旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

玉泉寺、近江孤蓬庵を訪れてから竹生島フェリーに乗る

2024-10-30 12:22:41 | 国内
長浜港と伊吹山のシルエット。

10月14日 朝七時、ホテル目の前の長浜港に「うみのこ号」が停泊中。
今日は子供たちを乗せて「フローティング・スクール」が開催されるのだそうだ。
※スクールの概要にリンクします
滋賀の子供たちは琵琶湖についての学習をこんなかたちで体験するのか。
ホテルの朝食

**
午前、最初に玉泉寺を訪れた。

比叡山中興の祖とされる元三大師良源の生誕地に建てられた寺。

↑元三大師が「鬼大師」として描かれたお守り札

↑小松がはじめて訪れた時、現在ここを預かっておられる慈敬和尚が製作された元三大師の生涯を分かりやすく解説した漫画本をいただいた。
今回ご参加の皆さんにもぜひこれを読んでいただきたくてご案内した。

江戸時代に建てられた(改修された?)立派な本堂でお話を聴いた。太い梁に「安永九年(1780年)」と墨書されているのが見える。
***

近江孤蓬庵はいつ訪れても季節の草花が迎えてくれる。

小堀遠州ゆかりの庭は四季折々に訪れる価値がある。
※2024年春に訪れた時のブログにリンクします

一時は荒れていた庭は江戸時代からの姿を取り戻しているように見える。

↓自然に見える石の配置も↓よく計算されている↓三つの石は釈迦三尊

↑左の細長い石が世を渡ってゆく「船」=人を表すという解釈もあり。
「孤蓬」とは「一艘の苫舟」の意。小堀政一=遠州の号。

↑御本尊からまっすぐ庭に出た正面に置かれた平たい石の上で座禅を組んだのだそうだ。

****
朝しっかり食べたし、夜は近江牛懐石の予定だし、

ランチは竹生島フェリーで、長浜名物「サラダパン」でよいか(^^♪
※サラダパンにたくあんが挟んである写真をこちらに載せています

長浜駅近くの秀吉に茶を差し出す少年の石田三成の像※由来が書かれたページにリンクします

水陸両用観光車両とすれちがった。

12時半ごろ長浜港は竹生島へ行く人で長蛇の列。
今、六十年に一度しか開帳しない千手観音像が特別拝観できるのです。
我々は13:05のフェリーに乗船。

伊吹山が遠くなるにつれて

竹生島が近づいてきた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「腹帯観音」と「丸子船の館」再訪

2024-10-27 21:53:56 | 国内
「腹帯観音」は姉川の合戦から八十八年も泥の中に隠されていたと伝わる。
はじめて訪れた時には見えていなかったが、
※2020年9月、はじめて長浜を訪れた時のブログにリンクします

今回お近くでじっくり対峙させていただくと、四百年の時間が刻み込まれていることが伝わってきた
※御護りされているKさんが書かれたHPにリンクします
↑足先は江戸時代に泥から救い出されてからもういちど立てるように後補されたものだろう。

泥から救い出された時、全身を洗いさらしで巻き、後にその布を腹帯にすると安産のご利益があったとのこと。
ふくらんだお腹にさらしを巻いてそれを下げていただく習慣がはじまった↑布に書かれた文字はなんと↓

享保四年(1719年)に製作された版木が使い続けられている!
前出のリンクにも書かれているように平成15年(2003年)に盗まれたが、約一年半後に取り戻すことができた。
多発した仏像の盗み出し事件で、無事に戻ってくることは稀である。
このお像の威信とも言うべきものかもしれない。

「丸子船の館」も琵琶湖最北端の大浦にある。
※2020年9月はじめて訪れた時のブログで運んでいたモノなどについて書きました
何度訪れても新たに知ることがある。

↑デザインのように貼られている金属の板は銅板↑木材を組み合わせた場所から水が入らないように補強してある部分なのだが、実用を超えてデザインとして発展し「ダテカスガイ」と呼ばれている。確かに船を美しくしようという意識が感じられる。

接合部分は水に浸かっていた現役のあいだはしっかり閉じていたが、この博物館に移動されてから乾燥が進んでしまったそうな。

大きな帆はこの船自体では使われていなかったが、丸子船にエンジンが備え付けられる前にどのように走行していたかを理解してもらう目的で設置されている。

「松右衛門帆」がはじめて船の帆として開発された布地をつかったモノなのだそうだ。
現在でも兵庫県高砂市に「松右衛門帆」を継ぐ?店がある※リンクします

↑鳥居のように見える構造物は帆をたたんだ時に帆柱を横たえて置く場所。
丸子船がエンジンで運行されるようになってからも伝統的に同じ形で最後まで残った。
最後の丸子船は昭和40年頃までは運行していた。

