旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

小値賀島(五島列島)の魅力は

2017-06-25 11:55:52 | 国内

五島列島の旅というと隠れキリシタンや教会のイメージでばかりが先行しているが、それはほんの一時代の出来事に過ぎない。

訪れて様々な人と話をしてみると、古代から栄えた豊かな土地であったのが分かる。「隠れキリシタンと教会」だけでは、その魅力を半分も伝えられない。特に、現代の地理感覚からすると「五島列島」の中心から外れて見える小値賀島は、かつてこちらこそが中心だったのでは?と思わせてくれた。

**フェリー「太古」で12時過ぎに小値賀に到着。古民家を改装した日本レストラン「藤松」へ向かう

クジラ漁で栄えた時代の豪商の建てた家

※お料理など、こちらのページに載せました

ここの食事は食べるだけでなく、その環境を知ることが大切。豪邸の表玄関は海に向いていた↓

海側から見た玄関↓

★鯨漁は19世紀半ばには世界中で一大産業。小値賀にもいくつものチームがあった。歴史民俗資料館の展示の一つにその様子を描いた奉納画が↓

歴史民俗資料館が置かれている「小田家」もまた、初代・二代目が捕鯨で築いた財産を多方面に投資することでその地位を得ていった。小値賀の港から続くメインストリートを少しだけ入ったところに入り口がある↓

立派な庭が往時をしのばせる↓

明治期?に使われていた家紋入りの人力車↓でも「タイヤはあとから修復したんだ」そうな↓

小田家は平戸藩松浦家の下で明治維新をむかえた。藩の発行した藩札↓

明治になってからも松浦の「殿様」が小値賀を訪れるときには、小田家に泊まられていた。しかし、その名家も今は小値賀を去ってしまった。

「昭和62年(1987年)に、当時の御当主はこの島での歴史を閉じる決断をされ、この母屋のある五百坪の敷地を含め、小値賀町に無償で寄贈。町は厚意に報いるべく、二年後に「歴史民俗資料館」を開館」

ここには小値賀の歴史が詰まっているのだ。干鮑(干しあわび)は、遣唐使の時代から小値賀の名産品で、明治期にも盛んに漁がおこなわれていた。水中メガネは高級品で個人個人の顔に合わせてつくられていたのだそうだ↓その型があった↓

弥生時代の古墳から発見された品々も多数↓あとから遺跡を見せていただき、「こんな場所にあったのか」と感慨あり↓

※この遺跡を見せていただいた時の写真日記ごらんください

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人が変わり、おぢかアイランドツーリズムの方に島をぐるっと案内していただいた。

小値賀島は人が寝ているような形をしている↓

一番左の頭にあたるところは橋でつながった「斑島」

びっくりしたのは、この「人」の腰の部分にあたる場所はかつて浅い海で、1334年(建武元年)に埋め立てが完了されて一つの島になったという事実。埋め立て工事にあたり、多数の牛が犠牲になったということで、この「牛の塔」がまつられたのだそうな↓

塚の土台部分には、梵字を一文字書いた石が数万個も埋められているとのこと。現在の祠は現代になってからのもので、中の正面に祀られている石碑が14世紀からのもの↓

この時につくられた「建武の新田」は、この時代からの細長い形を今でもそのままに伝えているとか。

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小値賀にも空港があった↓1985年から2006年の二十年ほどの間だけ定期便が運航していた

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すぐ対岸にある野崎島には人工とも自然ともいわれる巨石を祀った神社がある。小値賀島のこの「地の神島神社(ちのこうしまじんじゃ)」の鳥居からまっすぐに見える山の中腹にある「沖の神島神社」である↓西暦704年に分社されたのが記録にあるそうだが、どちらが先だったのかわかっていないそうだ↓

肉眼でははっきり見えない天気

航空写真でみると、実に不思議な石だ↓高さ24メートルもある「王位石(おえいし)」

明日の朝、野崎島へ行く船からは肉眼でももう少し見えるだろう。楽しみ。

***** 

小値賀島と橋でつながった斑島にある「玉石甌穴(たまいしおうけつ)」と呼ばれるもの。玉石が溶岩の穴にはまりこんで穴を深く掘りながら丸くまるく収まっている↓古くから信仰の対象にもなっているので鳥居がある↓

この先にあるのだが、ちょっと見つけにくい場所にある。ガイドさんといっしょでよかった↓

小値賀島はまだまだ案内すべき場所があると感じた。9月の本番旅に下見の成果をだしたい。

*****

今晩の宿は「オジカノオト」という、一組限定の一戸建て↓

※こちらにもう少し載せました 

夕食は、メインストリートにある夜もやっている「おーがにっく」というお店へ。ここのマスターは昼間に訪問した「歴史資料館」をつくりあげた方。また、お話できるのが楽しみ↓

