ミッション・サン・ファン・カピストラーノ②
※①はこちらからお読みください
「バルセロナでつくったものを解体して、船で運んできたものです」
礼拝堂のガイドさんが誇らしげに言う。
1776年、アメリカ合衆国建国と同じ年にフニペロ・セラが開設したミッション教会サン・ファン・カピストラーノ。
三年後には現在と同じような礼拝堂が完成していたと思われる。
カリフォルニアに残るもっとも古い礼拝堂。
↑中央に立つ赤い旗を持っている人物が
★聖者ファン・カピストラーノ=(イタリア人だからほんとうはジョヴァンニ・ダ・カピストラーノ)
1385年にイタリアのカピストラーノで生まれた。
ペルージア大学で法学を学び、ナポリで弁護士をしていた。
ナポリ王からペルージアの総督に任じられるほど信任を得たが、
近隣国との抗争で牢に入れられ、出てきたときには人が変わっていた。
俗世を捨て、フランチェスコ会に入信する。
説教の名手で、現在のロシアにまで布教活動をしていた。
1456年七十歳の高齢にもかかわらず、
オスマン・トルコによるベオグラード包囲を「十字軍」を率いて解放したと伝わる。
赤い旗を持つのはその時の姿をあらわしている。
スペイン人ローマ法皇カリストゥス3世に仕えていたので
スペインで人気があったのだろう。
セラ神父がこの場所にファン・カピストラーノの名前を選んだのは
未開の地の布教活動に積極的だったところに共感したのかもしれない。
セラ神父が先住民を「導く」姿は多くの像になっている。
「こんな人だったのですか」と訊ねると
「ほんとの肖像画は残っていないのよ」と冒頭のガイドさん。
↓細長い礼拝堂の土壁に見えるガタガタの線を指さして
「ここから先は継ぎ足したの」と言われた。
最初、なにを言っているのかわからなかったが、
歴史的な経緯をたどると見えてきた。
ミッション教会ができた当初は「継ぎ足す」前の小さな礼拝堂しかなかった。
集う人数もすくなかったから間に合ったのだろう。
三十年後の1797年、(今は廃墟になっている)巨大な教会の建設がスタートした。
巨大教会は1806年に完成したが、わずか六年後に大地震で倒壊。
古いこの礼拝堂でのミサをするしかなくなったが、
人数を収容するために「継ぎ足す」=増築したということだろう。
↑入口上に見えるパイプオルガンはいつごろのものかしらん。
ばらばらにして運ばれてきた「バルセロナでつくられた」祭壇↑ここで組みなおしてみると実は大きすぎて入らなかった↑
たしかに壁いっぱいだ↑入らなくてどうしたのか?
祭壇の一部をあきらめた?
なんと壁の方を一度壊して押し込んだ↑
↑左の壁にある説教壇もその時持ち込まれたもの?別の場所のもの?わかりません。
小松は最初
この礼拝堂を「押し込んだ」のは19世紀前半だと思った。
1812年の大地震で倒壊した大聖堂にあったものを古い小さな礼拝堂に「押し込んだ」のだと。
しかし、資料をよく読んでみると
「1922年、LA大司教区から350年の歴史ある祭壇を寄贈された」と書かれていた。
それは祭壇のカタチをしたものではなく、396の破片が10個の箱に分解されて入ったもので、
三ヶ月かけて復元してみると幅5.63m×6.7mになり、
当時のセラ礼拝堂に入らないと分かった。
・・・このバラバラで保管されていた祭壇が
1812年に倒壊した大聖堂にあったものかは、わからない。
次に訪れる8月に現地で質問してみようと思う。
**
塀の外にでると、21世紀のカリフォルニア。
スペイン領・メキシコ領だった18,19世紀の夢から覚めたようだ。
百メートルほど離れて、1985年に完成した現在の大聖堂がある。
↓アナハイムからの列車が、駅に到着する直前に見えたオレンジ色のドームだ↓
入口に掲げられた紋章は↓
↑現ローマ法皇フランシスコのもの。
↑彼は史上初のイエズス会出身法皇↑
ミッション教会サン・ファン・カピストラーノがフランチェスコ派によって設立される以前、
このあたりはイエズス会が布教活動を行っていたが
スペイン王カルロス三世のイエズス会追放政策によってフランチェスコ派にとってかわられた。
ちょっと皮肉な気がする。
重い扉を開くと
カソリックにしてはシンプルで白い空間がひろがる。
↑入ってすぐに大きな洗礼盤があるのはカトリックらしいけれど。
↑突き当りに見える金色の祭壇は、さっきセラ礼拝堂で見た祭壇を思い出させる↑
こちらの上段中心にあるのは十字架上のキリスト。
セラ礼拝堂では下にあった磔刑図とよく似ている※冒頭の写真と比べてみてください
下段にはメキシコで超人気の聖地となっている「グアダルーペの聖母」の絵。
※2018年「グアダルーペの聖母」を安置するメキシコシティの教会を訪れたブログにリンクします
形状は似せているが登場させている人物はちがう。
紫色の「南半球の桜」=ジャカランダの花が盛り
