旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

今帰仁城跡

2023-01-24 20:37:57 | 国内
ギリシャのミケーネ遺跡を思い出した。
※ミケーネ遺跡を訪れた時の写真をこちらからご覧ください

本土の城とはあきらかにちがう雰囲気。

見事な城壁は戦前のカタチをよく復元している↓昭和初期の写真をガイドさんがみせてくださった↓

城の復元は1960年代に本格的に行われ↓

↑この門のまぐさ石も落ちていたものを元の位置にもどした↓

↑門に続く参道と桜もその頃つくられた↑しかし…

1980年の発掘で本当の参道が発見された↑
1960年の道とは逆に細い上り坂が続いている。

↑見下ろせる道にしたほうが城を護るのに適している。
今帰仁城が本当に城として機能していた「三山鼎立時代」(1322~1429)にはこちらが本当の道だったのだろう。
まぐさ石が復元された門は、琉球がひとつの王国に統一されて以降に祭事のためだけの場所になってからつくられたのではないだろうか。

↓ジオラマ模型

「三方を崖にかこまれ、北側だけが海に向かってなだらかでそこに集落がありました」
↑城壁のはるか下に志慶真川が流れている↑ここから水をくみ上げていた跡がみつかったのだそうだ。
丘の上の城はいつも水に苦労する。
ギリシャのミケーネ遺跡も同じように裏から水源に下りられる秘密の通路があった。

1月10日だというのに早咲きの桜があった。
1月下旬には桜祭りだという。
次の冬に《手造の旅》沖縄を実現させたい。

ここは琉球王国の世界遺産のひとつとなっている


今回、撮影した写真の半分ほどが手違いで消えてしまって残念無念。
本番でしっかり案内していただき、とりもどしたいです(^^)

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OMO那覇滞在と「シーサーウォーク」

2023-01-22 14:36:00 | 国内
「うふ(大きい)シーサー」に出会えたのもOMO那覇の「シーサーウォーク」に参加したおかげ(^^)

OMO那覇の宿泊者用ライブラリーにいるシーサー↑
↑「火災に遭った首里城の瓦を、どこに使っているかわかりますか?」とOMOの方。
あ、尻尾のところにたしかに瓦の欠片がみえる。
これを使えるようになるのに苦労した話を「シーサーウォーク」の最後に訪れた工房できいた。
※後半「シーサーウォーク」で書きます
**

↑OMOは星野リゾートのなかでもシンプル使いやすいシティ・ホテル↓
チェックインは事前に送られてくるフォームに記入しておけばQRコードで簡単。部屋ナンバーなど書かれていないシンプルなカードキー一枚もらうだけ。

↑エレベーターホールの飾り

↑部屋の入口で靴を脱ぐ↑洋式だが畳の室内は外国人にも好評だろう

部屋に電話はなく、各階のエレベーター横の壁にあるだけ。それでじゅぶんだと小松は思う。

↑豪華なアメニティはないが使いやすい洗面台。
歯ブラシやカミソリはロビー階エレベーター横に置かれている。
シャワーオンリーのブース。
滞在客用のレンタル室内着が快適(^^)首回りがちょっと立っているデザイン、好きです(^^)これでロビーまわりのカフェやライブラリーに行ってもよい。

↑こちらは外からも入ってこられるロビーのサロン↑近所マップが便利。

↑二階のランドリーエリア

↑チェックアウト後に使ったロッカー

↑朝食はこの五種類から選ぶ

↑ミネストローネスープのマシン↓

サラダは下に豆やマカロニ、ドレッシングも入っているからよく振って。

変わったクラフト・ビールもある。

ロビーから二階にあがる

↑二階のライブラリーも十分なスペースがある

★「シーサーウォーク」は10時にチェックアウトした後にこのライブラリーからはじまった↑

スフィンクスからシルクロードを通じて、ライオン・獅子はユーラシア大陸全域で崇拝されてきた。

↑沖縄のシーサーはもともと瓦の残りを使ってつくりはじめられた↑左下が瓦を使った骨組み↑それに顔や尻尾をつけたら右上のようになる↑冒頭二枚目の写真のシーサーもこういう骨組みだったのか。
ホテルから外へ出る時、OMOのスタッフに促されて足元をみると↓

モダンな建物の入口にも↑シーサーがいた(^^)

