旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ビルの谷間のチョイジンラマ宮殿

2023-09-25 10:54:12 | モンゴル
スフバートル広場から徒歩五分。
高層ビルが建ちはじめたど真ん中に残されている「チョイジンラマ宮殿」

20世紀はじめの絵地図に描かれている↓

↑円の中心が現在のスフバートル広場↑
↑現在国会議事堂がある場所に↑かつての活仏ジェプツェンダンパ・ホクトクの夏の宮殿が描かれている↑
↑円の下に描かれている寺院がチョイジンラマ宮殿↓

四角い塀にかこまれた姿は↓現在の敷地とほとんど変わらない↓

↑いちばん左下に見える白い障壁がこれ↓

↑一度壊されたものを修復したのがよくわかる↓

まわりのオフィス街で働く人たちがお弁当をひろげていた(^^)

↑正面の門を入る↓

絵地図と同様に前庭が広がり↓正面に内庭とを隔てる門がある

その門まで来ると↓本宮が見えた

チベット仏教というより中国の寺院建築。
この寺院が建てられた1908年にはモンゴルは清朝の支配下にあった。

↑漢民族の漢字の左に縦書きのモンゴル文字と満州文字↓右はザナバザルがチベット文字から考案したソヨンボ文字と思われる↓

左右は狛犬というよりロマネスク的なゾウと獅子


↑扁額の下はムカデ?
本宮に入る

左右にチベット仏教の奉納舞「ツァム」に使われる巨大な面と衣装が並べられている。


巨大で重そうに見えるが紙でつくられたもの

いわば紙粘土細工なので軽いのだそうだ。

正面に仏像なのは同じだが、
さらに奥の正面に空席があるのが独特↓

解説を読むと↑ここは活仏ジェプツェンダンパ・ホクトク=ボグド・ハーン8世の座る場所だった↑

↑ボグド・ハーンの座所前↑柱に囲まれたこの場所で国事の占いが行われていた。

占いをしていたのが「チョイジンラマ」で、ボグド・ハーンの実の弟だった。
その名前はアルファベット表記をすればChoijin Lama Luvsankhaidav
最後の(あえてカタカナ表記するなら)「ルフサンカイダヴ」が名前。
「チョイジン・ラマ」は尊称。


↑「チョイジン・ラマ」の等身大像がすぐ横にあってぎょっとした↑
別の旅行記で正面右手にあったもっとリアルな像を「チョイジンラマ像」と解説したものがあった↓
↓こちらの写真で頭だけが少し見えている↓

両方とも同一人物?
**
本宮向かって右側のお堂はザナバザルが祀られていた
※ザナバザルについてはこちらに書きました

ザナバザルが製作した鋳造をはじめ、ゆかりの品々が並べられている

↓こちらの二体の像はあきらかに首から上がつけかえられている

↑事情はわからないが社会主義時代にはここも寺としては廃絶されていた。
モンゴル国内でガンダン寺だけが存続を許されていたのである。
※ガンダン寺についてこちらに書きました

***
今回、チョイジンラマ宮殿は一人で訪問した。
現地の英語解説を読めるだけ読んだが、細部については分からないことだらけ。

ゆっくり解説してもらいながら見学できる機会がありますように(^^)


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ザナバザルはどんな人だったのか

2023-09-23 11:32:52 | モンゴル
17世紀の卓越した鋳造仏像を見ていて、

これを制作した「モンゴルのミケランジェロ」ザナバザルとはどんな人だったのか知りたくなった。
※こちらに他の作品も載せています

チンギスハーンの血をひく王族に生まれ、頭脳は明晰、頑健な大男だったと伝わる。

↑ザナバザル美術館にホンモノの手形、自画像があった↓

↓同じくザナバザルが描いたとされる↓ザナバザルの母の肖像

なるほどに似ている。


↑こちらは後年に弟子が描いたという↑
↑尊大さや近づき難さなどはなく、親しみやすそうな人柄が三百年後の今にも伝わってくるようではないか。

しらべていくと★ザナバザルにはたくさん呼び名があった
産まれてつけられた名前はYeshidorj(イシドルジ?)だったが
産まれる前から数々の吉兆があったので同時にUndor Gegeen(「高位の聖者」の意)と名付けられた。
チンギス・ハーンの末子トゥルイ(フビライの父)の末裔。
誕生の前年・1634年に没した高僧ターラナータの転生であるとダライラマ5世から認定された。
※ターラナータは1608年にチベットからモンゴルへ布教に来たチョナン派(赤帽派)の僧。
清朝から「ジェプツェンダンパ・ホクトク」の称号をうけた。
ザナバザルが転生活仏であると認定を受けたのは当時主流になっていたゲルク派(黄帽派)に転向したことで可能になったという説明もあった。

