旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

これから「ガウディを貼り付ける」の?

2012-02-21 08:28:12 | スペイン
バルセロナ、ガウディが建築に携わった「サグラダ・ファミリア=聖家族教会」は、もはや建築現場ではない。2010年11月にローマ法王が献堂式を行い、正式に教会となった。それにあわせて内部は充分美しく完成しつつある。
ステンドグラスの冬の晴れた光を美し映し出す。
ただし、床はまだ正式に完成されてはいない。献堂式に間に合わせて応急で仕上げたままのところも目立つ。

二十年以上前、最初に訪れた時にはまだ屋根もかかっておらず「完成にはあと二百年」と言われていた。それが今では2026年のガウディ歿後百年に間に合う?という話もでている。
現在、全体の様子はこのようになっている。
写真左側「受難のファサード」。右側が教会の正面入口になっていく部分である。ガウディが携わっていた当時とは違い、コンクリートで造成されていっているのがわかる。説明していただいたガイドさん曰く「ここにこれからガウディを貼り付けていくのですね」との事。
それで外観は「ガウディになる」かもしれないが、それで良いのだろうか?石積みとコンクリート建築の違いは半世紀すぎていけばはっきり現れるだろう。コンクリートの耐用年数は一般に五、六十年と言われているのだから。この「安易な」完成を急ぐ方法は現場でも賛否分かれている。「神様はお急ぎにならない」という考え方の方が説得力があると思えるのだが。

ユネスコの「世界遺産」に登録されていると言われるが、正確にはこの建物全体ではない。ユネスコのリストには「Gaudí’s work on the Nativity façade and Crypt of La Sagrada Familia」と記載されている。つまり、「ガウディの生誕のファサードと地下聖堂」が世界遺産指定の対象とされたものとなっている。この部分だ。
逆の言い方をすると、だから他の部分にこういうコンクリート造成が認められているという事なのか。
ガウディ制作の「生誕のファサード」の逆には、現代彫刻家スビラックスが制作した「受難のファサード」がある。
ガウディが生前にイメージしていたものがデッサンで残っている。
スビラックス作品も素晴らしいと思うが、ガウディの持っている「怪しさ」というようなものは、ない。
この「怪しさ」、ガイドさん曰く新しい日本語では「キモかわいい」とでも表現される雰囲気こそが、ガウディの持ち味に違いない。二つの作品を比べるとそれが理解できるだろう。

聖家族教会の完成予想モデル。これから中央にそびえる巨大な「キリストの塔」が建設されてゆく。
自分は生きてこの完成をみられるのだろうか?いや、別にそれは見なくても良いと思う。全てを見たいと思うのは人間の限りない欲望のひとつにすぎないのだから。
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晴れた日にはアフリカが見える

2012-02-18 13:20:18 | スペイン
コスタ・デル・ソルからロンダへ行くには、海岸から急激に標高千メートルを超える峠に向かう。その途中振り返ると、晴れた日にはアフリカが見えるのである。


右側の白い塊がヨーロッパ川から海に突き出したジブラルタル。ヨーロッパに残る唯一の植民地で1713年に英国領となった。スペイン政府が返還を求めているが、住民投票では圧倒的多数が英国に残る事を望んでいる。

一方、左の黒く見えるのがアフリカから海に突き出したセウタの岩塊。
セウタはモロッコでなくスペイン領。こちらをモロッコに譲らずにジブラルタル返還を求めているスペインであります。
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帰ってきたライオン

2012-02-17 15:57:14 | スペイン
07:15バルセロナ発の飛行機でグラナダへ。機内でちょうど日が昇ってきた。

バルセロナは昨夜雨が降ったけれど、ここグラナダの朝は快晴。きりっと寒い冬の朝。なんせ標高が七百メートルほどもあるのだから、南に飛んできたといっても海岸の町バルセロナとはだいぶちがうのだ。空港からサンタ・フェ、グラナダ市街方向へ、そこから丘の上のアルハンブラ宮殿へ向かう。

アルハンブラ本宮はまだ閉まっている時間なので先に離宮庭園ヘネラリーフェを歩く。シーズンになると人人人でごった返す場所だが、やはり人が少ないと往時の雰囲気が伝わってくる。もっともイスラム時代にこんな噴水が上がっていたかは分らないのだけれど。

テラス状の歩道からはアルハンブラ本宮の城壁とフランチェスコ修道院・教会の塔が見える。あの修道院は国営ホテルチェーン・パラドールの中でも一番人気となっているそうな。イサベラ女王の最初の墓もあそこにあった。

本宮へ入る。
風もなく、水面に映る形が美しい。

本宮の中でも最も人気がある「ライオンの中庭」にライオン噴水が帰ってきていた。昨年来た時にはまだ修復中で、噴水ごと撤去しての修復研究作業。修復が終わったライオンから別室で展示したりしていたのだ。まだ周囲はこんな状態だけれど、とにかくもライオンが帰ってきたことで、この中はやっと落ち着いた。

