旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

「スギハラハウス」のあるカウナスから「十字架の丘」を経由してリーガへ

2013-10-10 22:39:50 | リトアニア
朝、リトアニアの現首都ヴィリニュスを出て、一時間ほどで旧首都のカウナスへ到着。ここを訪れる日本人がまず訪れるべきは「杉原記念館」、1939年秋、日本通過ビザを求めるユダヤ人たちに、本国外務省からの命に背いてまでビザを発給し彼らの命を救ったことから、「日本のシンドラー」と呼ばれたりする。

カウナスの高台、今でも高級住宅地の一角にその建物はある

正門の門柱はかつてのままだが、記念の言葉が刻まれている

かつては門柱の左右には柵があった。

二階は「アジアセンター」として使われており、日本だけでなくアジアの言語や文化を学ぼうとするリトアニアの人々のための場所になっている。

一階に四部屋ほどが杉原記念館となっており、15分ほどのビデオと当時の机を前に解説してくれる。これは、杉原氏が発給したビザのあるパスポート。右側のページにこのビザを使って福井港から入国した記録がある


当時、すでにリトアニアを併合していたソ連は大使館自体の閉鎖を求めており、時間は切迫していた。さらに日本本国の外務省は杉原氏のヴィザ発給打診に、拒否回答。それでも彼は、自分の良心に従った。

人は何のために仕事をするのか?雇用している人や団体が、自分自身の信念と相容れない指示をしてきた時、どのように行動すべきなのか、考えさせてくれる。


まわりの木々は黄色に色付き、秋の盛りの街角を少し歩いてみたくなった


近くの公園にあるモニュメントは、1933年にアメリカからリトアニアへの飛行を試み、成功目前で墜落した飛行士二人を記念している

カウナスは二つの川が合流している場所にある。ここがドイツ騎士団との国境だった事もある

だからこんな城も築かれた


市庁舎前広場にある老舗レストランへ昼食に

狩の雰囲気がいっぱいのレストランだったが、意外にも一番好評だったのはHalibut(=日本語で「おひょう」と訳されるカレイに似た魚)


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ラトヴィアへの途上に、世界遺産指定された「十字架の丘」へ寄る

もともとなぜここにこのような場所が出現したかは、はっきり分からないようだ。ガイドブックには1831年の蜂起鎮圧の後に…とか書かれてあったが

いずれにしても、現在ではローマ法王ヨハネ・パウロ二世も訪れた重要なカトリックの記念地になっている。

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明るいうちにラトヴィアの首都リーガへ到着。
旧市街近くのホテルから夕食のお散歩へ。新しく再建されたギルドホールが美しくライトアップされている

今晩はちょっとこじゃれたアジアフードのお店へ。タイ風ヌードルいただきました

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ヴィリニュスを歩く

2013-10-09 02:28:54 | リトアニア
一国の首都にしてはとてものんびりした雰囲気のヴィリニュス。旧市街の南入口にあたる「夜明けの門」近くのホテルから歩き出した。エストニア、ラトヴィアと違い、リトアニアはカトリックの国。たくさんの教会がある。

「夜明けの門」の二階部分には街を救ってくれたというイコンがあり、ここへはかのヨハネ・パウロ法皇も訪れた。それを記念した大きな絵画⇒

車のナンバープレート、こちらはEU加盟以前こちらはEU加盟以後のデザインになっている

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「ハガキを出したい」という方があって、キオスクで求める見ると、10リタス札の二人と同じ人物である。
★アメリカに移民したリトアニア人、ステポナス・ダリウスとスタシス・ジレナスは、飛行士として故郷リトアニアの飛行大会を主催した。彼らは大西洋を越えて祖国リトアニアへ帰還するフライトを企画した。ちょうど二年前にリンドバーグが成功させた時期にあたる。

「リトアニカ号」と名付けた飛行機(これも10リタス札に載せられている)は、1933年7月15日にニューヨークを飛び立ち、当時の首都カウナスを目指した。無事に大西洋を越え、37時間のフライト。ほとんど成功を目前にしていたのにポーランド(当時のドイツ領)で謎の墜落。2人共三十代でその生涯を閉じた。