トルコライスなどつくりながら、小松のもってきたクロアチアワインを開けました

 

 

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上五島のホテル・マルゲリータ

2017-06-25 07:53:19 | 国内

有川バスセンターから、ホテル・マルゲリータへ、上五島の方が送ってくださった。道は平たんではない。丘の上にあるホテルが近づいても、雲は低かった 今日はよく降られたので、お風呂に入ってから夕飯へいきましょ。様式ホテルだが、ふつうの日本式の大浴場はやっぱりうれしい。 途中にある木のテラス。晴れた朝はここでストレッチの教室もやるのだそうな↓ 日本としては遅めの20時にダイニングへ↓ 

   

 明日は景色がみられるといいな

***

朝食。ここでしか食べられない手作りのパイナップルジャム!↓保存料も入っていないので持ち帰り不可。売店で売っていたりもしない。ぜったい食べていきましょう(^.^)↓

追加で五島うどん↓無料でオーダーできます

手の込んだグラノーラの追加も無料↓

ここで焼かれたパンは、地元の方々もきそって買いにやってくるのだそうだ↓

「マルゲリータ」とは、マーガレットの花のこと↑ホテルのまわりに咲き乱れるのだそうだ。

**10時チェックアウト。ほかの部屋も見せていただいた。全29室で、きめこまかなサービスをするにはちょうど良いサイズ。

スィートにあたる部屋↓

バスルームから景色が楽しめる↓

少しだけ広めでエキストラベッドが入る部屋↓

レセプションから少し降りた階段の後ろにある、本の置かれた空間↓こういう場所がいいんです↓

雨が止み、視界がひろがってきた↓

マルゲリータが咲き残っていた↓

*****ホテルを出て港へ降りる途中、矢固の岬が見えた↓

「トトロ岩」と呼ぶ人もいる。ん、そうかも。

「矢固め」とは、湾を守るために武装していた場所だからだとされる。現代では天然の塩を生産している。

青方港から小値賀島へ向かう↓

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五島列島下見~博多から福江、久賀島経由中通島へ

2017-06-24 18:22:59 | 国内

「9月に五島列島へ行きたいのでよろしく」と、古くからの旅倶楽部メンバーにオーダーをいただいたが、小松にはまったく知識がない。ざっと下調べをして、現地の方々にアポをとって、下見にやってきた。調べてみると、島々の連絡はたいへん不便。移動経路を決めるだけで一仕事。9月の本番は飛行機を使うが、今回は福岡から「太古」という船で福江島へ。夜のターミナル↓壹岐の島のゆるきゃら「人面石くん」もいる 

23時ごろ出航する船は、明け方からこんな経路で五島列島の島々をまわって、午前8時15分に福江に到着する↓

新しい船だが、通常の船室は昔ながらの雑魚寝。別料金を払うと三段階ぐらいの部屋が選べる。スロットマシンなんかもある 五島のおみやげも売っている↓

 

明け方、小値賀島へ到着。まだ暗い時間 中通島の青方港

若松島と中通島をつなぐ橋をくぐる頃はおだやかな朝をむかえていた↓

五島列島はどの島も景色が美しい

ようやく福江島に到着。ターミナルへの長いブリッジ↓

今回は福江島をゆっくり観光する時間はない。同日13時の「キリシタンクルーズ」観光船で、中通島へ向かうから。

それまでの四時間半で、五島バスの方とコンカナ王国ホテルと、「五島雑学辞典」の著者とお会いすることになっている。

ターミナルで五島バスの方とお話をしたあと、タクシーでコンカナ王国へ向かう。途中、城跡が見えてきてびっくり。タクシーの運転手さんによると、日本でいちばん最後に築かれた城なのだそうだ。それだけに往時の石垣はそのままのこされているのだそうな↓

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コンカナ王国、支配人に案内していただく。ホテルの敷地は広い。コテージ風でゆったりしている…というか一軒家ですね↓

  カラオケルームみたいな部屋があったり

天然温泉も↓

***

敷地内にある五島ワイナリーを訪れた↓そういえば、近くにブドウ園がありました

四種類、試飲させていただきました。ナイアガラという品種の白は多くの日本人にきっと気に入ってもらえるだろう。小松はおもったより力強い赤が好きでした。樽熟成のものを一本購入。

クロアチアのワインにクローズアップして販売しておりました。あ、今年のゴールデンウィークで訪れた時にも飲んだディンガッチがある(^.^)

レセプションにもどり、「五島雑学事典」の著者、永治さんにお会いする。開口一番、「五島にはなんでもあるんですよ」というたのもしいお言葉。笑顔もすてき。観光をプロデュースする人間としては、こういう方に案内していただきたい。9月、ぜひお願いいたします。

