五島列島の旅というと隠れキリシタンや教会のイメージでばかりが先行しているが、それはほんの一時代の出来事に過ぎない。
訪れて様々な人と話をしてみると、古代から栄えた豊かな土地であったのが分かる。「隠れキリシタンと教会」だけでは、その魅力を半分も伝えられない。特に、現代の地理感覚からすると「五島列島」の中心から外れて見える小値賀島は、かつてこちらこそが中心だったのでは?と思わせてくれた。
**フェリー「太古」で12時過ぎに小値賀に到着。古民家を改装した日本レストラン「藤松」へ向かう
ここの食事は食べるだけでなく、その環境を知ることが大切。豪邸の表玄関は海に向いていた↓
海側から見た玄関↓
★鯨漁は19世紀半ばには世界中で一大産業。小値賀にもいくつものチームがあった。歴史民俗資料館の展示の一つにその様子を描いた奉納画が↓
歴史民俗資料館が置かれている「小田家」もまた、初代・二代目が捕鯨で築いた財産を多方面に投資することでその地位を得ていった。小値賀の港から続くメインストリートを少しだけ入ったところに入り口がある↓
立派な庭が往時をしのばせる↓
明治期?に使われていた家紋入りの人力車↓でも「タイヤはあとから修復したんだ」そうな↓
小田家は平戸藩松浦家の下で明治維新をむかえた。藩の発行した藩札↓
明治になってからも松浦の「殿様」が小値賀を訪れるときには、小田家に泊まられていた。しかし、その名家も今は小値賀を去ってしまった。
「昭和62年(1987年)に、当時の御当主はこの島での歴史を閉じる決断をされ、この母屋のある五百坪の敷地を含め、小値賀町に無償で寄贈。町は厚意に報いるべく、二年後に「歴史民俗資料館」を開館」
ここには小値賀の歴史が詰まっているのだ。干鮑(干しあわび)は、遣唐使の時代から小値賀の名産品で、明治期にも盛んに漁がおこなわれていた。水中メガネは高級品で個人個人の顔に合わせてつくられていたのだそうだ↓その型があった↓
弥生時代の古墳から発見された品々も多数↓あとから遺跡を見せていただき、「こんな場所にあったのか」と感慨あり↓
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人が変わり、おぢかアイランドツーリズムの方に島をぐるっと案内していただいた。
小値賀島は人が寝ているような形をしている↓
一番左の頭にあたるところは橋でつながった「斑島」
びっくりしたのは、この「人」の腰の部分にあたる場所はかつて浅い海で、1334年(建武元年)に埋め立てが完了されて一つの島になったという事実。埋め立て工事にあたり、多数の牛が犠牲になったということで、この「牛の塔」がまつられたのだそうな↓
塚の土台部分には、梵字を一文字書いた石が数万個も埋められているとのこと。現在の祠は現代になってからのもので、中の正面に祀られている石碑が14世紀からのもの↓
この時につくられた「建武の新田」は、この時代からの細長い形を今でもそのままに伝えているとか。
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小値賀にも空港があった↓1985年から2006年の二十年ほどの間だけ定期便が運航していた
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すぐ対岸にある野崎島には人工とも自然ともいわれる巨石を祀った神社がある。小値賀島のこの「地の神島神社(ちのこうしまじんじゃ)」の鳥居からまっすぐに見える山の中腹にある「沖の神島神社」である↓西暦704年に分社されたのが記録にあるそうだが、どちらが先だったのかわかっていないそうだ↓
肉眼でははっきり見えない天気
航空写真でみると、実に不思議な石だ↓高さ24メートルもある「王位石(おえいし)」
明日の朝、野崎島へ行く船からは肉眼でももう少し見えるだろう。楽しみ。
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小値賀島と橋でつながった斑島にある「玉石甌穴(たまいしおうけつ)」と呼ばれるもの。玉石が溶岩の穴にはまりこんで穴を深く掘りながら丸くまるく収まっている↓古くから信仰の対象にもなっているので鳥居がある↓
この先にあるのだが、ちょっと見つけにくい場所にある。ガイドさんといっしょでよかった↓
小値賀島はまだまだ案内すべき場所があると感じた。9月の本番旅に下見の成果をだしたい。
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今晩の宿は「オジカノオト」という、一組限定の一戸建て↓
夕食は、メインストリートにある夜もやっている「おーがにっく」というお店へ。ここのマスターは昼間に訪問した「歴史資料館」をつくりあげた方。また、お話できるのが楽しみ↓
トルコライスなどつくりながら、小松のもってきたクロアチアワインを開けました