旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

九州西部を走る旅、鹿児島

2018-02-28 11:22:34 | 国内
朝六時二十五分羽田発で鹿児島に到着。

昨年《手造の旅》屋久島で二度乗った便だ。鹿児島空港からは離島へ飛ぶ小さな飛行機がたくさんある。


車で桜島を目指す。
目に留まってかっちった↓

皮がとても厚いけれど、なんともフレッシュな味わい(^.^)

↓これですね。関東ではあまり出回らない「ワサーポメロ」の旬はちょうど今頃だったのか、こういうのも出会い。

この先「サワーポメロ」という言葉に出会うたびに、今日の桜島を思い出すにちがいない。
通り過ぎてしまえば出会えなかった。ちょっと止まることのできるゆったりした日程は大事なのです。

今回、歴史になどたいした興味のない二人娘をつれてきた。コースもそれなりに工夫しなくちゃ。博物館や美術館や神社仏閣めぐりをしても「なんかどこもいっしょ」とか言われてしまう。
↓桜島のど迫力はきっと印象に残るだろう。

大正時代の噴火で陸続きになった東側から島に入る。周辺の土地がいかにも溶岩道路になってきた。
前を走っていた観光バスが入った「有村溶岩展望所」に止まってみたが、今日は山頂が雲の中。
さらに近いという「湯平展望台」は山頂まで3㎞の近さ。写真に撮れなくてもかなり迫力が感じられる↓やっぱり身体で感じるものは大きい↓

さらに身体で感じられる「桜島溶岩なぎさ公園&足湯」へ行く↓

→※こんな風に見えてほしかったけれど、与えられた状況を楽しむのが旅です(^.^)

ビジターセンターで売っていた巨大な桜島大根の漬物↓



世界一の大きさにになる、そしておいしい桜島大根は、やはり火山の恵み
おいしかった(^.^)

桜島がどのような火山なのか、わかりやすく解説してくれている↓

↓そうかぁ、噴火しているのがあたりまえ、なんですね↓

●足湯を自分で掘ることもできる↓この島はどこでも掘ったら温泉が出るのでしょうか↓

**
お昼ごはんも桜島にて↓こういう手書きの宣伝に弱いのが観光客(笑)↓

や~っぱり、あたりでした(^.^)↓



***
桜島フェリーは実質二十分もないのだけれど、船内においしいものがいろいろあるのだと、ネットの評判を読む。
うどんを食べる時間はなかったけれど、甘い匂いにさそわれて・・・ここで売っていた「紅はるか」

安くはなかったけれど、食べてみると・・・おおお、大感激↓

「大きい方かってくればよかった」(笑)
以前、高知の方にいただいた干しイモと同じぐらい甘い。干さなくてもこんなに甘いとは。
※「紅はるか」また食べたい(^.^)

****
鹿児島市側に渡って、薩摩藩が江戸時代のうちに建設した「尚古集成館」へ向かう。ここは当時日本最先端の工場群だったと言ってよい↓

↑この建物は今は展示室になっているが、もともと工場のひとつだったのだ。
↓こちらは工業群の要である製鉄反射炉↓巨大な煙突がこの上にたちあがっていたわけだ↓

↓上から見たところ↓

これが工場群のなかで遺されている最大のものだから、往時を知るためには想像力が欠かせない・
・・・三十年前に国内添乗ではじめてやってきた小松は、ちゃんと理解しておりませんでした。

この工場群をつくらせた島津斉彬は神様になった↓鹿児島市内にある「照国神社」がそれ↓
ここには斉彬公の巨大銅像があった↓作者は朝倉文夫、日暮里にある旧アトリエの美術館に行ったことがあった。早稲田の大隈重信像の作者だと言えばぴんっとくるかもしれない。

功績を記念した展示館↓

現在の「日の丸」はもともと薩摩藩のもので、「これを全日本の船舶の印にしてはどうだろう」と提案したもの。
同時期に幕府が写真下のような「中黒」↓を提案していたことをはじめて知った↓※写真の中、右側です

水戸斉昭などによって幕府案は却下され、黒船来航の翌年から「日の丸」が日本の国章となった。
「日の丸」でよかった。あぶないところだった。
*****
西郷さん最期の地、城山までのぼったが、桜島はこんなかんじだった↓


