築一千年と伝わるアドベ(日干し煉瓦)の五階建てアパート
サンタフェからアルバカーキへ向かう。
きのう突然のクローズで見学できなかった世界遺産タオス・プエブロを目指す。
途中、エスパニョーラという村を過ぎたところに立つこの騎馬像を見た瞬間「あ!あの人物だ」と、すぐに分かった
こちらに詳しく書きました!小松としては、今回の旅での重要な学びでした。
「そろそろ通してくれませんかねぇ、ご主人様ぁ」
道路工事で待っていると前の車で↑
リオ・グランデが大地に裂け目をつくってながれているのが遠目にみえてくる
現代のタオスの村
ここを過ぎてさらに山へ一マイルほどいくと
世界遺産の
タオス・プエブロ
入場料、一人$14を支払って壁で囲われた古い村に入っていく。
「ガイドツアーが二十分ごとに教会の前から出発します」と案内がある。
これがその教会
1850年建造の、村で一番新しい建物だそうだ。
観光客向けに★「犬は繋ぎましょう」 と書かれているが、村で飼われている犬は繋がれていない。
外からやってきた犬に仁義をきりにいく村のワン
やがてボランディア学生だというディアナさんが登場、二十分ほどの案内をしてくれる。
●サン・ジェロニモ教会の中は撮影禁止。
外観のおもしろさに比べると、内部はよくある田舎の簡素なカソリック教会。
内部はエルパソでみたソコロ教会の方がかつての雰囲気があるかと思われた。
●広場から見た北のビル↴
いちばん古い部分は千年ほど前にさかのぼるとされている。
木の扉が見えるが、これは後年付け加えられたもので、もとの入口は梯子をつかって天井から中へはいってくるのだったのだとか。
ぱっとみて木製の扉も現在は使われていないように見えるものも多い。
このアパートの二階以上の部分に入ってみたくなるが、見学させてくれる場所はみあたらなかった。
現在も実際の住居として使い続けられているからなのだろう
裏へまわろうとすると・・・
路地には丸いパン焼き釜
「スペイン語からHORNOホルノと呼ばれています」
広場の南側に小川が流れている
「レッド・ウィロー(赤い柳)・リバーと呼ばれています。
この植物がそのいわれです」
水源は山の中にあるブルー・レイクと呼ばれる彼らにとっての聖域。
年に一度村人が巡礼に行くという。
その湖を含む一帯48000エーカーは1906年セオドア・ルーズベルトの時代にアメリカに接収されたが、ニクソンの時代1970年になってから部族に返還された。
これら部族の土地に住むタオス・プエブロの人々は現在1900人ほど。
彼らは基本的に現代的な家に住んでいる。
この電気も水道もない歴史的地区の壁の中に住む人口はそう多くはない。
季節によって変動し、少ないときで三十人ほど、冬場には百五十人ほどにまで増えるのだそうだ。
壁で囲まれた村の中はとても狭い。
さっと歩けば十五分でひとまわりできる。
入場料をとるし、テーマパークのようだが、人が住見続けているので雰囲気はちゃんと村になっている。
こちらが塀に囲まれた入場料が必要な一角の地図↑
建物は常にメンテナンスしていないと住み続けられない。
電気も水道もないが、世界遺産に指定されてはおいそれと建て替えるわけにもいかない
だから塀の外にも家を持っている。
★塀の中で最も歴史を感じさせてくれる場所は廃墟に↓なった鐘楼だけが残る教会とそれをとりまく墓地。ここがもともとのサン・ジェロニモ教会であった。
スペイン時代1619年に最初の教会が建設されたが、1680年ポペが率いる反乱によって破壊された。
きのうちょっと話した地元の若者は、この1680年の破壊がそのままだと言っていたが、今日ガイドしてくれたディアナさんの話と村の資料を読むと、それは違う。
1680年の反乱で破壊された最初の教会は1692年のスペイン人再征服の後、1706年に一度再建された。
