旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

カトマンドゥ旧市街と新旧王宮

2020-08-10 07:30:49 | ネパール
2005-2010《手造の旅》ネパールより
カトマンドゥ旧市街の中心にあるカーラ・バイラブ神像

破壊神シヴァの化身のひとつ。中世ネパールではこの像の前で罪人に白状させたのだそうな。
すぐちかくに旧王宮があり、正門で「ハヌマン・ドゥカ(門)」がある↓

↑左の赤い衣に包まれているのがヒンドゥ神話によく登場する猿の神ハヌマンの像。
「目から強い光線を放つので顏を赤く塗りこめてある」と説明してくれたガイドさんがあった。

かつての王宮は今は博物館。となりに異質な西欧建築がある。

ああ、イギリスがここでもやっちゃった・・・と思った。
植民地で崇拝されている宗教建築や王宮を西欧建築物に建て替えている。
それはけっして強制ではなく、ここネパールの場合にも王族自身が西欧建築を望んで、古来のネパール様式の建物を壊してこのコリント式列柱の宮殿を建てたのだが。

※この迎賓館・戴冠式の会場は1908年に完成。2015年の地震で大被害をうけたが2018年に修復された。中国新華社のニュースの写真がこちら⇒

国王の新宮殿は1886年、旧市街の外に建設されたナラヤンヒティ宮殿。
はじめてネパールを訪れた2004年にはほんとうに王様の住居で中へなど入れなかった。
ここも19世紀に建てられた当初は旧市街の建物と同じような西欧式の宮殿だった↓

1934年1月15日の大地震では産まれて間もない名前も付けられる前の王の娘二人が圧死した。
上の写真の中央列柱は地震の後に改修した際に付け加えられた。

1962年に新国王によって現在の建物に建て替えられた。
あからさまな西欧建築ではなく、ネパールの伝統的な建物を意識したデザインになっている。

2008年に王制が終わり、6月11日に王が退去すると、博物館として公開された。
小松も2010年に一度だけ内部を見学した。2001年の「あの」銃撃事件のあった建物はもう壊されている。
**
カトマンドゥ旧市街にもどろう。
街の名前の由来になったカスタマンダップ寺院は

一本の木からとられた木材で建設されたとされている。

周囲は遠来の物売りでごったがえす。

よくこんな荷物を担げるものだ

チベットへの山道・ジョムソン街道でも信じられない様な荷物を背負った人とたくさん行き会った。

今でも現役の水場・ヒティ。

↑この三重の塔は2015年の地震で完全に倒壊した。




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パシュパティナート

2020-08-07 22:41:31 | ネパール
2005-2010《手造の旅》ネパールより
カトマンドゥ郊外、ガンジスの支流バグマティ川にあるシヴァ神の古刹でヒンズー教徒の葬儀が行われる。

ガートとよばれる場所で焼かれ、聖なる川に流される。
インドでマハートマー・ガンディの焼かれたガートを訪れた
※墓ではなくガート。
ガートとは本来階段を意味する。
川の水位に関係なく灰を川に流すことができるのが階段なのである。

ヒンズー教徒は墓をつくらない。
焼かれたあと灰がおとされてゆくバグマティ川は、乾季には小さな流れでしかない。
対岸には我々のような異教徒も外国人も入場料を払って入ってくることができる。

物売りや観光客に写真を撮らせるサドゥー(修行者)↑右下のオレンジの衣の人。

お参りの人が買う花も、日本とはちがうが売っている。
野良牛もいる。なんせシヴァ神の乗り物が白い牛ナンディなので、ヒンドゥー教徒は牛を食べないだけでなく自由にさせている。

対岸にあるシヴァ神の寺への入口にでーんと座る牛。

うしろに見える門の上にシヴァ神が画かれている。
★「パシュパティ」というこの地の名前はシヴァの化身のひとつの名前で、動物たちの長というような意味なのだときいた

異教徒が入れない門の入口に立つ警備員さん。
向こうに巨大な黄金の牛の●玉が見える。

↑ヒンズー教徒しか入れない門の先にある金色の屋根が寺院。
敷地は広大で、考古学的調査によれば紀元前三世紀にはすでに寺院だったのではないかとされる。

敷地の中には「死を待つ人の家」と呼ばれる場所もある。
死期が近いと感じた人が自らここに移って生活をするのだが、浮世のしがらみを整理し・ハラをくくって死に向かう生活をしているうちに元気になって俗世にもどってゆく人もあるのだそうだ。
ああ、なんと健全な「死との向き合い方」なのだろう。
忌むべきものや避けるべきものとするのではなく、
懸命に生きた生活の延長線上に、自然にあるものとして死を感じている。

ヒンズー教徒は高価な墓をつくらないし戒名ももたない。
けれど、故人への想いを共有するために集まる行事はある。
人が死後に残すべきものはモノではなく想いであるべきだ。

想いとは、考え抜かれた言葉であり、
生あるうちはその言葉を裏付けるべく真摯にいきねばならなない。

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ネパールの学校を訪問すると

2020-08-05 21:17:26 | ネパール
2006年《手造の旅》ネパールより

観光地よりも、学校を訪れるとその国の事がよくわかる

何度もネパールの旅を手造りしていくうちに、学校を訪問することができないかと思い、
いつも案内してくださっていたガイドさんに相談すると、
「上の兄が校長をしています」と、渡りに船。
日本のようにややこしい手続きはほとんどなく、実現した。