鹿児島駅前で車を返してホテルのシャトルバスで少し離れた全室から桜島が見えるというホテルへ到着。
桜島はやっぱり隠れておられる↓

このホテルのバッフェ夕食は、かなり気に入った↓




明日は晴れますかしらん


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ヴァチカン宮殿

2018-02-24 07:38:08 | イタリア
2016年の11月に「特別観光」をお願いした《手造の旅》以来となる⇒※こちらからごらんいただけます

今回は一般的なルートだが、何度同じ場所を訪れても発見は尽きない

入口で、静岡から来られたかたがこの彫刻に「クレマチスの丘」ですねと言った↓いつもは誰も目に留めない現代彫刻に反応するお客様にガイドさんが喜ぶ↓

小松もこれまで見てはいたが、ちゃんと認識したことがなかった。一見、モダン過ぎるようだが、足の部分など見ると人間の肉体表現はかなり繊細でミケランジェロ的なところもある。
ジュリアーノ・ヴァンジという現代イタリアを代表する彫刻家2000年の作品。静岡「クレマチスの丘」に世界で唯一彼の個人美術館があるのだそうだ。彫刻家の作品というのはおいそれと集められないし、動かせない。それはとても貴重な場所にちがいない。
遠くない天気の良さそうな日に是非訪れたい。
**

ヴァチカン専用のイヤフォンの利用を義務づけられているので交換↓

↓この螺旋階段は、間違いなく「ブラマンテの螺旋階段」へのオマージュだ。※冒頭の過去の日記をごらんください


屋外に設置された説明用の図をつかってシスティーナ礼拝堂に描かれた内容を解説↓

↑後ろに見えるのはピナコテク(絵画館)。こちらはほとんど見学することがない。半日観光位ではとても時間がない。といって、美術館にいちにちこもって見て回っても、見る方の精神力が持ちません。うーむ。

フランチェスコ法皇はサッカーが大好きで、サッカー選手を一堂にあつめてミサをおこなった↓その時の写真とグッズがかざってあった↓




「シモネッタの階段」は約二百五十年前に建設された↓

ここをのぼってゆくと「燭台のギャラリー」に至る↓

このあたりは19世紀末に大きく改築されていたことを、今回解説を読んではじめて理解した
⇒こちらに書きました


廊下から見えるヴァチカン放送局のアンテナ↓その下に見える建物に、引退した先の法皇ベネディクト十六世がお住まいになっているのだそうだ↓現法皇は時々に彼を公の場にひっぱりだして敬意を表しているとガイドさんのお話


地図の廊下↓


そして至る、「ラファエロの間」
やはりこの「アテナイの学堂」が抜きんでている↓

これを描いている同時期にミケランジェロがシスティーナ礼拝堂を描いていて、それに感銘をうけたラファエロは予定していなかったミケランジェロを描きこんだ↓右下の人物がそれ↓

↑左でこちらを見えている女性?はラファエロの恋人ともいわれるそうな。登場人物がそれぞれ誰なのか、必ずしも特定されていない。

★ラファエロのフレスコ画はテヴェレ川の向こう側(トラステヴェレ)にあるファルネジーナ荘でその集大成が見られる
⇒2016年11月のトラステヴェレ観光にて訪れた日記、ごらんください

システィーナ礼拝堂への道はまだまだ続く。途中にある名品を横目で見ながら↓
フジタの聖母子↓

マティスがデザインした司教のマント↓

他にも、ちいさな美術館ならばメインの展示物になるだろう作品がずらずら…なんだかもったいないですね。

ボルジア家がつかっていた部屋を過ぎる↓天井にはボルジア家の紋章から赤牛が見られる↓


階段を登るとシスティーナ礼拝堂↓

内部はまだまだ撮影禁止

*****
サン・ピエトロ大聖堂に抜ける。外はまだ雨↓


聖なる年に開けられる門↓

内部に入ってすぐの右手にミケランジェロの出世作となったピエタ↓

ガラスの向こうに置かれるようになったのは1972年に腕と鼻を壊される事件が起きたから。
⇒その時の写真

世界一の大きさの教会であることを示す↓長さ表示


旧大聖堂の時代からあったとされる聖ピエトロ像、足元に触れて祈る人々↓


★「カノッサの屈辱」で有名なカノッサ女伯爵マティルダの墓↓


床にさりげなく刻まれた十字は、その地下に法皇の墓があることを示している↓


祭壇には比較的大事だとされている法皇の遺体が見える形で納められている↓

これはイノチェンツォ十一世。ベルニーニにナヴォナ広場の噴水をつくらせた法皇↑
彼が元安置されていた祭壇には、今はあのヨハネ・パウロ二世が安置されている↓

時に、こうして改葬されるのですね

別の床に刻まれたヨハネ・パウロ二世の紋章↓


あ!昨年のスコットランド《手造の旅》でボニー・プリンス・チャーリーの墓がここにあると知ったのに、さがすのを忘れてしまってました…次回には時間をつくれますかしらん。




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イタリア高速列車で雨のローマに到着

2018-02-23 22:25:40 | イタリア
イタリア高速列車はスーツケースを持ったまま乗り込むには足元が狭すぎる。朝八時に別送のバンがやってきた。
ローマのホテルへ直送してくれるのはとても便利(^.^) 