二回目の教会が壊されたのは、1821メキシコ革命のそのまた後。
アメリカがこの地を統治しはじめた1847年になる。
メキシコ政府が彼ら与えていた「土地安堵」をアメリカが承認しない不安と不満によって起きた反乱と鎮圧。
1847年1月19日タオスの反乱
その朝、タオス村に住んでいた初代ニューメキシコ総督チャールス・ベントの邸宅が襲われた。
総督は矢で射られた後家族の目の前で頭の皮を剥がれた。
まだ息があった彼は日干し煉瓦の壁に穴をあけて逃げようととしたが、今度は殺された。
翌日も反乱は拡大し、タオスと周辺の村で合計十五人以上のアメリカ人が殺される事態となった。
これに対しサンタフェのアメリカ軍は三百人の正規軍と六十五人義勇兵を加えて進軍。
反乱側百五十人は厚い土塀に囲まれたタオスのこの教会に逃げ込んだ。
アメリカ軍は教会の壁に穴をあけると、そこから直接大砲を撃ち込み、たてこもった百五十人を虐殺した。
アメリカが側の死者はたった七人だったという。
※多くの村人は山へ逃げ込んでいた。
アメリカはとらえた反乱軍を裁判にかけ、殺されたアメリカ人の親族が多数参加した陪審員裁判により、4月9日、タオスのこの村の広場で六名の絞首刑が執行された。二週間後にはさらに五名を絞首刑にし、この反乱における絞首刑は少なくとも二十八名にのぼるとされている。
この惨劇のあった教会はそのままに放置され、今でも村人の墓地になっている。
反乱で破壊された教会の主祭壇に置かれていた聖人の像は、前述の日干し煉瓦の北のビルの奥に保管されていると解説されていたが、見る事は出来なかった。
**おととい亡くなったという村の住民は、この墓地に葬られるのだろうか?
その質問にガイドのディアナさんは、「現在新しい墓地が四分の一マイル離れたところにあるのです。明日が葬儀でそちらに埋葬されます。」とのこと。今日見学できたのは幸いであった。
***
昼食にはタオス村で焼いていたリンゴと杏子のパンを買った小松がみかけたフライ・ブレッドも揚げてもらった。注文があると、イタリアのピザと同じような生地をその場で薄く広げて油で揚げる。シンプルながら出来立てに蜂蜜をかけるととてもおいしい 何年か前にグランドキャニオンの底ハバスパイ村でも同じようなものを食べたなぁ。
***村で売っていた「カチーナ」人形もともと宗教的なものとして信仰の対象だったので、キリスト教支配の時代に禁止されたこともある。
午後、サンタフェ方向に戻る途中、みかけた吊り橋で停車してもらう。きのう見た巨大な橋は吊り橋ではなかったが、こちらはホンモノ。
いつごろ建設されたモノかはわからないが、今の車用の道路ができる前なのは確かリオ・グランデに沿ったこのルートは「カミーノ・レアル(王の道)」と呼ばれる古い道。川向うにそれらしい旧道が続いていた
***二泊したサンタフェには寄らず、南西へアルバカーキを目指す。360度の地平線を延々と走り、アルバカーキが近づいてくると左手にサンディ・ピークという山が見えてきた一見そうみえないが標高3100mある。ここへロープウェイで登ってからアルバカーキ市街をめざそう。⇒ロープウェイの写真記事をこちらに書きました
とてつもなく広大なエリアに平たく広がったアルバカーキだが、中心部の旧市街にはサンタフェと同じように四角いプラザ(広場)がある。その近くを歩けば、昔の雰囲気が少しかんじられる。今回の旅最後の夕食、なににしようかと物色したが、結局メキシカン(しかなかった?)でもね、今回はけっこういけましたレストランを出るとプラザももう夕景
ホテル・アルバカーキは雰囲気がある明日朝は早いからゆっくりできないが、このホテルに泊まれてアルバカーキの印象はぐっとよくなった