旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

カプリの一日

2016-03-31 10:51:46 | イタリア

朝九時にカプリの町中心にあるホテルを出た。

ミニバスですぐにアナカプリの街経由「青の洞窟」を目指す。
カプリとアナカプリの街をつなぐ唯一の道から見下ろすマリナ・グランデとカプリの町



「青の洞窟」の「営業」がはじまるちょうどのタイミングで、洞窟の上の駐車場に到着。
ボートもまだ用意されたばかり

ナポリやソレントからのお客がマリナ・グランデからの船でやってくる前ならば、
待たされることもない

ボート漕ぎにいつもの倍の2ユーロあげて、洞窟の中で二周してもらった。

待ち時間ゼロで快適に洞窟を見学して

今度は、ソラーロ山へのチェアリフトに乗りに行く。




頂上から明日行くソレント半島を眺める

アナカプリの街を歩こう。
19世紀から世界中の富豪が建てた邸宅がのこされている。
この赤い家もそのひとつ。

↑南北戦争の後のアメリカ人のもの

サン・ミケーレ教会の色タイルの床
サンタ・ソフィア教会

**
カプリの町へもどって昼食



 


ホテルでひと休みして、トラガラ岬まで散歩に出よう

途中のレモン・グラニータ屋さんがスズメのミケーレに餌をやりながら歌をうたっていた


これはカプリのこの小島にだけいる青いトカゲが住む島

トラガラホテルから先の道を一周しようとすると、
かなり急な階段が待ち受けている。
以前小松が歩いた時たいへんだった記憶があったので「ここから先はご希望の方だけご一緒に」とした。
途中に見られるクルツィオ・マラパルテの家だった建物↓

↑左翼系作家らしく、屋上の弓形は草刈鎌をイメージしているのだとか。
一般公開はされていない。

階段は下って下って、上って上って

途中にローマ時代からの神殿の跡

キリスト教時代には教会だった改修の跡もよくわかる。

上りきったあたりで、少し下ると「ナチュラル・アーチ」への道がある

カプリの町のはずれに到着。
下り坂をカプリへもどる。

カプリの町もここまでくればずいぶん観光客も少なくなりのんびりすごすことができる。 
今日はよく歩きました(^^♪

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ナポリ到着、スパッカナポリ地下を見学してカプリへ

2016-03-30 14:11:59 | イタリア

アリタリア航空を乗り継いでナポリへ着くとすでに深夜に近い。一泊だけでも印象的な滞在になるようにと考えて、「卵城」が見えるホテルを選んだ。翌朝、明けゆくベランダの外にこんな風景が見えた



卵城のある岩場には古代から邸宅があり、中世にはノルマン時代の城もあった。伝説ではヴェルギリウスが「魔法の卵」をこの城のどこかに隠していて、それが割れる時城も壊れるといわれる。


朝食の場所からも


**


街を歩きはじめる。ナポリはバスから眺めているだけではただ汚れて混沌とした街でしかないが、正しい解説とともに歩けば実におもしろい 午後16時半にカプリ行の船に乗るまでの時間だけれど、少人数でなければ見られない場所へお連れしましょう(^・^)


●古代の地下水道


 ギリシャ、ローマ人たちが水を供給するために建設した地下水路の跡。三十メートルほど降り、各自ロウソクを持ってガイドさんと共に歩くかつての水路なので、人一人がやっと通れる程度の幅しかない しかし、高さ(深さ)はかなりのもので、水量が多い時にも溢れないようになっている。一部には未だ水が流れている


古代、この貯水槽の上にあった邸宅では、床に開けた穴からアンフォラ(取っ手のあるテラコッタの甕)を下して水を利用していた。



古代には大活躍した貯水槽だが、中世・近代にはゴミ溜めになってしまい。何百年にもわたるゴミでいっぱいだった。現代でもその名残はみられる。この部屋の下半分はコンクリートで固められたゴミ⇒ 地下にはまだまだあるのだそうだ。 その存在は知られていたが、第二次大戦時に防空壕として再利用されるまで誰も入れないような状態であった。今は地下でも人工的に野菜が育てられるかの実験も行われている⇒、ピザの生地を次発酵させるのにもよいそうな。


::前回来た時には見られなかった公開場所があった。一度地下を出て、三十メートルほど路地を誘導され、このなんてことはない住宅の扉を入ると・・・ 地下への隠し階段があった↓



タバコ販売が禁止されていた時代に密売所としてつかわれていた、古代の「劇場跡」。階段を降りるとたしかに古代の石積みがあらわれる←この、ひし形をした石積みとレンガの組み合わせが特徴である。この空間、この家に住む人には遺跡ではなく家の部屋のひとつにすぎなかっただろう。 地上からの光が入る窓⇒ここを出ると・・・よくあるナポリの下町路地だった。下の写真で、一番下に写っている扉から出てきたのです。↓



