旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ゾジラ峠~1988年インドの旅より

2022-03-14 16:08:40 | インド
立ち往生したトラックを後ろから押すなんて危険すぎる。ずり落ちてきて巻き込まれたりしたら…

標高約3500mのゾジラ峠の開通を15㎞手前のソナマルグで待つ車列に物売りが群がる。

1988年当時はまだ紛争地帯というより「高原のリゾート」だったカシミール地方のスリナガルから、ラダック地方のカルギルへの道。
半年近く雪で通行できない峠であるばかりか、インドとパキスタンの国境地域なので一日に数時間しかオープンしない状況だった。

↑英語、ヒンディー語、アラビア語の看板↑

開通予定時刻はあてにならない。あせらず待つしかない。

「まだ開かないなぁ」
人種も言葉も様々だが思うことは同じ。
スイス人の一行

子供たちにとっては楽しい時間?商売の時間?

↑花畑だと思ったが↑この写真を撮ったあとに鞭を持って追いかけられた。
作物の畑だったのかしらん…

「カンパコーラ」は↑ペプシの類似商品だけれど、イギリスから独立した直後のインドが外国製品を追い出し、それに似た国産品をつくりだそうとしていた時代の産物。
**
突然車列が動きはじめ、人々はそれぞれの車に戻る。

ジグザグの道をのぼってゆく度にギザギザの山頂が現れる。

どんどん道は険しくなり、谷は深くなる。

車列が頻繁に渋滞するようになり、ついに車外で休憩する

積載量無視のボロボロトラックにはきつすぎる坂道なのだ。
ぬかるんだ道に擦り減ったタイヤが空回りする。

七月でも残雪?氷河の先?


追い抜けるような道ではない。
一台でも立ち往生すると後続車も一蓮托生。
なので、冒頭の写真のようにみんなで押しあげる。

こんなルートだもの、事故はある。
どの神様でもよいからお護りください。

***
車列は止まり続け、陽は傾き夜になった。

街燈などまったくない。
真っ暗な山道で完全に止まった車を降りると、闇にカレーの匂いが漂ってきた。
匂いにひかれていくと、地元のドライバーたちが暗闇でカレーをつくっていた。
何度もこういう道を行き来している彼らはこういう事態を予想してもいたのだろう。
外国人の我々にも快く分けてくれたそのカレーは…

砂のような味がした。
※当時はスマホなどない。帰国後にフィルムを現像して様子がわかった。

この翌日、詳しい事情は忘れたが、
崖をよじ登っている時にカメラを谷に落とした。
今回掲載した写真はそこまでに撮影を終えていた三本のフィルムからのもの。
この後はまったく写真がないので、
おぼろげな記憶をはっきりさせる術がない。
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スリナガルのボートハウス~1988年インドの旅より

2022-03-12 07:28:53 | インド
ダル湖にうかぶ快適なボートハウス群。

ムガール帝国時代からイギリス人たちも好んで滞在した人気観光地、なのだが…

小松が訪れた翌年1989年から激しくなった「カシミール紛争」で、2022年の現在に至るまで日本外務省の危険レベル4(退避勧告),レベル3(渡航中止勧告)に指定され続けている。

ボートハウスは豪華さを競って観光客を呼び込んでいた。

船の中とは思えない、広くて快適な室内。

完全に欧米風のサービス。

食事が終わってやってきたのは↑仕立て屋さん↑
インド人のテーラーはファッション雑誌の切り抜きを見せて「これがよい?」と勧める。
写真を見せるだけで受注・採寸して、翌日にはそっくりの服を縫い上げて持ってくる。


**

ダル湖をシカラとよばれるゴンドラのようなボートで遊覧する。

蓮や水草で覆われた水面。

湖は山にかこまれていて、山頂にはヨーロッパでも見たことがないほど長大な城壁と砦が見えていた。

写真には残っていなかったのだが、夜、日本では経験したことがない永遠に止まらないかと思われるような連続した雷を経験した。

スリナガルを含むジャンム・カシミールという地域は現在インドが実効支配しているが、イスラム教徒が過半数を占めるのでパキスタンも領有を主張している。インドが独立する前にラジャー(藩王)が支配していた地域の北部は現在中国が実行支配している。
三つの国と、三つの宗教(ヒンズー教、イスラム教、チベット仏教)が混在するカシミール。
民族や宗教が言語が愛国心と結びつけられて、非寛容な社会や人をつくりだす。