ザナバザルの呼び名はサンスクリット語のjinana-vajra(「智の稲妻」の意)のモンゴル風発音からきている。
いつからこの名前が通称になったのかはわからない。
彼は初代のボグド・ハーンと説明されることもあるが(ボグド【聖なる】とは呼ばれていても)ハーン(「王」「領主」のような呼び方)がついたのは第8代ボグドが1911年に独立モンゴルの政治的なトップになってからだろう。


チョイジンラマ宮殿に↑ザナバザルが留学したチベットから持ち帰ったと伝わる一千年前の仏塔があった。
彼が卓越した彫刻・鋳造の技術を身につけたのはチベットなのだろうか。

↑こちらはザナバザルがモンゴル帰国後に製作した仏塔↑

ザナバザルはソヨンボ文字を考案し、
そのデザインは今もモンゴル国旗に描かれている↑

ザナバザルの八代目の生まれ代わりが
1911年に独立した君主国としてのモンゴルのトップ=ボグド・ハーンである。
※2008年に訪れたその宮殿についてブログに書きました。本人の写真もありました。

八代目の生まれ代わりボグド・ハーンが1924年に没すると、社会主義国となったモンゴルは九代目の生まれ代わりを選ばなかった。
が、チベットのダライラマは密かに九代目を選んでいた。
2012年に没したという彼の写真をガイドさんが見せてくれた↓

2016年、モンゴルを訪れたダライラマ14世は
「十代目はモンゴルで生まれた」と述べた。
**
冒頭の立像の横からの写真↓

↑2017年、この像のレプリカが大粛清時代にインドに逃れた元高僧に贈られたニュースがネットにあった
※リンクします。動画の1分30秒過ぎにレプリカ像が贈呈されています。
※以下はニュースの要約
彼はGobi Noyon Khutagtの生まれ変わり。
1930年代の大虐殺時代に教師と共にインドに逃れた。
その後、1964年にカリフォルニアのバークレー大学に教師として招聘され移住。
活仏であることを自ら止めて還俗し結婚。三人の子供に恵まれている。
85歳になり、53年ぶりに祖国モンゴルから招待を受けて帰国した。
ダライラマ訪米の際には彼の家に宿泊した。

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ソヨンボをつくった「モンゴルのミケランジェロ」~ザナバザル初代活仏

2023-09-21 17:00:17 | モンゴル
モンゴル国旗に描かれた「ソヨンボ」は、
活仏ザナバザルによって1684年に考案された。
↓ザナバザル美術館に展示されていた一メートル以上ある「ソヨンボ」は
17世紀に彼自身が製作したものを1960年代の複製している↓

↑いちばん上に炎
↑丸い太陽、三日月、
↑左右に国土を守る壁
↑真ん中=陰陽が合わさる丸は人間?
↑下向きの三角は武器
↑ひとつは自分の内側にいる敵に向かい
↑ひとつは外側の敵に対している
※と、ガイドさんが説明してくれた(諸説あり)

↑1911年に清から独立を宣言したモンゴルの国旗にも使われている↑

↑金製の「太陽」と「月」のセットが二千年前の遺跡からも出土した(モンゴル歴史博物館より)↑「匈奴」と呼ばれた民族が支配していた時代。ソヨンボはシャーマンの昔からこの地で信仰の対象だったシンボルを、後の仏教信仰と統合して考案されたのだろう。

↑ザナバザルは「ソヨンボ文字」のアルファベットを考案した人物↑
↑左上、最初に「ソヨンボ」が記されている↑
「ソヨンボ文字」は当時の教養言語であるチベット語とサンスクリット語をモンゴル語と共に表記するために考案された。
当時縦書きのモンゴル文字はすでにあったが、それではチベット語とサンスクリット語を正確に表記できなかった。

**
ザナバザル美術館の正式名称はThe Zanabazar museum of fine art。

Fine artだけでなく個人の名前がつけられている。
ザナバザルは高僧というだけでなく、モンゴル史上最大の美術家としても認識されている。

美術館自体は1966年の開館だが、建物は1905年にロシアの商人が建てた。

当時の写真が館内に掲載されていた↑大幅に改築されているが確かにこの建物。

入館料15000トゥグルク(約600円)
撮影料45000トゥグルク(約1800円)
十二の展示室で構成される二階建て、
それほど大きくはないが展示は紀元前の発掘品から現代まで幅広い。