**


★★★ナポリ考古学博物館


こういう現代アートとの競演、フランスのヴェルサイユなど他でもみたけれど・・・あまり好きではありません。何が言いたいのか伝わりにくいし、多くの一度しか来館しないだろう人たちがこれを見たいと思ってはいないから。


●「休息するヘラクレス」は、何度見てもスゴイ紀元前四世紀頃にリュシッポスという彫刻家がブロンズで制作したものを、三百年後にグリコンという彫刻家が大理石でコピーしたと伝わる。オリジナルのブロンズは失われてしまってみることが出来ないが、いったいどんなものだったのだろう。ローマ時代のコピーがほかにも残されているから、オリジナルのブロンズ像はよほどすばらしいものだったのだろう。 このふくらはぎは最初に発掘されたときには見つからず、別のレプリカで修復されていたが、その後にオリジナルが見つかった。この話、もう一回書くようにします。⇒


●「ディルカの懲罰」は巨大な大理石を彫りぬいたもの。噴水として使われていたとわかった。→主題をひと言で解説するのは難しいが、技術をみているだけで圧倒される。最初16世紀はじめに発見されたとき、ミケランジェロが修復したのだそうだが、いったいどの部分がそれにあたるのだろう。あまりにも完璧に保存されすぎている。 


●「ダイバーの墓」と題されたフレスコ画↓



今回の旅ではじめて訪れるパエストゥムから出土した。飛び込む行為はあの世へ行くことをあらわしているのだそうだ。パエストゥム、楽しみです。


●「ファルネーゼのアトラス」は紀元前二世紀の作品。現存する天球儀の最古のものなのだそうだ。彫刻としての迫力も「ヘラクレス」に負けない それにしてもローマのファルネーゼ宮殿に飾られていたときにはどんなだっただろう。


***再びバスに乗ってカステル・ヌオーヴォ前で降りる


 19世紀につくられたガレリアはミラノにあるものを思い出させる→ 


昼食はピッツァ・マルゲリータ発祥のお店へ 前菜にブルスケッタ四種 ピッツァは老舗の名に恥じないものでした


****ベスビオス火山が美しい午後水中翼船でカプリ島へ入る。


マリナ・グランデからケーブルカーでカプリの町へ上る ウンベルト広場近くのホテルへチェックインしてもまだまだ明るい午後六時すぎ。島の逆側マリナ・ピッコラへ降りる道→ アウグストス公園から見はらすファラリオーニ岩。明日の午後天気ならあの岩が近くに見える散歩道へご案内したいなぁ→ 再び戻ったウンベルト広場から、イスキア島の頭だけが雲の上に出ていた→ 夕食は、ずいぶん昔に何度か行ったお店にて。内装ががらっとかわっていたけれど、美味しさはかわらず!このえび最高 トマトとモッツァレッラももちろん

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コロニア・グエル礼拝堂

2016-03-21 11:45:04 | スペイン
ガウディらしさがもっとも爆発した空間だと、個人的におもっている。


パトロンだったグエル氏が彼の工場の労働者の村を計画し、1890年にはガウディに発注されていたその村の教会。
礼拝堂の地下部分が完成している↑ガウディはデザインと下準備に長い時間をかけ、実際に建設がはじまったのは1908年。

当初建てる予定だった塔などはひとつも姿をあらわしていない。

完成予定のシルエット図がこれ↑上の写真と見比べていただくと、その雰囲気が伝わりやすいだろう。
入口ヴォールトの装飾

そして、他のガウディ作品ではあまり見た事がない迫力の自然石の柱↓


上の写真左側に写っている、こちらもど迫力の自然石を組み合わせた入口は、まるでギリシャの神殿のようである。あとでふたたび登場するので記憶しておいていただきたい。


内部を支える柱も迫力の自然石の角柱


泉水盤は自然の巨大な貝

ステンドグラスの窓が色彩豊かな蝶のよう

この窓は手動でぱたぱた開け閉めできる

ガウディが展開する空間に、唯一守り神の様に立つ聖母マリヤ像

これは、晩年のガウディが毎日通っていた、バルセロナ旧市街にある聖フィリッポ・ネリ教会から寄贈されたものなのだそうだ。


聖家族教会からのけっして近くはない道のりを、ガウディは毎日歩いて通っていた。この聖母に祈っていたのか。1926年6月7日、市電にひかれたのはこの教会へ行く途中だった。教会の司祭がガウディが来ないのをいぶかったのが、身元不明だったガウディがみつかるきっかけになったのだそうだ。