18世紀末のセラ神父も見ていただろうか。
※①はこちらからお読みください
「バルセロナでつくったものを解体して、船で運んできたものです」
礼拝堂のガイドさんが誇らしげに言う。
1776年、アメリカ合衆国建国と同じ年にフニペロ・セラが開設したミッション教会サン・ファン・カピストラーノ。
三年後には現在と同じような礼拝堂が完成していたと思われる。
カリフォルニアに残るもっとも古い礼拝堂。
↑中央に立つ赤い旗を持っている人物が
★聖者ファン・カピストラーノ=(イタリア人だからほんとうはジョヴァンニ・ダ・カピストラーノ)
1385年にイタリアのカピストラーノで生まれた。
ペルージア大学で法学を学び、ナポリで弁護士をしていた。
ナポリ王からペルージアの総督に任じられるほど信任を得たが、
近隣国との抗争で牢に入れられ、出てきたときには人が変わっていた。
俗世を捨て、フランチェスコ会に入信する。
説教の名手で、現在のロシアにまで布教活動をしていた。
1456年七十歳の高齢にもかかわらず、
オスマン・トルコによるベオグラード包囲を「十字軍」を率いて解放したと伝わる。
赤い旗を持つのはその時の姿をあらわしている。
スペイン人ローマ法皇カリストゥス3世に仕えていたので
スペインで人気があったのだろう。
セラ神父がこの場所にファン・カピストラーノの名前を選んだのは
未開の地の布教活動に積極的だったところに共感したのかもしれない。
セラ神父が先住民を「導く」姿は多くの像になっている。
「こんな人だったのですか」と訊ねると
「ほんとの肖像画は残っていないのよ」と冒頭のガイドさん。
↓細長い礼拝堂の土壁に見えるガタガタの線を指さして
「ここから先は継ぎ足したの」と言われた。
最初、なにを言っているのかわからなかったが、
歴史的な経緯をたどると見えてきた。
ミッション教会ができた当初は「継ぎ足す」前の小さな礼拝堂しかなかった。
集う人数もすくなかったから間に合ったのだろう。
三十年後の1797年、(今は廃墟になっている)巨大な教会の建設がスタートした。
巨大教会は1806年に完成したが、わずか六年後に大地震で倒壊。
古いこの礼拝堂でのミサをするしかなくなったが、
人数を収容するために「継ぎ足す」=増築したということだろう。
↑入口上に見えるパイプオルガンはいつごろのものかしらん。
ばらばらにして運ばれてきた「バルセロナでつくられた」祭壇↑ここで組みなおしてみると実は大きすぎて入らなかった↑
たしかに壁いっぱいだ↑入らなくてどうしたのか?
祭壇の一部をあきらめた?
なんと壁の方を一度壊して押し込んだ↑
↑左の壁にある説教壇もその時持ち込まれたもの?別の場所のもの?わかりません。
小松は最初
この礼拝堂を「押し込んだ」のは19世紀前半だと思った。
1812年の大地震で倒壊した大聖堂にあったものを古い小さな礼拝堂に「押し込んだ」のだと。
しかし、資料をよく読んでみると
「1922年、LA大司教区から350年の歴史ある祭壇を寄贈された」と書かれていた。
それは祭壇のカタチをしたものではなく、396の破片が10個の箱に分解されて入ったもので、
三ヶ月かけて復元してみると幅5.63m×6.7mになり、
当時のセラ礼拝堂に入らないと分かった。
・・・このバラバラで保管されていた祭壇が
1812年に倒壊した大聖堂にあったものかは、わからない。
次に訪れる8月に現地で質問してみようと思う。
**
塀の外にでると、21世紀のカリフォルニア。
スペイン領・メキシコ領だった18,19世紀の夢から覚めたようだ。
百メートルほど離れて、1985年に完成した現在の大聖堂がある。
↓アナハイムからの列車が、駅に到着する直前に見えたオレンジ色のドームだ↓
入口に掲げられた紋章は↓
↑現ローマ法皇フランシスコのもの。
↑彼は史上初のイエズス会出身法皇↑
ミッション教会サン・ファン・カピストラーノがフランチェスコ派によって設立される以前、
このあたりはイエズス会が布教活動を行っていたが
スペイン王カルロス三世のイエズス会追放政策によってフランチェスコ派にとってかわられた。
ちょっと皮肉な気がする。
重い扉を開くと
カソリックにしてはシンプルで白い空間がひろがる。
↑入ってすぐに大きな洗礼盤があるのはカトリックらしいけれど。
↑突き当りに見える金色の祭壇は、さっきセラ礼拝堂で見た祭壇を思い出させる↑
こちらの上段中心にあるのは十字架上のキリスト。
セラ礼拝堂では下にあった磔刑図とよく似ている※冒頭の写真と比べてみてください
下段にはメキシコで超人気の聖地となっている「グアダルーペの聖母」の絵。
※2018年「グアダルーペの聖母」を安置するメキシコシティの教会を訪れたブログにリンクします
形状は似せているが登場させている人物はちがう。
紫色の「南半球の桜」=ジャカランダの花が盛り
18世紀末のセラ神父も見ていただろうか。