08:39フィレンツェ発のイタリア高速列車へ以前は誰でもホームに入れていたが、つい最近から切符をもった人しかホームには入れなくなった。我々には安心です。

車内は日本の新幹線にくらべるとだいぶ狭い↓足元にスーツケースを置くなんてとても出来ない

椅子は回転しない、リクライニングほぼしない、テーブルの下で前の人と足がぶつかる。

一時間半ほどでローマに到着。バスなら途中休憩を入れて三時間以上かかる。列車移動の価値は大きいのです。
ホームでアシスタントさんとお会いして、バスへ↓

入場予約してあるコロッセオへ↓

予約してあっても並びますなぁ↓

内部はやはり一見の価値がある↓こんなものが紀元後八十年という日本なら弥生時代に建設されていたなんて


すぐ近くにひろがる古代の町の跡フォロロマーノ↓入場しなくてもティトス帝の凱旋門がみえる↓

コロッセオが完成した時のティトス帝の名前が刻まれている↓

イスラエルで起こっていたユダヤ人との戦役に勝利して、凱旋するティトス帝の後ろに勝利の女神が↓

この場面には略奪したメノーラ(ユダヤ教のシンボルのひとつである七つの燭台)を運び込む外線の様子が描かれているので、今でもユダヤ教徒はこの下を通らないのだそうだ。過去の「終わった話」になってないのですね。

13時、近くのレストランへ到着
なかなか雰囲気のある場所↓


バスに乗り、少し歩いてトレビの泉へ。雨でもこれだけの混雑↓

ローマ三越さんへ寄ってから日本大使館近くのホテルへチェックイン。
しばらく休憩して、徒歩で夕食のレストランへ↓
 お店の名前がはいった水のボトルが良いですね↓


サルティンボッカ↓

 

徒歩でホテルへ戻ってきて見上げる。最上階が朝食のレストランだときいている↓



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フィレンツェの午後、ピサへ、夕食は妥協なく

2018-02-22 21:00:00 | イタリア
ヴェッキオ橋の真ん中にある胸像はチェッリーニという金属彫刻士のマエストロ↓

シニョーリア広場にあるこの像が修復されて戻ってきたのを見て、はじめてその腕前に気付いた↓

先月、ヴィーンで彼のつくった「サリエラ(塩入れ)」を見てあらためて認識した。
彫刻の発展は絵画よりも早い、ベルニーニの百年前にこんな作品がすでにあったのか。
**
フィレンツェ大聖堂への入場は近頃大行列になるので、ツアーにも組み込まれなくなってきた




個人的にはこの洗礼堂の内部が気に入っている↓教会が出来る前はこの洗礼堂も教会本体だったのであります↓

こちらは有料だからか行列はほとんどない。また今度ゆっくり見学したいとおもいます(^.^)

*****
ご希望の方をピサへご案内↓この「奇跡の広場」を見た瞬間、だれもが「おお」っと声をあげる↓

斜塔でガリレオが重力の実験をしたという伝説がある↓
※これをアポロ15号が月で実験した話を書きました

★洗礼堂の奇跡の「エコー」ぜひ、お聞きください
※youtubeにのせた小松撮影動画、ごらんください

上階への階段は斜塔と似ている↓

上から見下ろす↓


いつもピサは時間が足りない。これだけの回数きているのに、ピサの町に宿泊したことはない。旧市街を観光したのは《手造の旅》での一回だけ。イタリア小都市めぐりの《手造の旅》はまだまだ行くべき場所がある。

******我々がピサへ行っている間、フィレンツェでアカデミア美術館を訪れた方から「ダビデ」の写真が送られてきた
この像のコピーは世界中に数限りなくあるだろう。誰もが見たことがあるだろう。小松も本物を見る前に幾度となくコピーを見てはいた。
しかし、本物を見た時の衝撃が忘れられない。

数十年前とは比較にならないほど精巧なコピーが製作可能になった現代、その気になれば素人の我々など簡単に騙されてしまう。
本物・オリジナルを見なくてはならない意味はどこにあるのか?と、時々思ってしまうのだが、
「いやいや、やっぱりホンモノでなくては伝わらないモノがあるよね」
と、このダビデ像との出会いを思い出すのだ。

*******
18時半、フィレンツェのホテルに帰着。すぐに、ずっとまえから好きな気軽なレストランへ↓





ホテルへ歩いていく道での夜景が美しい


ストロッツィ宮殿↓


ノヴェッラ教会↓


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フィレンツェ、ヴェッキオ宮殿

2018-02-22 13:00:53 | イタリア
フィレンツェ市庁舎が入った塔のあるヴェッキオ宮殿。ここを見学するツアーは、ウフィッツィ美術館に比べてびっくりするほど少ない↓