↑近くの公園入口にも四つのシーサー↑ひとつだけが「阿」で三つが「吽」になっているのは風水師の助言によったのだそうだ↑

↑ポケモンのキャラクター「ウィンディ」も沖縄にくるとシーサーになっている↑

「壺屋やちむん通り」の道↑「やちむん」とは=焼き物のことだったのか

「シーサーが隠れていますよ~見つけてください」と、OMOの方

いたいた(^^)

粘土をはめ込んでつくる型↑表面と裏面が別々に埋め込まれていた

↑冒頭写真の「うふシーサー」↓

壺屋やちむん通りの陶工たちが共同で制作し2013年に完成↑口から水煙をはくのだそうだ↑方言で案内を話すボタンは壊れていたが↑

最後に宮城光男さんのシーサー工房★「シーサー神社」を訪れた。

良い顔してます↑アンティークのシーサーに目が吸い寄せられた↑先人が制作したシーサーが光男さんの創作意欲の源になるのだそうだ。なるほど。

↑カメラを向けるとさっとポーズをとってくださるノリの良い光男さんだが↑信念をもって仕事をしておられる
2019年に首里城が焼け落ちた後、壊れた瓦は集められたが何にも使い道がみつからなかった。
瓦は光男さんの師匠がつくったもの。壊れてそのまま放置されているのは残念。
弟子の自分がつくるシーサーに再利用させてほしいと発案したが、相手は壊れても文化財。
役所にかけあって再利用の許可がおりるのに二年かかった。
※首里城復光プロジェクトPDF内をごらんください

OMOのライブラリーにあったシーサーたちに、師匠の瓦を忍び込ませることができて↑ほんとによかったですね(^^)

彼はひそかに世界一のシーサーをつくろうとしておられる。

↑こちらがそのイメージ合成図↑
高さ10メートルのシーサーが港に立っていたらびっくりしますね。
実現、楽しみにしております(^^)






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久高島~海ぶどう養殖、島の生活

2023-01-18 20:13:17 | 国内
海ぶどうの養殖を見学させていただいた。
人口130人の久高島で、六軒が海ぶどうを育てているのだそうだ。

ビニールハウスにはいるとむわっと暖かい。
海ぶどうは20℃~27℃の暖かい海で生育する。
びっくりしたのは海ぶどうの「エサ」。

↑真鯛養殖のエサになるペレット(材料はアジやサバやアミエビの魚粉)を海ぶどうが好むとは意外だった↑

どのぐらいの量を、どのぐらいのタイミングでやれば成長がよくなるのか、試行錯誤。
網目にちいさな藻を移植して、約一か月で出荷できる大きさに育つ。
夏は生育の早い種類、冬には生育の遅い種類、時期により使い分ける。
「母藻」はフィリピンなどそれぞれ原産地が違う。
「沖縄産」を名乗るためには少なくとも三世代育てる必要がある。
恩納村で一世代だけで沖縄産として出荷して「産地偽装」になったケースがあるそうな。

常にきれいな海水を循環させる設備が必要。温度管理も繊細。台風などでの停電は常に心配。
ビニールハウスの屋根を開けて太陽光を入れる時も、天候により藻の網の水面からの位置を調節する。
「同じようにしていても、一日で溶けてしまう(死んでしまう)ことがあるのです。理由はわかりません」

藻を収穫して↑茎と房を分けるのはけっこう手間。一日8キロ程度収穫するのだが、「義母は一日15キロもとります」。
苦労は多くても、うまく育てれば1キロ6千円程度で売れるので続けていける。36槽。それぞれ40㌔を生産できる。

案内してくださったAさんは島外の人だったが、奥さんが久高島の出身。
漁師をやっていたが船を降りて海ぶどう養殖をはじめていた義理の父から「儲かるからやらないか」と言われ、六年前に本島での仕事を辞めて移住した。
「地割制」で土地所有を禁じている久高島に入ってこられたのは幸運と言っていいだろう。

これからもう少し広げていく予定。

試食。ぷちぷちした食感が命。
海ぶどうは温かい海を好むので、冷蔵庫に入れるとすぐにしなびてこの食感が保てない。
冷凍して長距離を運ぶことができない。
だから沖縄で食べる価値がある。
那覇の商店街の主力商品。
しらべてみると1994年に恩納村から養殖がはじまり、2003年に96トンだった生産が五年後には250トンに急増している。
沖縄水産業の重要な稼ぎ手である。