もう二度と、スリナガルへ行く機会はやってこないだろう。


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リシケシからガンゴトリへ~1988インドの旅より

2022-03-08 20:40:38 | インド
ガンジス川の水源とされるガンゴトリに向かう。

標高300mほどのリシケシから、標高3100m・ヒマラヤ山脈の南に位置するガンゴトリへ。
道はどんどんけわしくなる。
途中で休憩する村も↑こんな感じ↑
びっくりするほど大きな蛾がとまっていた。

チャーターしたよれよれバスに揺られる。

途中、いろんなサードゥー(ヒンズー教の修行者をそう呼ぶ)に出会う↑※右は我々のドライバーさん

ヒンズー教のサードゥーは日本のお坊さんのように型にはまっていない。
服装も性格も多様で、生き方も違う。
身綺麗な格好で暮しながらヒンドゥーの教えに従った生き方をし仕事もしている人もいれば、我々外国人がイメージする「修行者」然とした服装で山の洞窟に暮す人もいる。
洞窟で暮すサードゥーにも二種類あって、ほんとうに祈りと修行に明け暮れる者と、観光客と交わろうとする者と…。

道が細くなって整備ぐあいが心配。

お地蔵さんのような祠をよくみかける。

夕方、ガンゴトリに到着。荷物を置いて宿の周辺を歩く。

バーギラティ川(ガンジスの水源のひとつでシヴァ神の髪の毛から流れ出ているとされる)の川岸、ごろごろした石を登って、セルフタイマーで撮影。
七月半ばだが気温は低い。

突然!サードゥーが立っていた↓

「ウェルカム・トゥ・マイ・テンプル」と声をかけられ、
岩穴に連れて行かれた。
こういう時、へたに英語で会話すると後々やっかいなことになる…。

「プレイ・マイ・ゴッド(ワタシの神に祈れ」↑
確固たる信仰心のない日本人なのでついつい手を合わせる。
「オファリング(お布施)」
え、お金?
お賽銭なら2ルピーぐらいでじゅうぶんか。
※ミルクティ一杯1ルピーで飲める
「モア(もっと)」
じゃ、10ルピー
「モア・コントリビュート(もっと貢献しろ)」

結局100ルピー…。

これは、彼のビジネスなんだろう。
ならば楽しませてもらわなきゃ(笑)

**
この時、なんと名刺をくれた。
ババ・アショカ・ナンドと書かれていて
「センド・フォト(写真を送れ)」と言う。
こんな岩屋に手紙が届くのかと思ったが、帰国後に送った。
すると、なんと、返事がかえってきた。
「(英語で)今日本に居る。○月○日から東京の●●ホテルにいるから来てくれ。」
さすがに行きませんでした(笑)

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デリーからリシケシへ~1988インドの旅より

2022-03-07 22:35:00 | インド
アナログ写真を見つけた。
まちがいなく「二度とできない旅」で、
「いちばんたいへんだった旅」かもしれない。

インドに到着した翌朝↑部屋の天蓋付のベッドでセルフタイマー撮影↑

↑ホテルの窓の下を羊の群れが通っていった↑
※羊の背中に所有者の色がつけられている。

インドは人工衛星を飛ばす先進国でもあるが、
※2ルピーのお札↓

高層ビルの谷間に羊が遊牧され、
道路の中央分離緑地で生活する人もいる。
これは実際に訪れてはじめてわかる。
華麗に踊るインド映画の画面からはきれいに排除されている。

今回の旅、最初の目的地はガンジス川の水源ガンゴトリ。

途中の「カフェ」で注文するチャイ(ミルクティ)はガンガンに沸騰させたお湯を使う。
そうしないと衛生的に安心できないから。

お店のグラスが心配なので↑小松は自前のカップをいつもベルトに通していた。

↑デリーから北へ走るが初日はガンジス川のほとり、リシケシで宿泊した。

宿泊したホテルの外へでると、あっという間に子供たちにとりまかれてしまった。

リシケシはビートルズが1968年に滞在した。
世界中からヨガを学びに来る人々が集まってくる。
外国人観光客についていくと「なんかもらえたりする」と学習してしまったのかも。

「こらこらもう帰んなさい」↑
ホテルのスタッフが柵の中から子供たちをたしなめていた↑

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クトゥブ・ミナールを中心とする複合建築~インド最初のモスク