☆独立後に再び(最初は二十世紀初頭)に導入された通貨リタスは今のところユーロに変えられる予定はない。ユーロとの間でほとんど固定相場になっていて、市民は「ユーロにしなくてよい」と思っているように感じられる。旅人としては両替のわずらわしさはあっても、それぞれの国の歴史を映した札やコインは楽しい。

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リトアニアにはたくさんのユダヤ人が住んでいた。この一角が彼らの居住区である「ゲットー」だったと、この写真右手の黒い看板は説明している。
★13世紀頃、中央ヨーロッパのキリスト教国で迫害されていたユダヤ人たちは、未だ自然崇拝の国であったリトアニアにたくさん移住してきたようである。その後ゲディミナス大公がキリスト教を受け入れて後も、ユダヤ人たちは他国に比べ穏当に扱われ、ヴィリニュスの中心部にも大きなコミュニティを形成していた。
ヴィリニュスは「北のエルサレム」と通称されたほどユダヤ人の多い街だったのである。
※以下は説明版より
1941年6月24日ドイツの占領から二か月ほどの間に数千人のユダヤ人が殺されたが、9月になってドイツ軍はヴィリニュスのこの中心部に意図的な「ゲットー」を建設する事にした。
写真の中で下に位置する紫色の部分が「大ゲットー」と呼ばれ約三万人の労働従事者を住まわせた。地図上で黄色にあらわされた「小ゲットー」には年長者や女子供一万人を収容。

小ゲットーの住人の多くは翌年までに近郊の森で大量虐殺された。※この後、ゲットーはひとつになったと解説された資料あり。
ゲットーでは自治組織があり、居住環境は比較的安定していた。

1943年9月ドイツはこのゲットーの解体を決定、各地の強制収容所への移送が開始。移送を拒むユダヤ人たちは隠れたり逃亡したりした。1944年にソ連軍がヴィリニュスを解放した時、生き残っていたユダヤ人は元の58000人うち2~3000人にすぎなかった。

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ヴィリニュス大学は1579年創立、バルト諸国の中では一番歴史ある大学である。写真左手がその建物。道を挟んで右手は大統領官邸
大統領官邸正面のリトアニア紋章白い騎士。

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ヴィリニュス大聖堂と鐘楼

カソリックを受け入れた後、ここにはもっと古い聖堂があった。鐘楼は城壁の塔の一部である。

キリスト教を受け入れたゲディミナス大公の像

内部、ヨハネ・パウロ二世が訪問された時の記念碑
もっとも重要な礼拝堂は、リトアニアの守護聖人聖カジミエルの遺骸を安置した場所。美しいストゥッコ彫刻で飾られた下には三本の手が描かれた彼の肖像画。
その下に安置された棺を開けたところ、遺体が腐っていなかった奇跡を描いた絵

大聖堂前には1989年の「人間の鎖」の起点になった記念盤が設置されている。※城の中に展示されていたその写真

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大聖堂を見下ろすように、人工の丘が築かれており、その上にゲディミナス城がそびえる。

紅葉美しい山をみわたせるだろうちょっと上がってみることにした
★ゲディミナス城の展示についてはこちらからお読みください。

すぐ近くの国立博物館前には、唯一のリトアニア王であったミンダウガスの像が置かれていた彼の後継であるゲディミナスもその後のヴィタウタスもポーランド王の臣下である大公の位である。

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こちらは三十種類の煉瓦を使って美しく建設された聖アンナ教会このすぐ隣には美術学校があって、個性的な学生がたむろしていた。

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午後、車で45分ほどのところにある、トラカイ城を訪問。

湖の中にあるいかにも中世らしい城。ゲディミナス大公の息子ケイトゥティスによって建設がはじめられ、その息子ヴィタウタス時代に完成したとされる。
※それ以前のゲディミナス大公の時代には、現在のトラカイから四キロほど南東に石造りの城があり、そこがリトアニアの首都とされていた。
より広い地域の地図を見ると、目の前にある再建された城は、首都であった城からは少し離れた場所にある出城のようである。

城へ続く道にヴィタウタス大公と書かれた木彫

橋を渡り、城門をあけるヴィリニュスに首都が移ってからは修道院になったこともあるという建物

中庭から塔を見上げる内部にはリトアニア大公の歴史を描いた絵もある。こちらは、ヴィタウタス大公がいとこでポーランド王となったヨガイラ(ポーランドのヤゲロ王朝の始祖)から贈られた冠が届かずにいる様子司教が逃げた?とかガイドさんが説明してくれた。