****

港に戻り、13時発のキリシタンクルーズを待つ。世界遺産登録をまちわびているのが伝わってくる。世界遺産になったら、いっきに人がおしよせてくるだろうけれど、今の五島にそれを受け入れきる施設があるかしらん・・・

「キリシタンクルーズ」を利用するのは二つの理由がある。陸路ではなかなか行けない島の教会が見学できること。そして、福江と上五島をむすぶ移動手段として。島と島を結ぶ定期航路はとてもすくないのです。チャーターの漁船がやってきた↓

 このルートの目玉のひとつは、重要文化財で世界遺産審査のリストに名を連ねている「旧五輪教会」

※旧五輪教会について、こちらに書きました

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奈留島の江上教会(えがみきょうかい)も「キリシタンクルーズ」で訪れる。港から奈留タクシーで教会まで行き、訪問することができる。現在は修復中だが、今年九月には見学できるはずだ↓

上の地図を見ると、左上の江上教会への道も平たんではない。特にこのトンネルがなかった時代には山越えをしなくてはたどり着けなかったのだそうだ↓

トンネル手前に、以前の山越え道入口があった↓

****ガイドさんとは奈留港で分かれ、中通島と橋でつながった若松島をめざす。ここでの見所は、これこそ海上からしか訪れることが出来ない「キリシタン洞窟」である↓

明治初期のきびしい弾圧から逃れた信徒数家族ががここで隠れて生活していたが、食事をつくる煙を見つかって捕縛されたとされる場所↓後年、白いキリストの像が設置されている↓

雨が、どうどうと落ちる滝を出現させていた↓

すぐ近くには「針のメンド」と呼ばれる岩穴↓

船がぐるりと半島をめぐり、逆側からも見ることができる↓

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若松港で下船、タクシーで中通島の青方バスセンターまで送っていただき、「キリシタンクルーズ」ツアーは終了。

ここで、お約束していた西肥バスの方と、上五島町観光商工課の方とお会いして、少しお話できた。

商工課の方のご厚意で、宿泊のホテル・マルゲリータまで送っていただいた。ここは、小松が上五島でどうしても泊まってみたいと思ったホテルである。

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デス・ヴァレー経由ラスヴェガスへ

2017-06-12 18:00:52 | アメリカ西部

デス・ヴァレー国立公園はカリフォルニア州とラスヴェガスのあるネヴァダ州にまたがっている。入口の看板↓ここはまだ冷たいと感じるぐらいの風が吹いていたが、これから全米最低地点(海面下85.5メートル)のあるデス・ヴァレーまで走る↓

ところが道は一度登る。正面の山を越えなくてはならない↓どんな場所を走っているのか?下の地図で確認してほしい↓↓

アメリカ本土の最高峰であるマウント・ホイットニー(標高4421メートル)と、最低地点のバッドウォーター(下の地図で海面下86メートルと表記)はとても近い距離にある↓今はその間のオレンジ色=砂漠を突っ切る道路を走っている。日本ではとても出会えないワイルドな地形だ↓

次に下車したビジターセンターの展示↓

この場所はしかし、不毛ではなくボラックスという鉱物資源が採掘される↓日本語で「ホウ酸ナトリウム鉱石」とされるもので、これを生成したものが、ガラス繊維や磁器のうわぐすり、はたまた庭にまく除草剤にもつかわれるのだそうだ↓

ボラックスの採掘は1882年にはじまった。パシフィック・コースト・ボラックス社の副社長だったクリスチャン・ザブリスキーはここでの責任者。1920年代に採掘量がへりはじめると、早くもデス・ヴァレーの観光利用を考えはじめ、1927年には最初のホテルをオープンさせる↓

デス・ヴァレーは1933年にはナショナル・モニュメントに認定、1994年にはついに国立公園となった。

サブリスキー氏が気に入っていた場所は、今では「ザブリスキー・ポイント」として、観光バスの定番停車場所となっている↓

駐車場から少し上の展望台に上がると、絶景の陰にかつての採掘場所もみえる↓

★バッドウォーター~全米最低地点↓塩の結晶が白くひろがっているのが見える↓

海面下85.5メートル↓ とにかく暑い場所

見上げる崖に「SEA LEVEL」の標識がつけられているのが見えるかしらん↓あそこが海面の高さなんだ↓

★アーチスト・ポイントへの道はくねくねしていて大型バスでは入れない。我々の前を走っていたRV車両も入るのを断念↓

たしかにこの道じゃぁ大きな車は無理ですね↓

絵描きのパレットのようにいろいろな色が見える崖があるからこの名前になった↓

★デビルズ・ゴルフコース 未舗装で、大型車はちょっと入りにくい↓

 ガラガラの岩に見えるのはすべて塩の結晶! 叩くと「コーン」といった乾いた高めの音がする。この音がゴルフのカップインの時の音に似ている。夜、暗闇でこの音が聞こえると、悪魔がゴルフをしているみたいだというので、この名前がつけられたのだとか↓

