旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

セジェスタからカルタゴの島モツィアへ

2014-09-26 13:42:54 | イタリア
パレルモからいちじかんちょっとで古代の町セジェスタへ到着。
この神殿はゲーテが訪れた時代からすでに有名で、半分土に埋もれてはいたもののこのかたちでこの場所にたち続けてきた。

建設された時代は、アテネのパルテノン神殿と同じころと言われている。つまり、神殿建築として完成されたプロポーションをもっているということだ。
柱はエンタシスだし、柱の間隔は角に近い方が狭くなっているということ


ただ、ここは完成していない神殿と言われていて、柱だけで内部の構造がつくられていない(いくつかの本では神殿の内部構造の跡が発見されたと書かれてモノもあったが)。

未完成であるとはっきり思わせるのは、この台座の部分の石に釣り上げたロープをかけるための突起がのこされているところ。


二千五百年近い年月の間にここが壊されなかったのは、未完成であったことが幸いしたと言われている。


セジェスタの都市遺跡は、この神殿が建っているところからはずいぶん上に位置している。現代でもバスで五分ほどのぼっていった山のうえになる。
ここにはノルマン王朝時代に城が築かれていたが、その後の時代には廃墟になっていた。しかし、そういう場所を選んで住む修道士はいたようで、この写真の小さな教会の跡は1442年の建造だと推定されている。

古代の円柱など、さまざまな時代の遺物を再利用しているので、これが発見されたときに時代を特定するのは慎重だったということ。
現場の説明によると、ノルマン時代にバジリカ様式で三つの後陣をもつもっと大きな教会が同じ場所に存在しており、たしかにその痕跡も見ることができる。

古代の舗装された道をあるいていくと、斜面を利用したギリシャ式の劇場がひろがっている。

今歩いてきた道もつい十年ほど前までは土に埋もれていた。劇場入り口の柱は、発掘して新しく露出した部分なので、風化していない。

指さしている部分から下がそう。

**
今日はシチリア島の西の端に突き出したエリチェの町へ泊る。
その前にその下に位置するモツィア島を訪れる。

フェニキア号とはぴったりの名前です。島に一軒だけある元ホイッタッカー氏の家・現財団が運営する博物館が見える。十五分ほどで島に着く。


この島はポエニ戦争でローマに滅ぼされたカルタゴの遺構を今も感じることができる、めずらしい場所である。


一周歩いても一時間かからない程度ひろさ。ここは紀元前8世紀ごろから町が存在し、紀元前4世紀ごろにはカルタゴの重要な交易の町だったと思われている。
が、それは紀元前379年にシラクーサのディオニシオスによって陥落。その後も古代には栄えていたようだが、中世には放棄されている。

島全体がぐるりと城壁でかこまれていた古代の創造復元図

北の門の上には獅子が二頭向い合せで建てられていたのではないかと、発見された遺物から推察されている。
その「二頭の獅子」と思われている石がこれ↓

この島を所有し、住んだ、イギリス人ホイタッカー氏のコレクションの中にある。

ここで最も重要な美術作品は「モツィアの青年像」と呼ばれる大理石の等身大より少し大きめのもの。
2011年にはじめて訪れた時とちがって、濃紺の背景に上手にライトアップがなされる展示に変わっていた。

※2011年の時の展示はこちらに載せています、ほかの展示物についてもお読みいただけます

今回のガイドさんの説明によると、この作品の顔の部分だけはこの島で彫られたものではないかという。身体の部分と様式が異なっているというだ。ううん、たしかにそういわれてみれば…。シチリア島内の都市国家戦争での勝者を刻んだという説もある。


浅い海に囲まれたこの島で、真水が湧きだしていた場所が神聖所とされてそのプールがつくらていたと推察される。これがその場所を復元したもの

発掘した時には、ただ港と思われていたのだが、近年溜まっていた海水をくみ出して研究したところ、たしかに水が湧きだしている事が確認された。
ここを海とつなげて港にしたのは、後からのの改変だったというわけだ。