↑ポスターにもなっている↑ザナバザルの制作した像は二階の中心に集められていた。

中央にある前出の「ホワイト・タラ」神の像は非の打ち所がない。
↓まずは後ろ姿をごらんください↓

どの角度から見ても全く隙がない。
十六歳の女性をモデルにしたとという伝承があるそうだが、人間的な・写実的な部分と神的な完璧さが融合している。

↑近くにあったこの像もザナバザルの作↑衣の下の踏み出した脚が妙にリアル↑
こういう独創的な造形を見せられると↓周囲に並べられている一般的なスタイルの像が

↑えらく凡庸に見えてしまう※これらも一体だけ置かれていれば見入ってしまうような出来なのに。


ザナバザルが現代まで続く名声を得ているのは伝説の高僧だからだけではない。

↑彼が製作したこの「ホワイト・タラ」の像ははっとさせられる↑
卓越した鋳造技術は現代でも評価が高い。

↑こちらは2022年に開館した「チンギス・ハーン博物館」に展示されている逸品↓

「モンゴルにルネッサンスを導入したアジアのミケランジェロ」と呼んだヨーロッパ人がいたのもわかる。
なんとも人間的な仏像。

↑この像はもとはチョイジンラマ宮殿にあったもの。

翌日訪れて↑「ここにありました」と悔しそうに表示されていた。
***
コロナ禍の2021年に
ザナバザルが製作した21体のタラ神を集めた展覧会が開催されたそうだ。
※記事にリンクします

モンゴル史を代表する美術人ザナバザルの作品はどの博物館も保有していたいに違いない。
今回訪れたウランバートルのミュージアム4か所それぞれでザナバザルの作品が展示されていた。
仏教が大弾圧されていた社会主義時代を生き延びたのは幸いだったが、
壊されたり溶かされたりしたものも多いだろう。

ザナバザル博物館の最後にこんな展示があった。

↑廃墟になった修道院に残されていた壁画を救出している↑

↑草原にぽつんと残されていたこの建物↑
社会主義時代のモンゴルでは猛烈な仏教弾圧が行われた。
※2008年にツェツェルレグを訪れた時のブログをお読みください

・・・続く
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ウランバートルでロシア料理を~ピロシキも餃子もあります

2023-09-20 07:07:02 | モンゴル
ボルシチの赤はビーツの赤。トマトじゃない。
ウランバートルのロシア料理店ではホンモノを出してくれた(^^)(後述)


↑ロシアン・ファーストフードのお店でもビーツサラダが楽しめる。

↑「ミュラヤ・カフェ」と読みます。

入口のショーケースには

↑クッキーやケーキ類

↑奥のカウンター下に総菜料理が並べられている↑串肉は「シャリリク」
どれも温めなおしてくれる。

ビーツサラダは測り売り↑

↑ポテトケーキとピロシキを注文

↑中身はこんなかんじ↑ロシアでは具のあるパンは甘くても辛くてもぜんぶピロシキと呼ぶ。
モンゴルのホーショールと同じ?

ブルーベリーのインスタント茶はフィンランドの味がした。

カウンターで売られていた巨大なコレはコンデンスミルクだった。
**

↑冒頭のボルシチを出してくれたのはこのロシア料理店↑

高級感があって英語メニューもある。
注文をとりにきてくれたまだ学生に見える彼女はひと目でロシア系。
だが、完璧なモンゴル語を話しているとガイドさんが驚いた。
両親がロシア人でもモンゴルで育てばモンゴル語ネイティブになる(^^)
世界でも日本でもぱっと見と言葉が違う人は多くなっている。


香ばしくカリカリに焼いたパンと共に出された白いのは「サーロ」↑
↑豚の背脂を塩漬けにしたもので、カロリー高めだが日本人にもうけるだろう味。
↑辛すぎないマスタードと共に。
↑左のサワークリームはボルシチにつけあわせる。
LIRA(店の名前)風カツレツ
ロールキャベツ、ボリュームありました(^^)