**
久高島の「交流館」↓

入ってすぐ左に資料室↓

ここに展示された十二年に一度の秘祭「イザイホー」の写真は貴重。島独自の祭事は適切に解説してもらってもなかなか理解できなかった。もういちどちゃんと予習してから行きます(^^)

久高島の宿泊施設は民宿三軒の他は交流館の数部屋しかない。
バス・トイレ共同で部屋数も少ないが、もうすく改装予定があるそうだ。
小松は近くの民宿まで送っていただいた。

↑島で一台しかない電動トゥクトゥクは久高島をまわるのにぴったり。
こちらの民宿、手作りの展望台があって海まで見晴らせる↓登るのちょっとコワいけど(^^)


●小中合同の学校がひとつ↓

児童数は36。島民の数にしては多いですね(^^) 
交流館の近くには「久高島留学センター」があって、小学校六年から中学二年まで十人程度が滞在している。
※留学センターのサイトにリンクします

●島に一軒の診療所


●島に一軒の簡易郵便局


集落にはところどころに古い家・その跡がのこされている。

冷房などなかった時代の家だが

それなりに快適そうに見えるのは、今が冬だから?


●携帯電波のアンテナ
「これが出来るまではみんな本島が見える海岸に行って電話してましたよ(笑)」


●ノニの実↑健康食品として話題になったのだそうだが、味はなかなか手強いそうな。


●タンカン↑見かけはよくないけれどとっても甘い。そうそう、屋久島で食べたのを思い出した。


●パパイヤ

※屋久島で2021年の12月に出会ったのを思い出した


●港ちかくの食堂

島の名物料理と言っていい「イラブー(ウミヘビ)汁」を出している。
※こちらに書きました


島民は全員知り合いだし、同じ姓も多い。姓ではなく「屋号」を持っている人もおおい。

島内で犯罪が起きても「島民全員が警察官みたいなもの」、なるほど。
出入は港しかない。
台風で孤立することはあるだろうが、久高島は現代でも「神の島」のように見えた。


●高速船とフェリーが本島との間をむすんでいる。
行きも帰りも満々席でした。

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久高島最北端の「ハビャーン」へ、島を護った「地割制度」

2023-01-17 07:15:47 | 国内
琉球開闢の神アマミキヨが降り立ったという島の最北端ハビャーン(カベール)岬への道

島に一台しかない電動トゥクトゥクをレンタルしてやってきた。

南北3.2㌔ほどだが、人々が住む南部とはずいぶんちがって感じられる。

今回の宿泊でごいっしょした夫妻が電動キックボードで先乗りされていて↑

青い海を一望する先端でドローンをとばすのだという。
ドローンというものをはじめて持たせていただいた。

羽のように軽く(おおげさ)、プロペラが回るとなんだか生き物のようだ。
あっという間に空高く飛び上がり、目を凝らしても黒い点にしかみえなくなった。

あそこからどんな光景が見えているのだろう。
※こちらのドローン動画、ぜひご覧ください!(音が出ます)一分弱で久高島全体の佇まいを感じることができます(^^)
30秒すぎでキックボードが追いつく電動トゥクトゥクを運転しているのは小松です



北部一帯は平成七年に「久高島カベールの植物群落」として県の天然記念物に指定された。

↑上の現地看板でオレンジ色の部分の上部分がそれ↑
植物は島伝統の儀式に欠かせないモノで

ノロ(祝女)たちはフバ(ビロウ樹)の葉を敷いて座り、

↑この先が独特にくるりとまわった植物を「ハブイ」にしてかぶる。

↑トウズルモドキは↑「神様のアンテナ」なるほど(^^)
**
久高島は昔の沖縄の雰囲気がよく残っている場所だといわれる。
それは「神の島」だったからというだけではなく
「地割制」という土地を個人所有させない制度が現代まで続いているから。

土地は「総有(島民皆のもの)」で、短冊状に区切った場所を・場所や地味を考慮して平等に分配する。
現在も有効の久高島土地憲章第一条で久高島の土地を利用できる者を規定している。
●先祖代々字民として認められた者、およびその配偶者。
●字外出身の者で現在字に定住し、土地管理委員会および字会が利用権を承認する者。

これによって開発業者は入ってくることはできず、
移住者が別荘やペンションを建てたりすることもできなかったのだ。

明治6年~14年にかけて行われた「地租改正」は沖縄でも推進され、久高島でもいったんは土地の個人所有が決議された。
しかし、島の女たちが伝統をまもることを主張しそれを覆した。久高島の女性はノロ(祝女)を筆頭に全員が祭事にかかわってきたからかもしれない。