**
10月13日の泊まりは長浜港のすぐ前にある、ヴェネチアがコンセプトのホテル。
ディナーもイタリアン(^^♪

楽しませていただきました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

賤ヶ岳山上から琵琶湖と余呉湖を望む

2024-10-21 12:39:55 | 国内
標高420m賤ヶ岳山頂から竹生島がきれいに見えた。

↑こちらは標高130mの余呉湖。琵琶湖より約50m高い。


10月13日連休の朝10時過ぎ米原駅。
これまで五回長浜の旅を催行してきたが、いちばん人が多い。

米原駅前市役所でも様々なイベントを開催中、市街では山車も出ているそうだ。
この旅でコロナ禍以前五年ぶりに再会したメンバーもあり、お天気になってほんとうにうれしい。

琵琶湖を周回するサイクラーもたくさん。

伊吹山が近く見える。

長浜観音の背中を見ながら北上して、まずは渡岸寺の国宝の十一面観音立像に会いにいこう。

「渡岸寺(どうがんじ)」は地名で「向源寺」が寺の名前。

この地方では「野神様」として祀られる巨樹が多い。

※国宝、十一面観音立像についてはこちらに書きました

すぐちかくの「観音の里資料館」も訪れた。

学芸員のSさんが今回も丁寧に解説してくださる。
時間が限られていて申し訳ないです。
はじめて見る「神像」にぎょっとした※こちらに載せました
次に、小松の企画では必ず訪れている「西野水道」へ

今日は公民館をお借りして井筒屋のお弁当「湖北のお話」をいただきます。

※「湖北のお話」についてはこちらに書きました
この公民館には前から見たいと思っていた「西野水道」の故文書のコピーが展示されていた。

※こちらにもう少し書きました
ここには「古保利古墳群」の出土品展示も↓

↑琵琶湖に沿った山の尾根に3㎞にわたって132もの古墳群が並んでいるそうな↓

↑琵琶湖をゆく船から見えることを考えて建設されたのだろう↓下の写真は「西野水道」を抜けてふり仰いだところだが↓この山の上に古墳群がある↓

↑小松もまだ上ったことがありません。いつか石室が公開されたら行ってみたいです。

昼食後に「西野薬師堂」をご案内いただいてから

「西野水道」を歩いた。

江戸時代の手掘り隧道がほぼそのまま残されていて、そこを歩くことができる稀有な場所。

※2024年4月に歩いた時のブログにリンクします
戻りは昭和に掘られた穴から。

**
冒頭写真の賤ヶ岳へのチェアリフト

ここは四月末から秋までしか運航していない。

晴れていなければ登る価値もないので、予定して行程に入れにくい場所。

今回も「晴れていたら」という条件付きで日程表に載せていたが、幸いすばらしいお天気にめぐまれた。
↓チェアリフトを降りてからも山頂までは十五分ほど歩かなくてはならない

↑こんな杖も用意されている↑

賤ヶ岳の古戦場

余呉湖を見ながら滔々と解説してくださる。

こういう眺望だけは確約できません(^^)

↑チェアリフトはなかなかコワいけど乗る価値あります(^^)/
午後は琵琶湖最北端の集落へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バスが故障して美味しい鯛を食べたシュノンソー

2024-10-19 08:28:43 | フランス
絶妙にハーブが効いたバターとクリームのソース。フランス料理で鯛はなるほどこんな風に調理するのか。日本料理とはぜんぜんちがうが、フランスに来てよかったと思う鯛料理だった。

10月2日朝、ロワール河畔の大学町トゥールでの朝食。

バゲットとチーズが美味しければフランスの朝食は良し。

↑いちばん左「トゥーレーヌ」は形成のための藁が通してあった部分に穴が開いているチーズ↑山羊のミルクからつくられるが、ここで食べれば多くの日本人にも「おいしい」と言ってもらえる。
**
朝一番で訪れたシュノンソー城への並木道

誰もいなくて、訪問客も少なかった三十年前を思い出した。

↑やがて城館が見えてくる。

↑入り口の「火喰いトカゲ=サラマンドラ」はフランソワ一世の個人紋章。1516年にダ・ヴィンチをフランスに連れてきた王である。
この館のはじまりは、王の財務官だったトマ・ボイエ夫妻が建てたもの。
↓館の変遷が展示されていた↓

↑いちばん左が1517年のシュノンソー城↑ダ・ヴィンチもみたかしらん。
↑真ん中のように、橋をかけたはアンリ二世の愛妾ディアンヌ(=英語ならダイアナ)。

↑彼女の狩の女神ダイアナに扮した肖像画がかけてある↑
橋の上に建物を建てたのは本妻カトリーヌ。

↑カトリーヌのCとアンリのHを組み合わせた紋章が暖炉の上に刻まれている↑それが合わさるとディアンヌのDにも見えたりする。

シュノンソーは「七人の女性の城」と呼ばれている。
※フィガロ・ジャポンの記事にリンクします
小松がいつもご紹介したいとおもっているのは「黒い部屋」↓誰もいない朝、ちょっと足が止まる空気