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東山の夕焼け

2012-02-13 08:32:11 | 国内
京都東山にある霊山観音。ここには学生時代よく来ていた。
歩いて、時にはバイクでやってきては大きな観音さんの前で京都の町を見渡していたものだった。
しかし、当時は明治維新の歴史などにはほとんど興味がなかったので、ここが維新の功労者達を敵味方の区別なく祀っている場所であるということなどちっとも知らなかった。
ほとんど山の斜面いっぱいに各出身地毎に墓や記念碑が並んでいる。

この場所に維新の博物館がある。※写真上
小規模だが見応えがある。
入り口近くには榎本武明や土方歳三が函館戦争にまでもって行った「東照大権現」と書かれた巨大なのぼり。
「坂本龍馬を切った刀」というのものまで展示されていた。

入場したのが閉館三十分前だったのであまりゆっくり見ても居られなかったのだけれど、かえって空いている館内を気ままに見て回ることができた。

品々もおもしろいが、往時のリーダー達の写真に興味をひかれた。
名前はよく知られた人々でも顔がすぐうかぶわけではない。
松平容保の若さに目が留まった。
長州をはじめとするいわゆる志士達が跋扈する京都の治安を回復するために、屈強な会津の武士を引き連れて京都守護職についたひとである。1835年生まれ、18歳で藩主となり徳川家にまっすぐな忠誠を捧げ(※後に孝明天皇直筆のご宸翰(手紙)もあったと判明するが)、京都へ来た時には28歳でしかなかった。

その若さと直情が、会津藩の運命を悲劇に導いていったのかもしれない、そんな風に思わせる、若すぎる肖像写真であった。

博物館の閉館と共に出ると、二年坂からの京都の夕焼けが心に染みた。

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タクツァン僧院Tiger's nestへの登山

2012-02-01 11:57:03 | ブータン
ブータンを代表する景観は、間違いなくこのタクツァン僧院。英語で言うところの「虎の巣」に違いない。

最も寒いという一月後半に登った。
パロ市内から三十分程度車で走って登り口。

ゴールの僧院がはるか上に見えて、「あそこまで行くのかぁ~」と気合が入る?戦意喪失?
標高はすでに二千メートルを超えているが、緯度が南なのでまだまだ森林の中を歩く。このあたりでは3,500mぐらいが森林限界線になるのだそうだ。ヨーロッパのアルプスでは2000mになればもう樹木がなくなって視界がひらけるのだが、ブータンでは全然違う。

水車が自動でマニ車をまわしている。このあたりの登山道は2009年に新しく整備された。

整備されてもこんな感じ。
雨でもふったらかなりどろどろになるだろう。

第一展望台まで一時間ほど。
その少し手前で不意にタクツァン僧院が見えてきた。さっき下から見たのとはちがう角度だ。
お茶を出してもらって、いっぷく。
帰路はここまでもどって昼食の予定。

ここからまだ少し登って、僧院を真横から見る位置に至り、そこから第二展望台となる。道はこのようなかんじ。

途中に小さな祠があり、「前大僧正が1926年寅年にこの岩穴で生まれた」と書かれていた。シンプルな木一本のはしごがかかっていて中を覗くと、たしかにそこは洞窟になっていた。
第二展望台、ぐっと迫力を増して僧院がせまってくる。数年前まで、外国人はここから先は立ち入り禁止だったそうな。


今は、先の道へ。三百段の階段を下りていく。
僧院を隔てる谷の一番下まで行くと大きな雪渓がのこっていた。

今度は階段を上って僧院入口へ至る。
カバンとカメラはここへ預ける。
密かに持ち込んで写真を撮ろうとする輩は居るだろうから、このあとしっかりボディチェックを受け、内部に入ることができた。

★内部は完全撮影禁止。四つの僧院からなっており、それぞれの堂内へ入るとき靴を脱ぐ。石の床がそれはそれは冷たい。なかには足に手袋履かせてしまったかたもあった(笑)
最初の二つの僧院は上下になっており、下の部分にはブータンに仏教を伝えたというグル・リンポチェが十四日間にわたり篭ったという岩穴がある。
上階の堂内の床に穴があいていて、そこを上から覗くことが出来る。おもうより深く真っ暗な穴だった。

グル・リンポチェは何故こんなところへ虎に乗って舞い降りたのか? 疑問に思っていたのだが、もともとここに居たいわば「悪鬼」を退治するためだったそうな。今、その「悪鬼」は改心して地元の守り神になっているとされる。※このあたりの解説、ただガイドさんのトークによります。どなたかより詳しい内容が分かればご教授ください。

**
帰路は晴れて気持ち良い太陽がでてきた。ダウンのコートはあつくなり、だんだんと脱ぐ、最後はシャツ一枚になって山の風に気持ちよく吹かれながら降りてゆく。
地元ブータンのハネムーナーがたくさんあがってくる。
写真ではわかりにくいけれど、彼女はなんとハイヒールでここまで登ってきていた! さすがに痛そうだったけれど、我々の足とは違うのですね。

馬を借りてのぼってくる欧米人とすれ違う。
しかし、この道では馬に乗って上がるのもかなり怖いだろう。

第一展望台までもどり、昼食昼食後また一時間以上かけて車の待つ場所まで下山。個人差はあるだろうが、最低でも片道二時間半というところでありましょう。一般のツアーにぽんと入れて、「誰でもどうぞ」というわけにはいかない訪問場所であります。
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