祭壇の後ろにもあがることができる

この「地下」聖堂は、1914年に工事が中断した時には、いま見るよりももっと未完成だっただろうことが、コンクリート補修された部分から感じられる。まだまだ未完成。それでも、ガウディ作品の中でも「最高傑作」と呼ぶひとがあるほど、他にみることのできない空間である。


***横をまわって

未完の上階へむかう

窓ガラスの保護につかわれている鉄の細工をよく見てみると・・・


これは、なんと、繊維工場でつかわれている針である。
ガウディらしいアイデアと、そこに祈りにやってくる人々への気の効いた配慮である。


本堂になるはずだった、現在屋上の様に見える場所はこんなふうになっている。

黒い丸い表示は地下の柱の位置を示している。


鳥居の様にたてられた入口の石が古代ギリシャ遺跡の様な迫力を感じさせる。ひと目見て、ギリシャのミケーネ遺跡入口のまぐさ石を思い出した。 これは前出の写真に見られる、下の階の礼拝堂入口に使われているのと同じスタイルである。ガウディがどのような手順で空間を形成していったのかを、少し伺う事ができる。


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コロニア・グエル

2016-03-21 02:30:22 | スペイン

バルセロナ終日の自由日。希望者六名でミニバスを借り、通常の観光ではなかなか訪れないガウディ作品を見に行く事にした。

市内中心部のホテルから三十分も走らずに、ちょっとした田舎風情のあるサンタ・コロマ・デ・セルヴェジョ村に到着。小さな車なのでバス駐車場ではなく、村の広場近くに降りられる。

月曜の午前中、ひっそりと静かだが人々の生活が感じられる村。どこにでもありそうだが、建物は百年前にグエル氏の注文によりガウディの弟子たちが手掛けたものがたくさん残されている。

上の写真左の建物は1892年にジョアン・ルビオの設計した「オルダル邸」。監督官か少し地位のある人の家だったようだ。別の角度から見ると⇒ 特に名前が付されていなくても、なかなか面白く・美しくつくられている  惜しいのはところどころでまったく別のテイストの家が割り込んでいて、もとはあっただろう統一感が崩されてしまっている事。

これらの住宅に住む労働者が働いていた工場は、かつてこんな様子だった。模型がインフォメーション記念館⇒の中に再現されていた⇒※ガウディの礼拝堂への入場券をここで購入する。

工場ではキューバから輸入した綿花をつかって⇒ コーデュロイなどをつくる繊維工場だった⇒ グエル家は父の代からキューバで農場経営をしていたのである。

最初、工場はバルセロナ市内にあったが、息子のエウセビ・グエル氏は環境が整った工場を郊外に建設する事にした。そして、自分の工場で働く労働者たち百五十世帯を住まわせる「コロニア」(=いわば入植地・居住地)としてこの村をいっきに作らせたのである。

しかし、それは百年も前の事。1936-39年のスペイン市民戦争の時には工場ごと一時接収され、戦後1945年にはグエル家の手も離れて売りに出されている。工場自体も1973年には閉鎖されてしまった。この状態では「統一感のある村」を維持することは無理な注文だったと想像できる。

それでも、村の中心広場に向かうと⇒1890年に建てられたグエル氏への表敬胸像が今も大切にされていた。↓

エウセビ・グエルという人はガウディという才能にチャンスを与えた事によって現代でも名前を残しているが、それだけの金持ちではない。

こういう労働者のための村を用意する度量の広い経営者だったのがわかる。労働者の子供たちのためにも十分な教育を施そうと、英語教師はわざわざ英国から招いてたのだそうだ。この街路樹の先にその学校も残されている⇒ 現代の労働力の搾取ばっかり考えているブラックなんとかとは、だいぶんちがう。

百五十戸の人々が住む村になれば、当然教会が必要になる。それまでグエル家が私的に使っていた小さな礼拝堂は回数を分けてミサを行うほど混雑するようになり、いよいよ、1908年に教会の建設がはじまった。

これらストーリーを知ってからガウディ作の未完の教会を訪れる事にしよう。

ゆるい坂をのぼってゆくと、すぐに目の前に「ひと目でガウディ」という礼拝堂下の階がみえてきた↓

扉を開けると、ひとによっては「ガウディ最高傑作」と称賛する空間がひろがった。

・・・次の日記に続く

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ペニシュコラの砦~法皇ベネディクト十三世最期の地

2016-03-20 10:49:11 | スペイン

祭りの翌日の朝
ヴァレンシアの旧市街真ん中のホテル、最上階レストランより


10時にホテルを出て、地中海沿いを北上、二時間ほどでペニシュコラというちいさな半島の城塞に到着。

ここは「ヴァレンシアのジブラルタル」などと呼ばれることもある。今は穏やかなリゾートタウン。
復活祭の晴れた日曜日、暖かい陽射しにさそわれて地元民がたくさんあそびにきている。
だれもが足を向けるのは、丘の上の村と城塞