↑ロシア料理だから「ペリメニ」だが、モンゴルの「ボーズ」と基本同じ。水餃子をさまざまな具でつくるヤツとおもえばよいか。

ユーラシア大陸にはいわゆる「餃子文化」がカタチと名前を変えて存在している。
ウランバートルにも「ボーズ屋さん」はたくさんある↓この店もそのひとつ

↑モンゴル語で「Бууз」が「ボーズ」なのは覚えた(^^)
※ロシア語では「Босе」、共に中国語の「包子」から派生したのではないかしらん

入ってすぐの注文カウンター↑メニューの左上に【Бууз1500】と書かれている。
¥60!一皿にはたいてい六個乗っている。
食べてみたかったけど胃袋には限界があるので今回は食べられず。

大学に近いこちらのボーズ屋さんはチェーン店↓

宿泊したホテルに近かったのでいつでも行けると思っていて最後の夜になってしまった

入ってメニューを見て注文しようとしたまさにその時…停電が発生!
真っ暗になり店を出た。

数ブロック歩いてモンゴル料理の店に入る。
ビールはチンギス↓生

↓日本のガイドブックだと「揚げ餃子」と書かれていることが多いホーショールを注文

登場するとけっこう大きい↑お昼にロシアンファーストフードで食べたピロシキに近い↑

↑羊肉だけれど臭みはなく食べやすかった↑

モンゴルの焼きそば「ツイヴァン」は(店にもよるようだが)きし麵風だった↑
↑こちらも羊肉だがもりもり食べられた(^^)
↑赤いのはなんと日本の紅ショウガ…これは正直言って合わない…

冒頭のボルシチをはじめ
多くの料理に肉を使おうとするモンゴル料理。
ガイドさん曰く「料理に肉が入っていないとちょっと残念な感じ」がするのがモンゴル人なのだそうだ。
日本料理とはずいぶんちがう嗜好だけれど、
中華とロシアと、両方の影響をうけたモンゴルの料理がちゃんとある。

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シャーマンなモンゴル~歴史博物館②

2023-09-19 08:24:42 | モンゴル
↑子供の服に狐の顔をつけて魔除けにするのだそうだ。
108の家から集めた絹の端切れをパッチワークしてつくられている(※2024年追記)

「子供に近づく悪い夢(?)を食べてくれると言われているんです」
ガイドさんもお子さんに同じような衣装を着せたそうだ。
国や民族によって様々な習慣がある。
それは迷信と言うより願いである。

モンゴル歴史博物館でイギリスのカンタベリー大学との「シャーマン展」を開催していた。

20世紀初頭のモンゴルのシャーマンたちの写真を見ると
北米のネイティブ・アメリカン(いわゆるインディアン)と似ている。

↑衣装やぶらさげているモノはだいぶんちがうけれど。

↑スートラはチベット文字で書かれた経典↑
だが、仏教が入ってくる前からシャーマンはいた。
人が神に祈るいちばんの目的はどの世界でも病気平癒。

↑シャーマンは薬を調合するためのスプーンを様々所持していた↑

↓シャーマンではない人々の衣装も外国人の目からは呪術的に見える↓

↓腰の帯から下げているこれは何?

↑男性の必携三種のうち「火打石」
あとは「ナイフ」と、

↑「箸」なのだそうだ↑

↑女性の衣装は帯がない
※2024年追記
未婚女性が帯をしなかった?
帯はモンゴル語で「ブス」、「無い」ことを「(ウ)グェ」(「クイ」に近い発音)といい、未婚女性は帯をつけない習慣から「ブスクグェ(クイ)」と呼ぶのだそうだ。男性は常に帯をつけているので「有る」=「テー」がついて、「ブステー・ホン(人)」。

↑首からさげている呪術的に見えるどうぐは?

↑女性用の必携は「お手入れセット」だった
どれがどこ用かはわからないが↑耳、爪、歯、そして舌のお手入れ道具まであった。
↑モンゴル各地の女性の衣装に共通していたのは、長い髪を収納する細長いケース。

***
「ツァム」舞はチベット仏教と共にモンゴルに入ったとされている。
仏教の神が活躍するストーリーではあるが、その動きや使われている面・衣装には多分にシャーマン的な要素が感じられる。

↑チョイジンラマ宮殿に保管されている「Begtse(「ベグツェ」)の衣装と面。

この赤い顔をした神こそがモンゴルの首都の名前のもとかもしれない。
Улаанбаатар 
Ulaanbaatar
ウラン(赤い)バートル(英雄)という名前は1924年にソ連が後ろ盾となったモンゴル人民共和国が成立した時につけられた。前年に若くして亡くなった革命の英雄スフバートルを記念しているとされる。が、社会主義が転覆した今では、この神こそがウランバートルだったのだと噂されている。




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