★島を一周するボートツアーに乗った。
海側から見たその「港」がこれ↓

↑確かにそれらしくみえる。

ぐるりと囲んでいた城壁も掘り出されて復元されている


この島一周の船からでなくてはわからないのが、島の北部とシチリア島本土を結んでいた海の中の馬車道。現代でもこんなふうに使われていた時代があった↓

島の周辺は干潟になっていて、干潮時には干潟を囲っている島までも歩くことができるほど。

そこに舗装道路をひいて、馬車で物資を輸送したのだそうだ。
あ、このあたりその雰囲気がわかりますでしょうか↓


写真ではちょっとむずかしいが、肉眼だとはっきりと海の中に沈んだ道がわかる。

船を操縦するおやじさんが、ホイタッカーのラベルがついたマルサラ酒をふるまってくれた





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パレルモ大聖堂をもっと

2014-09-24 17:10:26 | イタリア

パレルモ大聖堂も、もともと12世紀建造物だが、18世紀にフェルディナンド・フーガによりバロック風のドームが建設され、内部も12世紀の面影はなくなってしまっている。2014年9月現在ファサードの一部が修復中入口上部に残された小さな聖母マリアのモザイクだけが12世紀の面影

パレルモの守護聖女ロザリアの礼拝堂。左右の壁には彼女の遺体がモンテ・ペルグリーノから運んでこられてペストの流行が止む奇跡がストゥッコで描かれている。


別料金をとられるが、この大聖堂のいちばんの見どころは神聖ローマ皇帝でありシチリア王だったフェデリーコ二世をはじめとする一族の石棺だろう。赤い大理石は古代に皇帝の棺に使われた材料。母方の祖父ルッジェーロ王がアレキサンドリアから手に入れていたが、使われずにおいてあったものだった。

ドイツからの観光客はかならずここを訪れる。花を手向ける人もある。
これだけの赤大理石の棺はたぶん古代に誰かのものだったのを再利用したのではないかと推察されている。支えに彫られているライオンの鼻がいやに低いのは、もとはなかったものを無理に彫り込んだからかと小松には思えた


面白いのは、20世紀にこの棺を開けてみると、なんと三体もの遺体が一緒に入れられていた事実。
この写真はその時のもの

右側に女性(赤く見えるのは彼女の衣服だろう)これはフェデリーコに最も愛されたと言われる愛人ビアンカ・ランチャのものだろうと言われている。真ん中上部に皇帝本人と思われる遺体。左側にもう一体男性の遺体があったのだが、これが誰かは分かっていない。

ここでフェデリーコの最初の妃、コスタンツァの石棺を見たいと思っていた。塩野さんの書かれた「フリードリッヒ二世の生涯」によると、再利用したローマ時代の棺に「あなたのフリードリッヒより」と刻まれているとあったから。

これが、「それ」

最後のところの「FEDERICE TVA」というのが「あなたのフリードリッヒ」という意味。

コスタンツァはフェデリーコの三人の妻たちの中で唯一正式に戴冠された女性。よって、この場所に墓所を得ているのである。この棺を開けた際には、なかからまさに本物の皇后の冠が発見された。それは、宝物館に展示されている。これが「それ」

一見冠らしくなく見えるかもしれないが、当時はこういった冠も多かった。書かれている資料によっては「ティアラ」と表現されたものもあった。

この宝物室の見どころは展示物だけではない。この大聖堂の前身だったモスクの名残と思われる装飾を見ることが出来るから。

覗き込むと、確かに鍾乳洞を模したイスラム文様だ

これはもしかしたら、ノルマン時代の聖堂からの装飾かもしれない。

歴代の司教が葬られている地下聖堂は18世紀の改築は及んでいない。ノルマン時代の雰囲気がそのままである



無料のエリアで、地元の人がいちばん訪れているのが、近年聖人に認定されたパレルモの司祭だったジョゼッペ・プリージの墓。

彼はパレルモのいちばん貧しい地区を担当し、マフィアの構成員になろうとしてしまう若者を説得し、勇気をもって反マフィアを実行した人物。最後にはその教会の前(自宅の前と書いたものもあった)で撃たれた。