歴史にぜんぜん興味がなくても、楽しめる風景がある。



**しかし、その場所にまつわるお話=歴史は、知っていればもっと面白くなる。


今回、小松が知りたいと思っているのは、1423年にこの城で没したベネディクト十三世というローマ法皇のこと。


※彼について簡単に⇒こちらに書きました


城砦への道の途中で彼のブロンズ像が迎えてくれる。
歴史上の人物について知りたいのは、その人の実際の風貌。
背が高かったのか痩せていたのか太っていたのか、どんな印象だったのか、どんな声で話したのか。
あるいはどんな食事をしていたのか・・・そんな肉体的な事。
下の銅像はベネディクト13世だというのだけれど↓どう見えますか?

ベネディクト13世はローマ法王といっても南フランスのアヴィニヨンで1394年に戴冠。
日本で言えば南北朝時代のように法王が何人も擁立された分裂時代のことである。


フランス国王がそろそろ混乱を終わらせようとしたが、退位しようとしない。
ついに軍隊をさしむけて1398年から五年間もヴィニヨンを包囲して退去させた。
しかし、自らの出身地のアラゴンへ逃れ「法皇である」と言い続けた。
1415年のコンスタンツ公会議へも出席。
ほかに二人いた法王が自主的に退位したり捕らえられたりしたのだが、彼はここでも「自分こそが法王だ」といい続けた。
ついにアラゴンの田舎の孤城ペニシュコラへ半ば幽閉され、八年を暮らし、1423年に没した。


彼も見ていただろう要塞屋上から見晴らす地中海はとてもうつくしい。



ベネディクト十三世は、同時代の人の書き残した印象では、「痩せた銅像のようで、謹厳な印象」を与えていたようである。 


★主に野菜とパンを食べ、時々肉やワインも口にしたが食事に長い時間を費やすことはなく、決して過食しなかった。
ここが彼の時代のキッチンだった場所↓


★修道院からのレモンを干したもの(たぶん砂糖漬けのお菓子?)を口にしたが、1418年にはそこに毒を盛られてあやうく暗殺されるところだった。
当時すでに九十歳近かったこの人物をわざわざ殺そうとする人が出るほど、周囲には影響力を持ち続けたということかもしれない。


★南仏モンペリエで学んだころから蔵書家で、この城にもたくさんの書庫があった。
今はどこもがらんとしているが明るい光の入るこの部屋がいちばんの書庫だった↓

本の分野は宗教にとどまらず、哲学、歴史、数学、薬学、解剖学、自然科学、建築学、詩、美術、など多岐にわたる。
幅広い知識をもった初期のルネサンス的思想をも持っていたということだろう。
晩年にはしかし、経済的な困窮の為にその本を一部売らなくてはならなくなったと解説されていたのだが。



★死の前年、「自分が死んだら次の法皇を選ぶ選挙(コンクラーベ)を行うように」と遺言を残し、実際に最期まで彼に従っていた三人の枢機卿が集まって選挙をおこなったのがこの部屋。急な階段を下りてたどりつく↓



実際には四人の枢機卿に言い残していたのだが、あとのひとりはトルトーサの街に居て参加しなかった。


★意外にもスコットランドの、セント・アンドリュース大学から法皇へ送られた記念のプレートがある。


なぜ?↓

スコットランドは最後までベネディクト十三世法皇を支持した国で、それによってか、1413年に法皇勅書によって大学の設立を認めてられている。 セント・アンドリュー大学は今も、英語圏では世界で三番目に古い大学という名誉を得ているのである。
↑上の写真の二つの紋章をよく見ると
セント・アンドリュース大学の紋章には、ベネディクト十三世の出身家「デ・ラ・ルナ(月の)」の紋章が上部に用いられている。

ベネディクト十三世は、この紋章から「月の法皇」を呼ばれてる。
それは太陽のように輝きはしなかったとしても、対立法皇として最後まで意地をとおしたという意味がこめられているのだろう。



歴代の法皇にはいろいろな性格の人物がいるが、このベネディクト十三世は存外「清廉で敬虔な善人」だったように感じられた。もちろんそういう「清廉で敬虔な善人」の方が、悪人を自覚する人物より扱いにくいのだけれども。


 

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