こちら校長先生。

ネパールの義務教育学校は日本の小学校一年から中学二年まで。
ずいぶん年齢に幅がある。

授業をいくつか見学させてもらった後、
日本についての質疑応答タイムと称して、いちばん広い部屋に希望者を集めてもらうと…
瞳きらきら、熱気むんむん

我々の来訪をあらかじめ伝えてあったとのことで、
各自がメモしてあった質問を英語で話だす。
よくある質問は忘れてしまったが、ひとつだけ忘れられない質問があった。
「『おしん』はほんとうにあった話ですか?」

その時代を知る日本人はいまはもうほとんどいないけれど、いちばん説得力のありそうな年長世代の方に代表しておこたえいただいた。
「今の日本からは考えられないかもしれませんが、ああいった日本はほんとうにあったのですよ。ネパールもあなたたちがしっかり勉強して発展させてくださいね」
お答えいただいた方は戦後の貧しい時代から学校給食をつくる会社を経営してこられ、最近ではカンボジアに学校を寄付されている。
子供たちが貧富に左右されず学ぶ機会を与えられることは、その国がどんな社会体制をとっていようと絶対的に必要な政策である。

英語原稿をしっかり用意していた生徒があったり、プレゼント交換をしたり、英語ができることが仕事に直結する国では子供たちも実用的な言葉を学んでいる。



先生たちといっしょに記念撮影


せっかく受け入れてくださったので、皆でお金をだしあってパソコンを一台寄付してきた。

あれから十数年、あの時の子供たちはみな大人になっているだろう。
たとえ一日であっても、小学校の頃のこういう出来事は強く記憶にのこるもの。
突然訪問した日本人のことを覚えていたりするかしらん。
継続的な活動にできなかったことは心残りである。
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サランコットの丘からヒマラヤの夜明けを

2020-08-01 10:26:45 | ネパール
2005-2010《手造の旅》ネパールより

真っ暗なうちに標高八百メートルほどのポカラを出発し

標高1592mのサランコットの丘に到着した。

やがて地平線が虹色に輝きだし

アンナプルナ連峰に光があたりはじめる

世界中からやってくる観光客

きつい登山をしなくてもこんな景色を楽しめる





朝もやのむこうから赤い太陽もあがりだす

ポカラにあるペワ(フェワ)湖を見下ろす。






**
近くにあるワールド・ピース・パゴダは、日本山妙法寺がたてた

ここからもすばらしい景色が楽しめる

我々にとっては一生に今日一日しかない絶景だが

ここに暮らす人々にとっては日常の風景でしかない。

ヒマラヤを背に勉強するこの子はどんなネパールを生きることになるのだろう。






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パタン~門、ゴールデン・テンプル、千仏寺

2020-07-28 08:16:37 | ネパール
2004-2010《手造の旅》ネパールより

パタン旧市街への入口の門のひとつ。
形状からみるとそれほど古いものとは思えないが、古い写真を見ると二十世紀はじめに同じ場所に門ができていたことがわかる。

1910年はだいぶんカタチがちがう。最初は同じ場所かといぶかしんだが、門の向こうに見える建物が同じなので建て替えられたのだとわかった。

1930年には現在と同じカタチになっている。
それにしても、周囲はのんびりした田舎から大きく変貌してしまったのか。
**

パタンは別名「ラリトプル」=美しい街と呼ばれる。
通称●ゴールデン・テンプルと呼ばれる↓12世紀からの仏教寺院。
現在の建物は14世紀ごろからのものとのこと。

↓ここには三十日交代で十歳ぐらいの少年僧が修業している。
小松が訪れた五回で2008年11月に一度だけ目にした↓

ネパールでは仏教もヒンズー教も生活に生きている。

これはネワール族の使っているビクラムサンバット歴の表。
我々には暗号のようにしか見えないが、吉凶なり由来なりが事細かに書かれている。
日本の寺社にも吉凶が書かれた表があって外国人にはなかなか理解できないのと似ているかも。

この寺はネズミを飼っている寺として知られていて、二十年ぐらい前の旅行者のコメントにはとんでもない数のネズミがいつでも祭壇前にも出没していたそうだが、小松が訪れた五回の間に見ることはなかった。
ちかごろは衛生的に問題あるからお寺としてもそのままにはできなかったのかしらん。

この中庭には動物の皮をつかった履物で降りてはいけないとされている。

見事な木彫

屋根から垂れているこれを伝って神様の恵みが降りてくるとか。
避雷針の役割もしているとか?

上の写真の鐘がどうも西欧的で、キルティプルの寺にあった英国製のモノを思い出した。
由来を知る人がいなかったのだけれど。

**

旧市街にぽかんと広場があらわれる。

ヨーロッパの旧市街を歩くのと同じ感覚。
古い井戸ものこされて↓

いまでも周辺住民が使っている。

小松が訪れていた十数年前でも断水がけっこう起きるので井戸は現役だった。

***
●千仏寺=マハーボダーは実際に千以上の佛がある

通り過ぎてしまいそうな小さな路地を入ると

開けた中庭に仏塔が聳えている。

表面を陶器のようにしたレンガを積み重ねているのだろう。

そのひとつひとつにブッダがいる。
●14世紀にここにあった修道院からアバヤ・ラジ(発音が合っているか自信がありません…)という僧がインドへ巡礼した。
ブッダが悟りをひらいたブッダガヤでみた巨大な仏塔を故郷にも再現したいと思った。
※次の写真がインドのブッダガヤの仏塔→
ラジは国王から銅貨鋳造を命じられ、それによって得た利益をこの仏塔建設に投じた。
彼自身が亡くなってはるか後の1601年に現代の姿になったとされている。

近くには小さめの塔がいくつかある。
かつてはもっと大きな仏教修道院だったのだろう。

これこれ、けんかしないで。

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