アンリ三世の妃ルイーズ・ド・ロレーヌが、暗殺された夫の喪にふくしながら住んだ部屋。

真っ黒に塗られた壁に↑いばらの冠に囲まれたアンリのHとルイーズ・ド・ロレーヌのLLのイニシャル↑

↑部屋の端には暗闇に浮かぶアンリ三世の小さなポートレート↑
この部屋はもともと礼拝堂に隣接する二階部分にあったが、デュパン夫人の時代には一度解体され、後に現在の三階端に復元された。

フランス革命期にかけて住んだ↑デュパン夫人とジャンジャック・ルソーの逸話もおもしろかった。
※2012年のブログにリンクします



城の窓から入り口方向↑

広い庭園にはまだまだ見ていない場所がたくさんある。

***
お城での自由時間に「バスが壊れて修理している」と電話が入った。
このあとバスで一時間ほど離れたレストランに予約が入っているのだが…行けない。
シュノンソー村でワイン・テイスティングをしている間に手配会社と連絡をとりあって、この村にあるレストランに変更。

ルレ・グループに入っている=定評あるホテルのレストラン。

突然の予約に「鯛なら人数分用意できます」と対応してくれて、冒頭写真の料理に出会ったのだった。

****

昼食後、ロワール河沿いにシャンボール城へ向かう。
あれあれ事故ですね。

↑城は見えないがブロワの街を横目に

シャンボール城の広大な敷地に入り、正面に巨大な城が見えた。

ロワール古城の中でも最大の大きさをほこるシャンボール。
ダ・ヴィンチが亡くなった年にフランソワ一世が建設をスタートさせたルネサンスの城。

↑中央にダ・ヴィンチがアイデアを出した?とされる二重螺旋の階段がある。

↑二重螺旋を見上げたところ↓

イタリアはオルヴィエートの井戸とそっくりの光景。
※二重螺旋の系譜についてこちらに書きました


↑ルイ15世妃マリー・レグザンスカの父スタニスラフ・レシチニスキがトルコ風の衣装を身につけた肖像画があった↑
彼は1703年にポーランド王となったがそれを維持する才はもたず、娘婿のルイ15世をたよってロレーヌ公となった人物。
1725年から1733年までシャンボール城に住んだ。
*****
シャンボール城を出て、シャルトルを経由

シャルトル大聖堂は数あるフランスの大聖堂の中でも屈指。
夏のプロジェクションマッピングは見事
※2015年のブログにリンクします

キャパが撮影した有名な写真の一つもシャルトルで撮影されている↑
******

少々渋滞したが無事にパリのホテルに到着。

ホテルでの夕食。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サン・マロを一時間だけ歩く

2024-10-18 08:09:52 | フランス
ブルターニュの海岸に突き出した城壁都市サン・マロ。

サン・ヴァンサン門をくぐって旧市街を歩きだすとすぐブルターニュ地方のお菓子に出会った↓

●KOUIGN AMANNは「クイニー・アマン」と発音するブルターニュ語。
綴りはむしろゲルマン系。ドイツ語のKUGELがクリスマスの球飾りや弾丸などを意味する言葉。
AMANNはブルターニュ語でバターの意味。
2013年に船でブルターニュのロスコフに上陸した朝に食べたっけ※その日のブログにリンクします

城壁に出るとサン・マロ市の旗が青空にはためく↑左上の赤地にはテンが描かれている↑

サン・マロのいちばんの見どころは城壁↑
↑ルイ14世の信任厚き築城家ヴォーヴァンが設計した
※ヴォーバンをはっきり認識したマントゥノン訪問時のブログにリンクします
※こちらにも書きました



↑城壁に設置されたジャック・カルティエ像↑1530年代から40年代にかけて三度北米へ航海しモントリオールやケベックをフランス領と宣言した人物。
※2014年にモントリオールとケベックを訪れた日のブログにリンクします

1763年ケベックはイギリス領になる。

サン・マロには大西洋を航行する船を狙うコルセール(私掠船=敵国の船からは略奪を許可された国家公認の海賊)がたくさんいた。

↑シュールクーフはその代表格↓

ナポレオン金貨を敷き詰めた部屋に暮らしているといううわさがながれ、ナポレオンに拝謁した際に「おまえは私の顔を踏んで生活しているそうだな(金貨にはナポレオンの横顔が刻まれていた)」と言われた。
シュールクーフは「とんでもありません陛下、金貨は立てて並べておりますので」と答えた。
これは作り話だろうけれど(^^)

干満の差世界一の浅い海に囲まれた城壁。

潮のひいた時にだけ歩いて渡れる出城もある。


第二次大戦の艦砲射撃で破壊されたあとに再生された旧市街↑新しい建物と共存して独特の美しさを出現させている。


一時間の散歩でも、サン・マロの魅力を少しは感じていただけていれば幸いです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする