旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ヘルシンキ経由ウィーン到着

2020-02-29 03:15:03 | オーストリア
フィンランド航空は日本の六つの空港に乗り入れているから、関西からの方とはヘルシンキで待ち合わせになっている。

ヘルシンキは十時間で到着できるヨーロッパ。

そこから二時間ちょっとでウィーンに到着した。
降り立ったのはむかーしからある丸い特徴的なサテライトビル↓

昔はこんな丸いサテライト二つしかなかったのに、いまは三つのターミナルがある。
荷物のターンテーブル前にいく通路にあったアトラクションの宣伝↓

ウィーンですなぁ(^.^)
↓空港から出るとすぐに石油の精製施設の特徴的な灯りがある

オーストリアは少量だが石油を産出する。
なので、OPEC(石油輸出国機構)の本部もウィーンにあるのだ。
↓リンク通り沿い、オペラ座から斜め前のホテルにチェックイン。

↓冷蔵庫が無料

↓朝食にはフムス(ヒヨコマメのペースト、アラブ風な食材)まででている

今日は「ベートーベンの遺書の家」へ行って、午後からウィーンオペラ座のオペラです(^.^)



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芝山巌(しざんがん)は台北の歴史を刻んでいる

2020-02-18 09:50:40 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 四日目
故宮博物院から十五分ほどの場所だが通常の観光で訪れることはまずない。
一般道から急な階段が岩山の上に続いている↓

急な階段を下りてくる日本からの修学旅行生グループと出会った。
引率の先生に知識があって生徒たちを連れてきたのだろう、良い事だ。
日本統治初期にここでなにがあったのか、日本人はもっと知っておいてよい。

急な階段の代わりに、眺めの良い遊歩道を歩くと台北の街が見下ろせる↓

↓苔のはえたごつごつした岩の山

登りきると古い寺の新しい門

抜けたところに事件の記念館がある↓門との位置関係から考えると、ここに事件が起きた時のお堂があったのではないだろうか

1895年、日本の台湾統治がはじまった年に、この岩山の上にある古い寺を利用して学校が開かれた。
しかし、「教育を施す」とは日本からの見方で、現地に住む中国系・先住民系の人々にとっては「日本語の押しつけ」にしか見えなかっただろう。反感を先導する勢力がそそのかした暴徒は、翌年の一月一日に学校を襲撃し、六人の日本人教師が惨殺された。
「芝山巌事件」を追悼する記念碑は伊藤博文の文字が刻まれている↓

しばらくいくと殺された「六氏先生」の墓石も置かれている

近くに樹齢三百年と解説版があるガジュマロ↓この木も事件もみてきたはずだ

**
岩山の上は尾根のようになっていて道が続く
ところどころで広場があり、地元のひとたちが体操をしていたりする

今回台北エリアのガイドをお願いした若手のガイドさんも子供の頃からよく遊びにきていたのだそうだ。
「崖の下の林に落としたボールがまだあるかもしれません(笑)」
時々、お堂がある。台湾には神様がたくさんおられますゆえ。


芝山巌は地質学的にも古い岩山で、川の氾濫に遭わず、安全な砦をつくるのにちょうどよい。
日本統治のずっと以前、唐時代から漢民族の台湾進攻にも使われていた場所だった。
★陳元光は唐の第三代高宗帝(位649-688)の時代に漢民族の南方制覇を先導した軍人だった。
同じく軍人だった父の陳政の元で十三歳から鍛えられ、十八歳で科挙試験にも受かった文武に秀でた人物。
彼がこの山に砦を築いた跡が今でもみられる↓

七世紀の砦の城壁か…復元はしてあるにしても

少し降りたところにある大きな寺には陳元光が乾隆帝時代から呼ばれていた「開漳聖王」という名前で祀られている。
大陸の福建省エリアとこの台湾島を唐の支配下に組み入れた「神」となる。

ただいま一部修復中


***
木々のあいだからは故宮博物院ちかくの軍関係オフィスのあるエリアが見える。

木立の中に時々見えるコンクリートの建物が気になった

「これは国民党時代のものです。蒋介石の別荘がこの下にあったので、軍人さんがいたのをおぼえていますよ。」

芝山巌は現代でも戦略的立地にあると言えるのだろう。
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台湾、地元で人気の飯屋

2020-02-17 20:33:42 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 四日目
住宅街の一角のこんなお店↓

「ここの牛肉麺が人気なんですよ」
台北のガイドさんが昔からきていたお店だそうな。

ツーリスト向けにというそぶりはまったくなく
↓これでも「小さい方」の牛肉麺

写真映えするかは知らないが、この肉の柔らかさとボリュームはうれしい
↓付け合せというか、サイドメニューに

豆腐の種類が豊富。昆布巻は日本のものと似ている。
↓こちら内臓系は日本ではあまりないかも

旅人はよく「地元の料理が食べたい」というけれど、
外国からのビジターにも必ずウケる「地元の料理」というのは簡単ではないように思う。

昨夜、同じくガイドさんに連れて行ってもらった店は
「なんといっても魯肉飯(ルーローハン)」↓が売り

なるほど!
台湾の旅ではルーローハンを見かける度に試してきたけれど、ここのがこれまでのBESTだった(^.^)
タケノコやイカも

茄子も青野菜もよいのですが

次はぜったい大きな碗で食べたいここの魯肉飯(ルーローハン)!
オーダーは↓こんなシートに記入して

写真がないから分からない?
そういうツーリストフレンドリーにしなくても地元のご贔屓さんだけで充分にやっていけるのでしょうね(^.^)
ビールを注文しても、しても、しても、結局忘れてしまわれたけど
「もしかしたら、飲んだら長くなるから『忘れた』のかもしれませんね」とガイドさん(笑)
この魯肉飯(ルーローハン)があれば許されます(^.^)
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義愛公~台湾の村に祀られる日本人巡査

2020-02-17 16:20:06 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 三日目
けっして上出来な細工ではないが、何かが宿っていると感じさせる↓

森川巡査は1897年、三十七歳で台湾に赴任した。日清戦争の結果、台湾が日本領になってまだ三年。日本に対する反感は強く、前年には日本から赴任した教師六人が殺される事件まで起こっていた時期。地方の巡査は治安維持だけでなく徴税の責任も課され、住民の生活にも深くかかわる存在だった。
★彼の生涯を画いた素朴なタイル画がつい五年ほど前にできていた↓
赴任の三年後に日本から妻子を呼び寄せ↓

子供の為に教師を雇って学校を開校。
村の子供たちも学べるようにした↓

漁民が怪我をして岩場にとりのこされていると、自ら助けに行き自分自身がもっとおおきな怪我をしていたこともあったそうな↓

1902年、政府が漁民のささやかな漁具にも課税すると通告。貧しい漁村の生死を左右する事態。森川巡査は上級役所に談判に行く。が、逆に懲戒を言い渡され、村民との板挟みになった彼は、村に戻って拳銃自殺してしまった↓下右

二十年が過ぎ、周囲の村に疫病が流行りだすと、村長の夢枕に森川巡査が立った。
「ドブを掃除し、衛生管理をしっかりすれば助かる」という助言にしたがうと、疫病は東石村には流行らなかった。
村民は森川巡査の木彫をつくり、神様の一人としてここに祀るようになった。

当初の素朴な祠はなんども立て替えられ、2015年ごろには現在の立派な寺が完成した↓

小さな漁村には不釣り合いなほど

↓我々が日本人だとわかると、管理の人が奥から木造を抱え出してきて、着ていたマントをとって開帳してくださった↓

森川巡査の住んだ家はこの寺のすぐ横にあったのだと教えてくれた。
**
嘉儀駅発15時半の新幹線に乗るために東石村を出る。

新幹線の開通以来、いちめんのサトウキビ畑だったこの地域にも新しい施設建設がはじまった。
↓その代表が2015年に開館した故宮博物院の南館↓特徴的な建物が見えた↓

そのすぐ近くにエヴァーホテル↓

故宮の名品を持ってきているというだけでなく、アジアアートの発信基地にもしようというのだそうな。
※こちらに故宮博物院南院の日本語紹介ページがあります


今回ガイドをお願いした施さんが連れて行ってくれたのは、日本時代にサトウキビのプランテーションを運営していた村↓
サトウキビ列車は観光列車として復活し、台湾の人々がやってくるのだそうだ↓

村には日本時代からの家屋がたくさん残されている↓


↓壁には近年画かれた絵

中心部の公園に見える胸像後姿は…↓

「後から蒋介石に変えられたんです」
なるほど、とがったアタマのカタチが蒋介石のものだ

嘉儀の新幹線駅から
新幹線で台北へ向かいます
今回は嘉儀の街を見る時間がなかったが、必ずチャンスをつくります(^.^)

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牡蠣養殖の海岸とここでしか食べられない絶品海鮮

2020-02-17 15:22:10 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 三日目
海岸に近づくと道路脇ほとんどが牡蠣殻の山だった

堤防をのぼってゆくと

養殖いかだが海を覆っていた
いかだは竹製



すぐ近くにある料理屋は、高雄のガイドさんがわざわざ来て見つけてくれた↓

中国本土からのお客がよくやってくるとのことで、今はがらんとしているがけっこう広い。
一角にとれたて食材が並んでいる↓

↓「サバヒーはどれですか?」と言ったらかきわけてみせてくれた↓

↓この貝もあとからでてきました

↓殻が山のようになっていた牡蠣は、こんなふうに登場!

小ぶりの牡蠣だがめっぽう美味しい(^.^)
↓エビが上手に揚がっている

↓はまぐり?ですか

↓ウナギ(これは日本風)、カラスミとニンニク葱

★この鶏のスープは見た目の何十倍も美味しい。今まで食べたことのない少し薬膳的な風味のある出汁。ついついどんどんおかわりっしちゃいました↓

↓ひとり一匹 小骨もあるが良い味です

↓あ、さっきの貝

デザートに↓フルーツはグアヴァとレンブ

これは店構えとは不釣り合いな(失礼)A級料理だと思う。台湾というとB級グルメや屋台食べ歩きにスポットがあたることが多いが、こういう料理こそこの地へこないと食べられない。

レストランを出発すると、そこここで牡蠣の山に座り込む女性たちをみかけた↓

なんと、こうやって牡蠣の身をとりだしていた。
稚貝は最初↓この箱にいれて

ある程度大きくなると、こんな風に殻に紐をとおしていかだから吊るして育てていたのか↓

自分の目で見てはじめて理解できました(^.^)
**
沖縄でよくみる甕棺墓のような墓が養殖池?の近くに見えた↓

これ、海にちかすぎません?

きけば、なんと、古い墓は地盤沈下で多くの墓が海に水没してしまっているのだそうだ。

午後三時半嘉儀発の新幹線で台北に向かいます。
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