マフィアは我々観光客に害を及ぼすことはほとんどないそうだが、地元の商店にはいわゆる「みかじめ料」を要求しているのだそうだ。商店の中でそれを拒否する宣言をしたところは、このシールを貼っているのだと、ガイドさんが教えてくれた。

「みかじめ料」は、イタリア語で「ピッツォ」と言う。このシールにはこう書かれている。
「ピッツォを払い続けている者は、尊厳を持たない者だ」
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モンレアーレ大聖堂をもっとゆっくり

2014-09-22 03:55:01 | イタリア

パレルモの南8キロ、カプト山の中腹・標高三百メートルほどに位置するモンレアーレ大聖堂。
シチリアを訪れるツアーなら必ず入っている場所だが、見学する時間がいつも足りなかった。
2014年9月、ついにこの「うらみ」を晴らす機会がやってきた。

アプスの外側構造が美しい


大聖堂横の入口から入場

いつものすばらしい黄金に輝く12世紀のモザイクが迎えてくれる

これらモザイクの話はどこにでも載せられているので、ここでは別の角度から紹介しよう。
一枚だけ、今回ガイドさんに指摘されて「なるほどすごい」と思った部分↓

ノアの方舟が嵐の後の海に浮かんでいるシーン。
水の中に揺らめく人間の身体を、身体そのものを描くことなく波線の太さと色とで表現しているのである。

この大聖堂を建設したグリエルモ二世(通称「善王」)の墓(奥)と、その父グリエルモ一世(通称「悪王」)の赤大理石の棺。

何故息子のものだけがルネサンススタイルになっているのか?
以前から不思議だったが、これはルネサンス時代のトーレ家の司教が改葬させたものだそうだ。
グリエルモの名前は一番上の左に刻まれていて目立つが、それと共に下から二行目からルドビコ・トーレ大司教の名前も刻まれているのがわかる。

この時、大聖堂の床の半分が新しいものにされ、ここにもトーレ家の紋章が刻まれたのだった


この大聖堂を献上したグリエルモ王がキリストから直接戴冠されているモザイク

こちらはよく知られているが、その逆サイドには同じくグリエルモ二世王が聖母マリアに大聖堂を献上する姿が描かれている。

よく見ると、同じ人物なのに年齢が描き分けられているのがおもしろい。
戴冠式を行った当時は13歳で確かに若い。大聖堂を献上した大人の姿は大人でひげが濃い。

正面祭壇に向かって左側後陣は別料金が必要になるのだが、二枚目のモザイクはここへ入ればよく見える。

この有料エリアはぐっと人が少なくなるので、床のコズマティ様式もよく見える。
中にこんなおもしろい動物がえがかれていた

どうやらこれはウサギで、ノルマン王家の元で働かせてもらっていたアラブ人職人が、感謝をあらわすために彼ら自身をライオンに尽くすウサギにたとえて描きこんだのだと言われている。

★フランスの聖王ルイ9世の棺もある

彼は二度目の第八回十字軍遠征の途上北アフリカのチュニスで死亡し、遺体は当時弟のアンジュー家シャルルが治めていたこのモンレアーレに持ってこられた。この棺には心臓のみが残され、他のがフランスへ送られたと、ガイドさんのご説明。
調べてみると、その後もルイ9世の遺体はボローニャやリオンを経由して旅をつづけ、パリの北にあるサン・ドニ大聖堂に葬られていた。
しかし…フランス革命で立派な棺は壊し溶かされ、王の遺体も消えてしまったそうな。
現在はただ一本の指だけがサン・ドニ大聖堂に安置されているとか。

**
ノルマン:ビザンチン様式でいっぱいのように見えるこの大聖堂だが、右奥の聖具室に通じる礼拝堂いったいには壮麗なマルモレスキと呼ばれる色大理石装飾で飾られている。

礼拝堂中央のアブラハムからはじまるキリストの家系図、背景の青はラピスラズリ。

まったく時代の違うこの様式は、先述のグリエルモ二世の棺よりもさらに後の17世紀に為された

色石で風景を描写

フィレンツェあたりにいまも工房がある

この礼拝堂を主導したのはスペインの名門サラマンカ大学とヴァジャドリドで学んだジョヴァンニ・ロアーノという人物

彼自身がこの装飾の只中に登場している。

床にもこの時代らしいおもしろい絵が大理石で描かれている

旧約聖書の有名な逸話「クジラにのみこまれるヨナ」。クジラってこんな顔?