昭和二年の日本政府も島民の決定を尊重し
「久高島の不毛性、不便性、神秘性を考慮して地租を免除」した。

「高度経済成長期にサトウキビ生産が行われるようになったが、それが失敗し本島へ労働力が流出し、耕地の遊休、放棄が増え、原野と化した農地が目立つようになった。」
と書かれた報告書もあった。

苦難の時はまだ続いているのかもしれないが、今、久高島の存在が貴重で、ある種「理想郷」のように見える時代にになっている。

↑畑の中に並べられた何気ない石が「地割制」がの境界線だとガイドさんがおしえてくれた。
※沖縄タイムスの記事にリンクします
ちゃんと見る目があれば、風景は美しいだけではない。

↑オススメいただいた西海岸の「ロマンスロード」も少し散策↑

電動トゥクトゥクのおかげで効率的に島をまわることができた。

今日は最高のお天気だが、雨やキビシイ陽射しも避けることができる電動トゥクトゥクは、レンタサイクルよりずっと利用価値が高い。

南部の集落までもどって郵便局前で止めていると、
「それ、いくらで借りたんね?」と年配の島民の方に訊ねられた。
彼女が予想した金額の倍より高くてびっくりされたが、島時間を有効活用するには払ってよい金額だと思うのです。
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久高島の夜明け、夜は食を知る

2023-01-15 07:18:47 | 国内
アマミキヨ神が降り立った久高島の陽の出

振り返ると去ってゆく月と朝陽に赤く染まる雲

琉球には創造神アマミキヨにまつわる聖所をめぐる「東御廻り(あがりうまーい)巡礼」の儀式がある。

昨夜の夜空

雲の間からオリオン
**
夕方、交流館でバーベキューを用意してくださっていた
フツーのBBQではない。
海人(うみんちゅ)=漁師のコウタさんが目の前で解体してくださる

↑「カワハギですか?」
「こっちではチヌマンと呼びます。テンゴハギですね」
※あとで検索して「テングハギ」でした。ちゃんと聞きとれていなかった。

尻尾にこんな棘があって↑「捕まえようとするとバシンってやられるんです」
「ウロコはなくて、鮫肌です」
触ってみると猫の舌を何倍もざらざらにした感触がした。

あっという間に包丁が入り

めりめりと皮がはがされてゆく。

身とアラとが手早く分離され

↑お刺身部分

↑アラはのちほど汁になる

焼いていた野菜が登場↑
↑手前のトレイに隠れているオクラは沖縄が生産量三位。なかでも南城市での栽培が盛ん。
↑この写真には撮れていないのだが、そしておいしく食べてしまってから知ったのだが、
久高島の属する南城市はサヤインゲンも沖縄全体の四割を生産。
沖縄はサヤインゲンの生産全国五位という統計があったから、相当な量だ。
※南城市の地元の給食にサヤインゲンを提供している記事にリンクします
久高島は野菜栽培も盛んでレタスの水耕栽培をする工場設備もあった。
沖縄はおいしい野菜を食べられる場所でもある。
黒い焼きそばはイカ墨を練りこんだもの。

久高島のガイドさんたちも合流して、知りたかった話もきけた。
下調べをしていて気になっていたのは、
1966年に岡本太郎が週刊誌と共に久高島の禁域・風葬地区に入り、
それが島民の怒りをかったとあったこと。
「太郎さん自身はよくわかっておられた。何を言われても一言も反論しなかった」
実際に太郎に会ったユタカさんがそう言われた。


***
朝、06:45を過ぎてゆっくり出発

iPhoneの目はなんだか昼間みたいに映る。

↑レタス水耕栽培工場の横を通り

防風林を抜ける

陽の出は07:16だそうだが、高い雲は水平線の下からの光があたって赤くなっている。

雲の集まる水平線からあがった太陽
日の出から少し経った時間の光がいちばん美しいと思う。

それは太陽そのものではなくて

その光が見せてくれる色


08:00から交流館で朝食。お弁当についてきたのは昨夜熱くてのみきれなかった「ちぬまん=テングハギ」のスープ。とっても脂が濃いのです。

1月9日、今日も素晴らしいお天気に恵まれて、あと半日の久高島。




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