2020-05-25 10:00:07 | インド
2005年《手造の旅》インドより

日本なら鎌倉時代のはじめに建設されていた高さ72mの塔

デリーの南郊外にあるが、ちかごろは地下鉄でも行けるようになったそうな。
これはインドで最初に建設されたモスクに敷設されたミナレットだった。
遠くからでもよく見える。
イスラム教の勝利を広く告知する役割をしていたわけだ。

よく見ると上部のカタチが不自然。
ネット辞典Wikiの解説を要約すると、
建設当初は100m近くあったのが1369年の落雷で上部が壊れ修復、1505年の地震で上部崩落し修復。
実質イギリスの支配下位にはいっていた1803年また地震で崩落、1828年クーポラをつけて修復。
1848年にクーポラは取り除かれて現在のカタチになっている。

塔の名前はゴール朝(アフガニスタンあたりを中心としたイスラム国)からの北インド遠征軍の将軍であったクトゥブディン・アイバクにちなむ。
※もしくは当時絶大な影響力のあったイスラム神秘主義教団のクトゥブディン・バクティアル・カキかもしれない

建設をはじめたアイバクの時代に①最初のモスク(43.2m×32.9m)が完成した。
下の図の赤い部分がそれ↓

たった四年で完成できたのは、周辺のヒンズー教・ジャイナ教の二十七の寺院を破壊してその石材を再利用したから。モスクの柱にしてはヒンズー装飾が使われているのはこのせい。また、働いた職人たちはヒンズー教徒だったから、そう簡単に新しい様式に転換はできないのだ。

削られているがヒンズー教の神々の姿があったのは明白

↓この部分は復元・修復されているだろうが、どこまでがオリジナルの「混合した」デザインだったのだろう。



アフガニスタンのゴール朝の遠征軍を指揮したマムルーク(「奴隷」の意味」)だったアイバクは、やがて独立した王となってゆく。※「マムルーク朝」の由来

アイバクが落馬事故で突然亡し、跡を継いだ息子アーラム・シャーだがその暴政で民心が離反。
アイバクの側近で娘婿だったイルトゥトゥミシュが反旗をひるがえし討伐。
イルトゥトゥミシュは遊牧民首長の子だったが内紛で奴隷として売られ、アイバクが引き取った。
その能力の高さで愛され信頼される側近になっていた人物。
三代目の王となったイルトゥトゥミシュは恩あるアイバクのモスクを拡張した。
②二番目のモスク建築(1193-97)は、前出の見取り図で緑色に示されている
彼の墓がモスクのすぐ外に残されている

イスラム教は礼拝するモスクの中に墓をおいてはいけない規則になっている
※キリスト教の教会は内部に墓があったので衛生的に問題が多かった。後発のイスラム教はそれを改善した教義を導入したのだろう。

モスクではないがメッカの方向を示す方向は白いキブラ【メッカの方向)となっている。
クトゥブ・ミナールはイルトゥトゥミシュの時代に完成したとされている。

モスクは次のハルジー朝のアラー・ウディン・カーンの時代に再拡張される。
③三番目のモスク建築(1296-1316)は、前出の見取り図でいちばん大きな黒い枠=現在の廃墟として残されているもの。
アイバクの建設したモスクは、百年後には六倍の面積になっていった。

アラー・ウディン・カーンは安定した支配期に、クトゥブ・ミナールを超える高さの塔を建設しようと思い立つ。

直径二十五メートルにもなるその基礎が↑残されている。
完成していれば百五十メートル級になっただろう。
彼の墓もこのモスクの外につくられた。

クトゥブ・ミナールは13世紀から現在に至るまで、世界で最も高いミナレットである。

**
十三世紀にモスク建設が行われる前にも、ここには寺院があったとされている。
たぶんその頃にはすでにおなじように立っていただろう鉄の柱がある↓

高さは約七メートルにもなる紀元後四世紀のもの。
地中にも二メートルが埋まっている。
※全体は冒頭二枚目の写真で右下に写っている
「純度が高いので錆びません」とガイドさんが説明。
真の理由は謎だがたしかに錆びていない。
表面にサンスクリット語がブラフマー文字で書かれている↓

これによりチャンドラグプタ二世時代のものだと判明したのだそうな。
イスラム教の成立の遥か以前からものがモスクの中庭に壊されずに残されているのは幸いだ。



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