回廊

一角には前出のグリエルモ二世とイギリスから来た妃ジョヴァンナ(英語名ジョーン)とが刻まれ、間にキリストをあらわす羊ちゃんが出現。


***
大聖堂外側の一角には中世にこの大聖堂をつくりあげた職人たちが住んだ一角が残されている。
この路地は「チャンブラ」と呼ばれるが、これはフランス語で部屋を意味する「シャンブル」英語の「チャンバー」からきているそうな
路地が入り組み時に家の下を抜けていく

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ジーザ宮殿~12世紀シチリア、ノルマン王朝の残照

2014-09-18 10:32:28 | イタリア
シチリアの首都パレルモを観光する多くのツアーでは訪れないが、ここを見れば、12世紀ノルマン王朝がイスラム文化にどっぷりつかっていた様子がよく分かる。

2014年9月、はじめて訪れることができた。
ごみごみした市街が突然途切れて四角いシルエットが姿をあらわす。

「え、こんなのが残っていたのか」と思わせる、いかにも武骨なノルマン様式。
当時の本宮であったノルマン宮殿が後代に改築増築を重ねて元の姿はほぼとどめていないのにくらべ、ここジーザ宮殿はびっくりするほど「当時のまま」に見えた。

前庭の部分はアルハンブラ宮殿ばりの池が配置されている。

これはしかしつい最近の修復で、当時の雰囲気を再現するスタイルとして出現させたものだった。
17世紀のスペイン貴族たちが所有していた時代の庭に果たしてこんな水路はあったのか?

★1166年ごろ、初代シチリア王となったルッジェール二世が建築をはじめた当時、この周辺は広大な城外の狩場だった。

入場口がどこかもよくわからない・・・
あ、子供たちが遊んでいるここがそうだったのか


子供たち、地元のおじさんたちがたむろしている宮殿のすぐ横の教会がたまたま開いていた。

一見、どこにでもあるルネサンスからバロックのファサードだけれど、すぐにはっと気づいた。
左側の部分は、明らかにアラブ・ノルマン様式の赤い丸屋根が載せられている。
明らからにサン・カタルド教会やサン・ジョバンニ・エレミティ教会と同じ建築様式である。
つまり同じ12世紀に建築されたと考えて間違いないだろう。
現在の正面入り口は、数百年後にあとから増築された部分なのだ。


こういう下町の小さな教会というのはずっと開けているわけではないから、実に幸い。入らない手はない。
入口をはいってすぐのところは↓こんな感じ

だが、さっきの丸いドームの下の部分に入って天井を見上げると、
「おお!」アラブ風のスタラクタイト様式の天井。
まるでモスクの天井ではないか。

色はほぼなくなってしまっているが、
隣接するジーザ宮殿はノルマン王家の夏の宮殿だったから、
その付属礼拝堂という位置づけに違いない。
キリスト教徒の礼拝堂の天井にこのイスラム教の美術様式。
ノルマン王家の「美しければよし」とする姿勢がみえる。
このシンプルな壁に、かつてはどんな装飾がされていたのか

おもしろかったのは、12世紀当時は教会の入口が現在と全く逆だったのがわかる構造。前出の写真をよく見てもらえれば分かるが、丸いドームが乗っている下の部分は、アプス=教会後陣の外側構造に違いない。方位磁石で確認すると真東を向いていた。教会建築の基本を履行している。

***
いよいよ宮殿へ入場

まるで砦のようながっしりした簡素な造りはノルマン一族の好みだったようだ。


近くから見ると、かつてはこの壁もこんなにシンプルではなかったのではないかと思わせる。
屋根の上の建物は12世紀にはなく、雨水をとりこむための構造がある、屋上庭園のような場所だったようだ。

★「ジーザ」という名前は、アラビア語の「アジーズ」に由来する。
この宮殿の上部は現在銃眼のギザギザになっているが、かつてはまっすぐで、そこにアラビア語で「ルッジェーロ王がこのアジーズな(=素晴らしい)宮殿を建てた」と書かれていた。銃眼をつくるために半分削り取られた後、「アジーズ」と読める部分が残っていて、宮殿そのものの通称となったのである。


ガイドのマニュエラさんは、「まず、ここを見た方がいいわよ」と、順路の最後にくる正面中央の大広間へ案内してくれた。

★なんと、アルハンブラ宮殿の一室を思わせる雰囲気だ。
そこに、ノルマン宮殿とそっくりの黄金が輝いている。



スペイン貴族時代に描かれたフレスコ画もある。
この絵はとても変わっていて、よく見るとギリシャの神々と共に悪魔がたくさん顔を出している。

何故こんなデザインなのかは不明だが、この絵の悪魔は3月25日になると踊り出して何匹いるのか数えられなくなってしまうそうな。
パレルモの人はこの伝説にちなんで、動いていて数えられないものを「ジーザの悪魔のように数えられない」という表現をするのだとか。

何百年にもわたる装飾それぞれの一部一部が残されて共存している空間だ。

モンレアーレのモザイク修復にも携わっていたという方が、まさに作業中。

この後ろの壁に注目。壁から流れてきた水が緩い流れで広い庭の池にゆっくり流れ込み、暑さをやわらげるシステム。
これとほとんど同じものをインドのジャイプールで見かけたのを思い出した。

暑い夏を快適に過ごすために、この宮殿は様々な工夫をほどこしている。上階から見るとよくわかるがかつては海からの風を遮るものはない場所だった。その海風を建物の上階まで誘導する穴が壁に沿ってあけられている。
雨の水を溜めるタンクがあり※この写真はかつてのその場所にあったという噴水スペイン貴族の改築により、そのオープンエアの構造は蓋をされた。
ギリシャ神殿からとってこられたと思われる柱この柱の位置も現在の場所ではなかった。
柱の下部にあるおもしろい図像

その水を建物内部に流して涼をとる管が床下に埋められている床下は軽く仕上げるためか空洞のテラコッタが敷き詰められていた

12世紀ごろノルマン王朝時代がいかに多様な文化が共存した時代だったのか理解させてくれる展示がされている。
これは多分エレミティ教会(かつてはモスク、現在は廃墟)の墓所から発掘された墓碑。

上がヘブライ語、右がギリシャ語、左がラテン語、下がアラビア語。

宗教・言語・文字、これらすべてに寛容だったノルマン王朝の支配した12世紀シチリアは、中央ヨーロッパで言われるような「暗黒の中世」などではなかったのではないか。それは、現代の我々でも実践することの難しい、「多様さを認め合う社会」だったように見えてくる。

このジーザ宮殿はその象徴なのである。










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パリ近郊プロヴァンに寄ってからシチリアへ向かう

2014-09-15 15:25:24 | フランス
羽田空港を22時15分に出発した飛行機は、パリの空港に朝4時に到着。シチリアへの飛行機は夕方4時なので、それまでの時間に世界遺産にも指定されたプロヴァン(南仏のプロヴァンスとは全く別の街)を訪れることにした。
ド・ゴール空港から一時間十五分、朝6時少しまえにプロヴァンの城門に到着したが…まだ真っ暗
この時期、太陽が昇るまでにはまだ一時間はある。市庁舎前商店街も日曜日の朝だからまだ眠っている。ただ、パン屋さんが一軒すでに忙しく働いていたのがフランスらしい。