ゲディミナスが使用した紋章真ん中に人工の山の上のゲディミナス城が図案化されている。当時としてはかなり斬新なデザインだっただろう。

黒海北岸から傭兵として家族ごと連れてこられたトルコ系カライメ族についての展示彼らは現在でも200人ほどが近くに集落を形成している。

彼らの料理にキビナイというパイ状のものがあるとガイドさんが話すと、すぐに「たべたい!」と声があがった。昼食後の午後三時半ですが、んじゃ、みんなで食べましょう(笑)こういう好き勝手が出来るのも《手造》ですから。
中身はこぉんな分かりやすく言うとピロシキの外側を固く焼き上げた雰囲気。ちょっと肉まんを思い出して、トラカイ城を見晴らすカフェでとてもおいしくいただきます

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観光途中で、マケドニアのテレビ局が取材にきていて、突然インタビューされた。「マケドニアというとどこへ行きたいですか?」「何を思い出しますか?」
はて…行ったことのない小松は「アレクサンダー大王、マザー・テレサ、ですね。観光地はどこがお勧めですか?」と逆質問してしまいました。

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首都ヴィリニュスへ戻り、スーパーマーケットへ行く。そこで見つけたヴィリニュスと書かれた計り売りのチョコ地名の書かれたお土産は珍しいから、買っちゃいました。

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夕飯はすぐちかくのパンケーキ屋さんへ。ここで食べたビーツの冷たいスープ、絶品でした!

こちらにちょこっと解説しました。
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リトアニア到着

2013-10-08 11:33:08 | リトアニア
《手造の旅》バルト三国8日、第一日目。

ヘルシンキを経由しても、まだ明るいうちにヴィリニュスに到着できる。降下しはじめた飛行機の窓から、赤い屋根瓦の向こうにひときわ高いテレビ塔が見えた。飛行機の中で読んでいた1991年の話を思い出した
1991年1月、「血の日曜日」と呼ばれる事件。政治の不安定なタイミングをねらって、ソ連軍が市内の主要箇所を占拠してしまったのである。この時テレビ塔を守ろうとしたリトアニア市民にも犠牲者が出ている。約半年後、8月18日、ソ連保守派が改革を転覆させようとクリミア半島のゴルバチョフ書記長を拘束したクーデターが失敗するまで、占拠は続いた。

★バルト海沿いの三国はそれぞれが違う歴史をたどってきた違う民族である。今回の旅では、現代の視点もしっかり持っていきたいと思っている。

空港ターミナルに入るとすぐ、ショーケースの琥珀がお出迎え(笑)
日本の地方空港より小さなターミナルを出ると、ソ連時代によく見かけたような長い連結バスが走っていた市内でもハンガリー製のレトロなトロリーバスがまだまだ現役だ。

10月前半、まだ夏時間、夜7時ごろまで明るい。紅葉がちょうど盛りで、日本人心を自然にうれしくさせるうまく季節にあたった。

ホテルは旧市街内、ヴィリニュス旧市街南側の出入り口にあたる「夜明けの門」から徒歩50メートル。荷物を置いてすぐ向かうと、門の上の教会内部がライトアップされていて、礼拝中のマリア様のイコンが外からもよく見えた。
14世紀といわれるイコン画。
礼拝からもどる着飾った人々とすれ違った。リトアニアにはロシア人も多いが、基本は敬虔なカトリック国である。

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夜明けの門を出て、駅へ向かう。24時間開いている両替所を利用する為だが、観光整備された旧市街の外を歩くと、素の顔が少し見える。ガタガタの舗装、崩れそうな家に灯りがともる。駅前に立派なマック・カフェ。

ソ連時代をほうふつさせる宮殿のような駅舎へはいり両替をするリトアニアの通貨3.4リタスで1ユーロという計算。コインはユーロにとてもよく似ている、まぎらわしいリトアニアは通貨ユーロを導入する予定は、ない。街でも普通の店はユーロをとらないから、この現地通貨への両替が必須なのだ。これは、国にとっては良い事である。

***
旧市街に戻り、少し夕食、地元ビール黒パンをあげてチェダーチーズをかけたつまみイモをすりつぶしてつなぎと混ぜ、肉などを入れてお湯でゆで上げる「ツェペリナイ」は有名料理ということになっている。
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