さらに走って、ラスヴェガスが見えてきた↓

ストリップ通りのホテルだが、小松的にはまだ大きすぎないモンテカルロホテルを選んだ↓

夜九時半からのショーに行く方もあり、みなさんお元気です(^.^)

明日は、LA経由で帰国です✈

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マンサナ「日系人収容所」

2017-06-12 10:00:23 | アメリカ西部

青空に輝く雪山が国道395に併走している↓

そこに、監視塔がぽつんと立っていた↓

マンサナは、第二次大戦中に日本系アメリカ人が収容されていた施設である。「リロケーションセンター(移住センター)」という名前が書かれているが、当時のアメリカ政府首脳は「コンセントレーション」(収容所)という呼び方をしていた。西海岸に住んでいた日本系のアメリカ人は、財産を放棄させられ身の回りのモノだけをもって「移住」させられていた。 かつての姿を復元した模型(ビジターセンター)↓

 

↑背景の同じ山が、今日も見下ろしている↓

ヨーロッパでナチスがつくったような「収容所」ではないことは、救いである。こういうダンスも時には認められ、リビングルームと呼ばれる建物もあった↓

数少ない、残された建物のひとつが、この「リビングルーム」。↓現在のビジターセンターである↓前出の模型の中央に同じ建物があるのが分かる↓手前に見える石と黒いプレートは、日系人収容所が置かれていた地名。カリフォルニアを中心にしてアメリカ本土十一か所にあった場所の名前が記されている↓

十一か所に収容された日系人の数は約十二万人。ここマンサナにはそのうちの約一割一万二千人が連れてこられた。

この建物は、戦後、この地域の郡が買い上げ、退役軍人の為の施設になり、その後四十年にわたって建設会社の倉庫のような場所だった。

日系アメリカ人が正式に名誉回復された1980年代にもまだそのままだったが、1996年になってやっと、「日系人収容所」の事を歴史的に記憶しておかねばならないとして、歴史的な保存場所に指定された。

しかし、これだけの展示がなされるようになったのは、ごくごく最近の事だそうだ。ロサンゼルスに住むガイドさんが、その変化にびっくりされていた。

真珠湾攻撃の後、敵国から移民した日系人が周囲から憎悪されたのは理解できる↓

周囲の憎悪から「安全のために」に日系人を移住させる、というのも理由になった。ただし、財産は放棄させられ、数日のうちに手に持てるだけの荷物にまとめて、家族ごとにこんなタッグを付けさせられ↓

時には、家畜用のトラックにものせられ↓

軍警察が管理するこの場所へ連れてこられた↓ 彼ら自身が住む建物を建てるところから労働がはじまった。「夜、寝床に横になると、破れた屋根から空が見えた。星がおそろしいほどきれいだった。翌朝起きると、布団は砂まみれだった」

冒頭写真の監視塔はこんな姿だった↓

現在、博物館にはそのタッグのレプリカが置かれ、入館者はそれを手に取ることができる↓

**記録映画は当時の様子を分かりやすく解説してくれている※残念ながら2017年六月現在日本語版はなかった

収容所敷地は1.6㎞四方もあり、農場や教会・寺、学校もあった。子供たちは通常の授業をうけることができた。「でも、アメリカの歴史を学ぶとき、国民の権利や自由については、なかなか難しかったけれどね」と、元収容者がインタビューで語っていた↓下の写真はアメリカ史の授業をうけている収容所の子供たち↓

収容されてしばらくすると、日系人の怒りと先が見えない不安は重く淀んでいった。若者が軍警察に拘留されたのをきっかけに1942年の12月6日、管理する警察の前に群衆が集まる。なにかのきっかけで兵士が発砲。ジェームス・イトウとジム・カナガワの二人が死亡し、二十人以上が負傷した。※この顛末の詳細はよく分からない 真珠湾攻撃から一年が近づき、周辺住民の収容所設置に対する不満もあったと思われる↓

収容所内の慰霊塔は、1943年の8月に設置されている↓収容されていた間に百五十人ほどが亡くなった↓

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アメリカという国の素晴らしさは、それがずいぶん遅くなったにせよ、この強制収容の間違いを、大統領がはっきりみとめて和解し、この場所をこうして整備していること↓1988年レーガン大統領が「過ち」だったと公式に語る映像↓

「過ち」の様子は、収容されていた写真家・宮武東洋によって、多くの記録が残された↓彼はヨセミテを撮影した写真で有名なアンセル・アダムスの友人で、アダムスの撮影したポートレートもある↓

恐ろしいほど砂が舞う収容所の様子を、宮武東洋はとても美しく記録している↓この写真に写っている山は、今日も同じように少し雪をまとって美しかった↓

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