旧市街へ坂を上っていき、広場についたころに少し空が蒼くなってきた一軒のホテルで朝食をおねがいする。しばらく休憩おいしいパンとカフェオレでゆっくりして出てくると、前庭にバラの花そうだ、この町は、13世紀に十字軍に行ったご領主・チボー四世がダマスカスからバラの花をもたらしたのだった。街の見学コースにも「薔薇コース」などと名付けられたルートがある。
★チボー四世が十字軍としてエルサレムへ行ったのは1239年。シチリア王で神聖ローマ皇帝だったフリードリッヒ二世がすでにキリスト教徒の領土としていたので、ほとんど戦う必要のなかった遠征だった。結果、聖地では城を修復した他は詩作をしてすごしていたそうな。

さっきの広場もすっかり朝ゆっくり坂を下りてゆくと「薔薇園」の看板朝九時ではまだオープンはしていないだろうけれど足を向ける。途中小さな川を渡る地図で見て川があるとは思っていたが、こんな小川だったのか。
薔薇園は思ったよりおおきいきっと、薔薇の時期はきれいだろう。訪れるツアー、企画してみようかしらん。

美しい城壁沿いの道に出た。背中から照らす朝陽が暖かい。

かつては全周5キロもあったという城壁は、今は半分も残っていない。が、修復されていない部分の方が美しく感じられる。

城壁沿いにしばらく歩くと、安全に上をあるける場所があった

真っ暗な時に通ったサン・ジャン門を出てインフォメーションに行く。日本語のよくできた案内用紙がある。ここでプロヴァン・パスという市内の見学に便利なチケットを購入。同時に施療院地下の見学が10:30に予約出来た。

旧市街の中心、「勅令の十字架」があるシャテル広場へ戻り
十時にオープンするセザールの塔へ登りに行こう十時ちょうどにオープン途中でこんな表示も
細い石の階段をのぼり鳩のフンでいっぱいの鐘突きやぐらにでると町がぐるりと一望できる。


見下ろすと、ここが城壁とつながった物見やぐらだったことがはっきりわかる痕跡があった。

途中にこんな絵物語展示が展開される部屋がある
プロヴァンでどうしても必ず訪れるべき場所は、やはりこの塔だろう。


●施療院(オテル・デュー)と、その地下のガイドツアーへ
一回に二十五名限定の地下探訪。人気があるようで、満員御礼。観光案内所で予約してなければ入れないところだった。事前に調べておいたデータによると、この町の土は羊毛を漂泊するのに使えるテロワール・ドゥ・フレールと呼ばれる石鹸の様な働きをする性質があったそうで、採掘されていたようだ。※今回ガイドしてくれた方のカタコト英語の説明では、まったくそのような説明にはなっていなかった。「モルタルのように使うチョーク土だ」というのです。どちらが正しいのか、首をかしげております。

ガイドさんといっしょでなければ、迷ってしまう迷路

★下の写真の左右、このノミ跡のちがいは削られた時代の違いをあらわしている。
左は中世から土を取り出すために掘っていた場所。
右は、施療院の地下から入っていけるように20世紀も後半になってから削った場所。
それまではばらばらになっていたいくつもの穴をつなげることによって、この地下ツアーも可能になったのだそうだ。

かつての穴への入口は、それぞれの家の中にあって、外からはうかがい知れない場所だった。それぞれの家の財産だったようだ。

17世紀頃にはすでに興味本位で見学する場所となっていたようで、その当時の見学者がサインを残している

ざっと四十分ほどで地上へ戻ると、入口とは全然違う場所だった。地下を歩くと方向感覚が無くなります


●「プロヴァンとプロヴァン人博物館」をちょっとだけ覗く。これはナポレオンが1811年にチュイルリー宮殿(焼失した後再建されていないルーブルの一角)で着用していたというマスク
**
シャテル広場へ戻り、昼食にしよう。
広場に面した「職人の家」のレストランにて

こういうハムやパテ類が断然おいしいフランス中部。


***
13時にプロヴァンを出発。空港へ戻る。

パレルモへの唯一の直行便を運航するAirOneへチェックイン。いろいろあったんだけれど、それはここでは省略(笑)
荷物検査で靴を脱がされる人もあるから、こんなのが用意されております

パレルモまで二時間と少しのフライト。
ふと下をみると、エルバ島がみえていた
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