今回、ひさしぶりにガイドさんにご案内いただいた。
入口前庭↓

ここに置かれている「イルカを抱く天使」像はもともとこの場所のためのものではないが、ちょうどよくおさまって見える。宮殿内部に展示されたホンモノがこちら↓

作者はダ・ヴィンチの師匠であったヴェロッキオ。つまり15世紀の後半の作品。とすれば、今の目でみるよりもずっと先進的で新鮮な作品に見えていたことだろう。

いちばん大きな五百人広間↓

映画「インフェルノ」で主人公たちが走り回っていた天井裏を見上げると↓

中央には初代公爵コジモ一世メディチ↓

この人、どの肖像を見ても印象的な意志の強そうな顏をしてます。父親のジョヴァンニ似なのかしらん

大広間の大きな壁にダ・ヴィンチとミケランジェロの壁画対決が計画されていたが実現されなかった。現在のヴァザーリが描いた絵の中に「Cerca trova(探せば見つかる)」という文字があり、これは絵をはがせばダ・ヴィンチの未完作品が隠れている暗示だと言われている。近年ファイバースコープで調査が実施され、あらためてその可能性ありとされたが、剥がせません(^.^)

この大広間から、とても小さな「フランチェスコ一世の秘密の小部屋」に入る入口がある※こちらに少し載せました


広間に置かれたミケランジェロの彫刻「勝利」↓

いろいろな解釈がされているが、若者に組み敷かれた老人はミケランジェロ自身だとするものが多い。
もともとは法皇ジュリオ二世(システィーナ礼拝堂の天井を描かせた人ですね)の墓碑のために製作をはじめた群像彫刻のひとつになる予定だった。

**居室群に入っていく~16世紀の公爵コジモ一世メディチが百年前の先祖に敬意を表して装飾している
メディチ家を隆盛に導いた名君に敬意を表して最初に
●コジモ・イル・ヴェッキオの部屋↓

現在のフィレンツェからも彼が貢献した様がしっかりかんじられる。
メディチ家の菩提寺となるロレンツォ教会の建設現場で、建築家ブルネレスキとミケロッツォがコジモの前にモデル模型を見せている図↓

いちばん左端でこちらを見ているのは彫刻家のドナテッロ。
二人は良き友人で、現在ロレンツォ教会ですぐ近くに葬られている。

コジモは身分としては一般市民だった。1433年の政変で有罪となりこのヴェッキオ宮殿の塔にある牢獄に幽閉された。死罪をまぬかれてヴェネチアへ亡命↓


ボローニャのベンティボーリオ家が復位するのを助ける図↓

下にある肖像はコジモの父、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ

メディチ家の赤い丸薬の紋章も、この時期には二つ多い八つ↓


●ロレンツォ・イル・マニーフィコの部屋↓

ここに入ると紋章も彼の時代の三角形・六つ玉になる↓

↑フランス王家に貸した金のかわりに使用を許されたという青地に白いユリの玉もひとつある
天井中央に、各国大使からの贈り物にかこまれたロレンツォ↓

すぐ目の前に差し出された赤い帽子↑は、次男のジョヴァンニが枢機卿に任命されたことを表す。後の法皇レオ十世となる人物。
↓ナポリ王フェルディナンドと手をとりあうロレンツォ↓

↑メディチ家に対するいわゆる「パッツィの反乱」(1478年4月26日)を鎮圧した後も、ローマ法王と周辺諸国がメディチ家に対する包囲連合を構築する。それを打開するため、ロレンツォは単身ナポリへ赴き自ら囚われ、ついにはフェルディナンド王の信頼を得て事態を打開するに至った。29歳のロレンツォの転機を描いている。
誰が見ても美男とは言い難かったという彼の顔、ちゃんと描かれております(^.^)顔ににあわず、頭も性格も良かった。逆でなくてよかった。

次の●レオ十世の部屋の床はなんとオリジナル↓

壁の絵よりもこちらの美しさに目を惹かれる↓


****ここから先は順不同、記憶に残ったものをメモしておきます

先ほどの「五百人広間」にてダ・ヴィンチが描きかけていたという絵の模写のコピーがある↓

これ、本物は1992年に日本の富士美術館が正当に所有することになったが、イタリアへ寄贈した。
※仔細はこちらに書かれていました

※その経緯によりこういう特別展を開催することが出来るのだ

*****フィレンツェ生まれのダンテ、政変により亡命してラヴェンナで亡くなっている↓

役人・外交官のひとりだったマキャヴェッリの胸像もある↓




もともとは外に置かれていたドナテッロの「ユディート」↓







個人的に、しっかり予習してからまた訪れたい場所だ。
コジモ・イル・ヴェッキオが幽閉されたという塔の監獄部屋まで見学できるツアーへも、参加してみたい。いつ?
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