旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ザルツブルグ近くの塩鉱に入る2004,2005

2022-07-22 21:01:19 | オーストリア
トロッコが坑道入ると「グリュック・アウフ!」。
これはドイツ語圏鉱夫独特の挨拶(^.^)。英語で言うなら[on the good luck]幸運の上に。「安全に上に上がって来いよ」という意味。地底の労働はいつも命がけだ。

観光ツアーはかつての鉱夫と同じ服を着て、同じトロッコにまたがって坑内に入ってゆく。

ここはザルツブルグから南へ三十分ほどのハラインという町↓絵地図のいちばん下↓川沿いに鉱山の黄色いマークが見える↓

↑ドイツとの国境で↑後方の山々はすべてドイツ↑
15世紀半ばから20世紀までザルツブルグの経済的基盤だった塩鉱山。

だから鉱夫が実際に働いていた環境を見学できるツアーになっている。
受付を済ませると着替え
坑道入口まで降りる

かつて鉱夫が乗っていたトロッコにまたがり出発!

トロッコから降りないこと!立ち上がらないこと!
冒頭の「グリュックアウフ」看板はここで見えてくる。
400mほどで下車。ガイドさんの解説ととも歩く↓
↓塩の結晶が岩の中に筋になっている↓

塩自体ではなく岩を運び出すトロッコ

初期は岩塩をそのまま砕いて運び出していたが、現代では坑内に水を入れて溶かし、塩水にしてパイプで運び出すようになっていた。
何百年もかけて坑道は掘り進められ、ついに地下でドイツ国境を超えることになった↓それがここ↓

1829年にオーストリアとドイツ(当時はバイエルン王国)の間で「塩協定」が結ばれ、採掘権と交換で木材を提供することやドイツ側労働者の雇用がとりきめられた。この協定は1957年に更新されている。つまり、二十世紀にもまだ有効だったのである。

ツアー中いちばんの人気体験がこの滑り台↓

四十メートルもの長さがある。

いっしょになった学生たちはおおはしゃぎ↑数人いっしょの方がスピードが出ておもしろい

地底までびゅーん!


自然に止まるまで待ちましょう↑
この滑り台は遊びのためにあるわけではない。
当時、鉱夫たちの労働時間=賃金は、実際に地下で働いている時間に対して支払われていた。
何百年も掘り進むうちに坑道は何百メートルという奥になり、そこまで行くだけで相当な時間がかかってしまう。
この滑り台は少しでも労働現場へ行くのを早くするための工夫だったのだ。

現在の一時間半の観光では二カ所しか体験できないが、観光ツアーがはじまってすぐの1960年代には七本の滑り台を使って坑道4キロを歩いていたのだそうだ。※現在は1キロほど

塩鉱山の歴史を解説するコーナーが所々にある
塩水の池をボートで渡る

こんな地底から戻るにはどれだけ長い階段を登らなくてはいけないのか…という心配はご無用

↑最後はエスカレーターが設置されております(^^)

付属売店には↓

岩塩のランプや

いろいろなモノを混ぜた塩が用意されている。

ザルツブルグから行けば半日はかかるから通常の観光ではなかなか組み込まれないけれど、行けば必ず楽しめる・ザルツブルグの歴史もよく理解させてくれるツアーです。

音楽祭でゆっくり滞在するツアーが再開するようになったらまた訪れたいなぁ(^^)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ザルツブルグ音楽祭2004オープニングで

2022-07-17 14:45:41 | オーストリア
小澤 征爾の指揮をはじめて見た2004年7月25日
この年はドボルザーク没後百年だったので、オープニング曲は9番「新世界より」。

↑当日のプログラムに演目が書かれている↑
いっしょに演奏される二作品は全然知らなかった。

↑ホールの入口は着飾った欧米人でいっぱい
7月のザルツブルグは午後八時半でもまだ明るい↑

↑ザルツブルグ城が近くに見える↑

このツアーは現地のガイドさんが小松に「良い席をとってあげられるからお客さん連れておいでなさい(^.^)」とずっと言ってくださっていたから企画した↑ほんとに正面のちょうどよい距離の席だった。

一曲目、いきなり「新世界より」。
超有名曲は最後なのかと思っていたので意外だった。
耳慣れたメロディーが豊かな音でホールを満たす。
ロビーのカラヤン像

休憩の後の二曲はまったく知らないので楽しめるか心配した。
プログラムをひらくと、二十世紀初頭にニューヨークに住んだチャールズ・アイヴスという作曲家(左)↓英語の解説ページには「日曜作曲家」と紹介されていた↓

つまり、アイヴスは音楽で食べていけなかったということだ。
「夜のセントラルパーク」という曲
不気味な静けさから徐々に影が歩き出すような旋律が大きくなっていく。
主旋律を待ったがいつまでたっても口ずさめるようなメロディはでてこない。
それどころか不協和音がどんどん積み重なっていき、
激しさを増し、まるでフリージャズを聴いているよう。
クラシックが保守的な音楽だなんてことはない。

アイヴスはこの曲を作曲した1906年ごろに保険会社を設立して経済的に成功している。
語録にこんなことばがあると後日知った↓※ウィキペディアより
(If he has a nice wife and some nice children, how can he let the children starve on his disonances?) ⇒素敵な妻や子供があるのなら、夫の不協和音のために飢えさせるなんてありえなだろう?

