっていて、違反するとその場で超課税を払うか、でなければ、元の店まで返品に行かされるのだそうだ。

※我々のバスもスペイン領へ入る時にしっかりトランクをチェックされ、検査官がドライバーに「このスーツケースの中にタバコがいっぱいつまっていたりしないよね」と冗談めかして言った。

フランス語圏とスペイン語(実際にはカタロニア語)との境界線になっているアンバリラ峠で降りてみよう。標高は2400m。

ガソリンスタンド(もちろんガソリンも安い)の向こうまでがフランス語圏のアンドラ
こちら側がカタロニア語圏のアンドラ。

★ガイドさんのお話し
アンドラの農業はもともとタバコをつくっていたのだそうだ。ところがそれは「黒タバコ」と呼ばれる発酵させた葉をつかった強烈な匂いもので(フランスのタバコ「ゴロワーズ・カポラル」に代表されるようなもの)、アンドラでは子供も吸っていた。この状況をなんとかすべく、「タバコ以外の作物を栽培しよう」と運動したので、今はあまり見られない、そうな。
実際に現在のアンドラの産業は、免税を魅力とする貿易とスキーと温泉(温泉湧いてます)を主体とする観光になっている。

小松の素朴な疑問:フランスとスペインからたくさん免税品を買い求める人々が集まるのだから、それだけの品物が外国からアンドラに無税か低い税率で売られていなくては成り立たない。製品を提供する外国企業とはどのような契約がなされているのだろう?その企業を管轄する国はどのような特例で対処しているのだろう?


★★★アンドラのロマネスク教会をめぐる★★★
小松にとって、アンドラは買い物の国では、もちろんない。
今回このルートを走る事に決めた時、「ロマネスクの教会をいくつかでも見られたらよいなぁ」と思っていた。
現地の手配をしてくださる方を通じて、アンドラ唯一の日本語ガイドさんに連絡していただいていた。
そして、三つのロマネスクの聖堂を訪れることが出来、本当に幸いな事にそのひとつに入る事さえ出来た。

①サン・ジョアン・デ・カセレス教会

アンバリラ峠を越えてアンドラ・ラ・ヴェリリャへ行く半ば。ばんばん車の走る道路沿いに見えてくる。この教会を紹介する観光写真には道路は写されていないから、その立地が分かると少し興醒めではある。だが、もともとはこの道を行く人々が祈るのにちょうどよい場所だったのだろう。

構造の美しさはやはり自分の目で見ないとわからない。全体の構造は12世紀頃だが、外側に張り出した部分は15世紀に付け加えられたと解説されていた

12世紀からの壁に、細い石積みの扉のあと




②サン・ミケル・デ・エンゴラステル教会

アンドラ・ラ・ヴェリリャから南へ曲がりくねった道をあがってゆくと、美しい鐘楼が見えてくる。


17メートルの鐘楼に、珍しく顔の彫刻がほどこされている。

華美になどなりようのない、素朴な顔。それが刻んだ人の信仰心をあらわしているような。
実に美しい石積みの後陣↓


扉は閉まっていたけれど、分厚い壁に細く開けられた窓から、暗い石の床が少しみえた。後日、読んだ解説によると、内部には「全能のキリスト」などのフレスコ画があったそうだが、今はバルセロナのカタロニア美術館に移されてしまったようだ。

*そのまま道をのぼっていくと、エンゴラステル湖にでる。今はダムがつくられて人口湖になってしまったが、もともとあった湖なのだそうだ

坂道を降りて湖畔にたどりついたころ、ちらちら雪が舞い始めた


③サント・マルティ・デ・ラ・コルティナーダ教会
首都アンドラ・ラ・ヴェリリャから北へ延びる谷へトンネルを抜けてゆく。アンドラ唯一の日本人ガイドさんがこの教会のカギを持っている人を知っているという。小松がロマネスク好きなのを慮ってくださって、電話してカギを借りてきてくださった<(_ _)>

大きな古いカギは一見して長く使い続けられているのが分かる。この地方では鉄鉱石も産出し、17世紀ごろ製鉄業も行われていたそうだ。教会内部に設置されていたなにげない鉄格子を「これはアンドラでつくられた」とわざわざ説明があったほどに。重く古い、頑丈なこの鍵もこの地でつくられたのだろう。

教会は12世紀頃から、何百年も現役で使い続けられている。当然使いやすいように増改築もされている。この方向から見えるのは17~18世紀の新しい部分だ

最初の入口はセオリーとおり西側だったと思われるが、現在の入口は北側となっていた↓増築時に変更されたということか。

古いカギを差し込みガチャンとまわす

小さいカギも、新しい鍵穴に入れる。驚いたことに、中にはさらに電子式のセキュリティ装置があった。管理人の方からそのコード番号もきいていたので、無事に開錠。
内部は意外に広い

きれいに掃除されて、埃も積もっていない。村の人がいまでも使い続けている雰囲気が感じられる。この地方の伝統的な木彫が施された椅子には「1635」と刻まれていた

天井近くにあるこの装置、鐘を鳴らすための道具だとか

前出のサン・ミケル教会の鐘楼で見られたのと同じような顔がある。

そして、いちばんの収穫は、入口近くの、12世紀から部分の壁あったフレスコ画。多くの保存状態の良いフレスコ画は、剥がされてバルセロナのカタロニア美術館に持っていかれてしまっているから、これだけちゃんと残っているのは幸いだ。

これが12世紀ごろの絵!?こういう絵をかける人は、どの時代にもちゃんといたらしい。

****
ラ・コルティナーダ村からラ・マサダ村をとおり、アンドラ・ラ・ヴェリリャにむかうトンネル部分におもしろい橋がかけられている。
この橋、なんと建設途中で二度も崩落したのだそうだ。ポルトガル人の労働者が五人も亡くなり、アンドラでは大きな問題になっているそうな。

アンドラという国は人工8万人と言われるが、実際にアンドラ国籍なのは2万8千人ほどで、あとは外国人。お話しの彼女も四十年アンドラに住んでいるが国籍は日本で、ベルギー人のご主人との間のお子さんも日本国籍があるそうな。 
こんな話をしていたら、ドライバーのジョルジュさんが「ぼくもポルトガル人だよ」とぽつり。

****さいごに首都
アンドラ・ラ・ヴェリリャの旧市街を少し歩く。公用語は世界で唯一カタロニア語となっている。つまり、バルセロナと同じ文化圏であるということ。民族舞踊もバルセロナと同じ「サルダーナ」その像が路地にたっていた。

郵便制度はフランスとスペインの両方を利用できる不思議な国。
下の写真で左がフランスのポスト、右がスペインのポストである。


旧国会議事堂は1402年に地元の貴族の邸宅を買い上げて設置されたもの。

左右に張り出した丸いものは鳩小屋だそうな。もともとは向かって右にしかなかったのだけれど、バランスを考えて左側にも同じものを追加したのだそうだ。
国旗はフランスの色とスペインの色の両方折衷した雰囲気。そこに描かれた紋章はウルジェルの司教の冠と、フォア伯爵の牛。それにカタロニアを表す金の地に四本の赤い縦線。

よくご覧いただきたいのが牛の向き。下の古い紋章では牛は右を向いている。

「牛がぷいっと外を向いているのはよくないということで、1950年代に向きがかえられたんです」との説明に、一同爆笑。そんな簡単に変更できるんですか?

旧国会議事堂の一角に、アンドラの歴史を表す記念碑が置かれていた。

上半分が1278年にウルジェル司教とフォア伯が、「パレアトジェス」と呼ばれるアンドラの共同統治条約に調印した情景を表す。
下半分は1993年3月14日、ウルジェルの司教とフランス大統領ミッテランが、新しい共同統治に署名をしたところ。

1993年にこのはじめての憲法を制定することにより、アンドラはやっと正式な独立国と世界から承認されることになり、国際連合にも同年加盟したのであります。
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