オーケストラは「新世界より」を演奏していた時とはぜんぜん違う緊張感がある。
指揮も別格の没入ぶり。
「あぁ、小澤征爾はこっちの曲を聴かせたかったのか」と思った。

ドボルザークの「新世界より」のわずか十数年後に、
アメリカではここまで先進的な音楽が造り出されていたのである。
いわばアメリカという土地でなければ生み出せなかった新しい音楽。

もう一曲のエーリッヒ・ウォルフガング・コルンゴールドも当時のオーストリア帝国の出身だが、ナチス支配の時代に亡命し、その才能をブロードウェイ・ミュージカルなどエンタテイメントの世界で発揮した。それ故に戦後ヨーロッパのクラシック界からはじき出され、アメリカで死去している。

21時開演で夜中近くになったが、眠気など感じない。
ウィーンフィルの演奏力、それをじゅうぶんに使って表現する小澤征爾。
オーケストラを指揮する意味を深く理解させてもらった気がした。

ホールを出て、ライトアップした城を見ながらホテルまで歩いて帰った。

生涯忘れないだろうザルツブルグの夜である。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幕末の堺事件~死ねなかった十二人目

2022-07-02 09:58:11 | 国内
慶応4年(1868)2月15日、旧堺港で土佐藩士がフランス兵十一名を殺傷した事件があった。
↓現地を訪れると、ちいさな運河沿いに記念碑がたっている↓

埋め立てられていった海ははるか遠い。※このエリアを歩いたブログにリンク、元の場所にある最古の木造灯台もありました

★森鴎外が「堺事件」を短編小説にした全文。こちら「青空文庫」で読むことができます

鴎外が書いたすべてを信じることはできないが、堺の治安維持を担っていた土佐藩士が堺港に上陸しようとしたフランス兵士十一人を殺してしまったことは事実。

フランス側は土佐藩に実行者二十人(この数がどうして出てきたのかわからない)の死罪を求めた。土佐藩は申し出た者が二十九人だったので神前籤引きで二十人を選んだ。

事件の一週間後2月23日、堺でいちばん大きな妙國寺にて、フランスから代表立ち合いのもと、切腹がおこなわれることになった。

「土佐十一烈士の墓所」の案内↓

↑となりの「そてつ」の文字は↓信長が無理やり持ち出そうとしたソテツの木のこと↓

※堺市HPの解説にリンクします
寺の資料館には切腹した十一人の遺品が展示されていた。
辞世の句をしたためる姿を画いた掛け軸に目が留まった。
※「堺事件」資料本より
十二人画かれているのはなぜ?
よく見ると左下の一人だけが老齢である。
添えられた字を読んでいくと、この軸を奉納した土居八之助という切腹する筈だった二十名のうちの一人だとわかった。
生き残っていたのである。

十一人目の切腹が終ったあと、フランス側は同席していた五代友厚(外国事務局判事)に中止を申し入れ、あとの九名は死ぬことができなかった。※五代友厚のことを調べておられる方が書いておられました
森鴎外が小説で書いているようにフランス側が切腹の光景に臆したのではなく、フランス側の犠牲者と同じ十一名でよしとした結果だった。

生きのびることになった九名は終生この場所に関わり続けた。
掛け軸を画いた土居は他にも切腹の一人一人の顛末を絵入りで示した文を残している。
※堺市立図書館のデジタルアーカイブで見ることができます

特に、十二番目だった橋詰愛平は自らの墓を隣にしてくれるよう遺言している。

↑6月の雨の土曜日、妙國寺のガイドさんはわざわざ十一烈士の墓に案内してくださった↓

扉を開けてすぐ、墓石とたくさんの碑がひしめいていた。
十二番目だった橋詰の墓は↓

↑左端に一段さげておかれている↑

↑大正6年(1917)に設置されたフランス側の犠牲者を哀悼する「仏蘭西兵士の碑」↑写真右↑

この場所はしかし、実際に十一人を埋葬したにしては手狭に思える。

明治36年癸卯(1903)に谷干城が建立した「嗚呼忠烈」↑
彼がこのタイミングで、荒廃していた寺を近くの金光寺と統合して整備しなおしたようである。
その後も何度か整理されていったにちがいない。

切腹の後、十一人の遺体は予め用意されていた甕の中に入れて埋葬された。
※森鴎外の小説に土居がふざけてその中に入るシーンがでてくる
用意されていたが使われなかった九つの甕はその後長く宝珠院の床下に置かれていた。

日清、日露、から太平洋戦争に至る時代、兵士を送り出した家族が「生運様(いきうんさま)」としてお参りしていたそうである。
今、それらの甕がどこにいってしまたのか、わからない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする