旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

リスボンから帰国の途へ

2019-05-03 08:47:57 | ポルトガル
昨夜、レストランまで歩いていく途中に続いていた高い壁はなんだったのだろう?↓

今朝、ホテルの高層階から見下ろして理解した↓

この空き地を囲んでいたのだ

監視所が塀のところどころに残っている↓
ということは、ここはかつてそういう場所だったのですね↓

**
ホテルからバンでリスボン空港に向かう途中、1755年の大地震後の都市計画でリスボンを復興させたポンバル公爵の像が見えた↓

↓空港到着
お土産セクションでポルトガルらしいもの
↓左はオリーブオイルなど↓右はオイルサーディンなど↓いろとりどりの海産品缶詰

↓昨日乗車したケーブルカーのカタチの入れ物に入ったクッキーとか

出国口は電子パスポートの国と分けられている

↓このおしゃれなお店は化粧品?
↓いえいえ、表示を見ると魚の名前が書いてある。これも缶詰屋さんでした。

ポルトガル航空の機体でロンドン経由で日本にむかいます


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リスボンの午後を市内交通を使って楽しむ

2019-05-02 15:51:27 | ポルトガル
リスボン市内に戻ってのランチはカタプラーナ↓

もともとは↑この銅製の鍋のことを指す言葉
ブイヤーベースと形容したりするのだが、南仏のものとはだいぶんちがう↓

**
午後は自由行動。
レストラン近くのロシオ広場↓

1755年の地震以前からあった広場
マカオのセナド広場の波模様はここを模したものだろう。

まずは市内交通機関24時間券を買おう。ガイドさんに買いやすい窓口を訊ねると宝くじ売り場を教えてくださった↓

6.9ユーロだから今のレートで千円弱


まずは海の方までまっすぐに通された道を歩いていく。
1755年の地震の津波で流されたあとに区画整理された地区なのだ↓

↑コメルシオ広場への門
↓その名の通り商業取引のための広場だった↓

テージョ川の河口に面している

↓コメルシオ広場からロシオ広場へ戻る道から、リスボンのカテドラルがちらっと見えた↓

あちらはリスボンのもっと古い地区アルファマへ至る
↓サンタ・ジュスタのエレベーターがみえてきた

これはあとで上から下へのろうということになっている。

↓ケーブルカーのグロリア線で展望台まであがろう

一本見送って、次のにすわっていくことにした。

車内の機械に先ほど買った二十四時間券をピッとする↓

あっという間に満員

急な坂道をゆっくりのぼってゆく、十分ぐらいかしらん。

サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台から
そこから「ショーシューリキ(消臭力)」のテレビCMで有名になった景色が見えた

アルファマ地区の上に位置するサン・ジョルジョ城
さっきのカテドラルも↓

***
近くの聖ロケ教会へ入る。
ここはイエズス会なので日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの生涯を描いたシリーズ画のある聖具室が公開されていた↓

↑★「ザビエルとカニの伝説」インドのゴアで学んでいたザビエルはマラッカに派遣されたが上陸を前に嵐に遭ってしまう。
その時、大事にしていた十字架を祈りを込めて海に投げ込むと、嵐はおさまり無事マラッカに上陸することができた。
そこに、カニさんが「これ、落としましたよ」とばかりに大事な十字架を届けてくれたのだそうな。

※1912年ザビエルの生まれた城を訪れた時のブログをこちらからごらんいただけます
聖ロケ教会の横の道はとっても狭い。路面電車にひっかけられないように注意しましょ。
1755年の地震で壊れたカルモ修道院の横を通ると…

さっき下から見上げたサンタ・ジュスタのエレベーターの上に到着

このエレベーター、下から乗る人が行列していても上からはそうでもないんだと教えていただいた↓
一回5ユーロなんだからさっきの市内交通24時間券もこれでほとんど元がとれちゃいますし(^.^)
※2014年に乗った時のブログをこちらからお読みいただけます

昔から変わっていない木製の内部↓

***
降りたりのぼったりになるが、ホテルへ帰るバスがシアード地区のカモンイス広場から出るというのでそちらまで。
しばらく待ったけれど無事に乗車。
↓さっき入った聖ロケ教会のすぐ横をとおる↓

降りるバス停が近付いて降車ボタンを探すが席の近くに見つからない。

後ろの降り口近くにやっと見つかった↓

****
ホテルに帰着、今晩は自由夕食。
徒歩圏の、ガイドさんが勧めてくださった「ヴァレンシアーナ」というレストランを予約した。
レストランへの道沿いに続くこのカラフルな壁花に?

※翌日の朝に判明

カジュアルな大衆レストランで人気はチキンまるごとのローストだそうな。

三人で一羽はちょっと大きすぎると思って半分にしたが、
あ、これなら食べられそうでした(^.^)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロカ岬とシントラ王宮

2019-05-02 09:09:50 | ポルトガル


リスボン市内から一時間ほどでロカ岬が見えてきた。バスよりずっと早い到着。
いつも風が強い場所だが今日はそれほどでもない
灯台の下の断崖がずっと続いている

**
午前中にシントラの宮殿も訪れる。
特徴的な二本の煙突がある↓

山の中のリゾート地といったふぜいだがイスラム教徒支配下の時代から砦があった。
残されている宮殿は14世紀ごろからのものだがイスラム的な装飾が多くみられる。
↓このタイルはポルトガルの「アズレージョ」とはちょっと違う↓

むしろアルハンブラ宮殿のものとそっくり↓



↓大広間のアズレージョタイルと比べるとその違いがはっきり理解できる↓

↓この部屋の天井を見上げると↓

一見、アルハンブラの寄木天井を思い出させるがポルトガル・アヴィス王家の紋章がたくさん描かれている。
↑左半分が白いものは娘の紋章。そこに結婚相手の紋章が入るのだ。
この天井は16世紀はじめのマヌエル一世王の時代のデザインと言われている。
この時期にはまだまだイスラム建築をつくることのできた職人がたくさんいたのだろう。
※現在見られるものはもちろん近年の修復

こちら↓二十七羽の白鳥には逸話がある

1662年に27歳の娘カタリナ(英語ならキャサリン)をイギリス王チャールズ二世に嫁がせた花嫁の父ポルトガル王ジョアン四世が描かせた。
仲良し夫婦の象徴の白鳥が王冠を首にかけているのだが・
チャールズ二世は「メリー・モナーク(陽気な王様)」呼ばれる遊び人で結婚前からたくさんの愛人がいた。
さらにカトリックのカタリナは英国国教会の戴冠式を拒否。
なかなかたいへんな王妃生活になったのだが、ポルトガルが輸入していた紅茶を飲む習慣をイギリス宮廷にもたらしたのはこの人だと言われている。
**
↓こちら「かささぎの間」はもっと古い14世紀1385年にアヴィス王朝を興したジョアン一世ゆかりの話がある↓

あるパーティの席で、ジョアン王が王妃がイギリスから連れてきた女官の一人に軽くキスした。
それを見た王妃は騒がなかったが、しらっとした空気がその場に流れた。
王は「いや、ちょっと感謝の気持ちを善意であらわしただけなんじゃ」と言い訳したのだが、宮廷の女性たちは「王様きっとあの娘に気があるのよ」とか、尾ひれがついてひろまってしまった。
王はひそひそ噂をやめない女性たちをカササギに擬して天井に描かせ

口には「POR BEM(善意によって)」と書かれた紙をくわえさせた。
***
↓この部屋では小児麻痺だったアフォンソ六世王が九年間の幽閉の末に没した↓

彼は前出の白鳥を描かせたジョアン四世王の息子。
イギリスに嫁に行ったカタリナの五才下の弟。優秀な兄が亡くなっていたので十三歳で国王になってしまったが精神的にも不安定だったとされている。フランスからやってきた王妃はアフォンソ王の不能を理由に結婚不成立を申し立てローマ法王にみとめられる。彼女はアフォンソの五才下の弟ペドロと結婚し、悲運のアフォンソ六世は王のままここに幽閉されたのだった。

****
↓アジア風の箪笥↓象牙に鼈甲と螺鈿(?)

↓イスラムの宮廷でよくあった屋内を涼しくする噴水

↓礼拝堂↓床にモスクの絨毯を模した装飾まである

↓小さな中庭に面して

↓最後に、外観で印象的な二本の煙突の真下から見上げる

*****シントラの街からも煙突はよくみえた

今日はシントラの街で少し散歩の時間もとれた

小さな商店街はお土産屋さんばかりかとおもったら、19世紀からのお菓子屋さんもある↓
↓そこで人気の「まくら」と呼ばれているお菓子を買いました

こういうちょっとした時間が街の記憶になるのです(^.^)


リスボンへ戻ってからランチ。午後は自由時間。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リスボンのベレン地区

2019-05-01 20:00:00 | ポルトガル
今日のリスボンはベレン地区のみの観光。

メーデーだからこのジェロニモス修道院も入れないと思っていたのだが、幸い開いていた。

ステンドグラスにはポルトガル王家の紋章↓


「ここに地果て、海はじまる」の一節で有名な詩人カモンイスの墓

↓向かい側にはヴァスコ・ダ・ガマの墓


ちかくのちょっと遊び心のある手の彫刻


大王海時代らしい世界各地の人々の顏がデザインされている


いちばん奥には王家の墓。
大航海時代にインド航路を得て「幸運王」と呼ばれるマヌエル一世が奥左、その手前が妃のマリア(カトリック両王の娘)

ポルトガルでは王家の棺を支えるのは象である


向かって右手には1578年にアフリカ遠征をしてモロッコで行方不明となったセバスチャン王の空の墓↓

先の幸運王マヌエル一世の曾孫にあたる人物だが、兄弟たちがどんどん亡くなってやっと生まれた「待望王」と呼ばれた。
なのに、後嗣も残さぬうちに行方不明となって…ポルトガル王家は断絶!
1580にスペインのフェリペ二世に併合されてしまった。

★キリスト騎士団はポルトガル発祥↓その紋章がこれ

フランス王によって壊滅させられてしまったテンプル騎士団の跡を継ぐものとしてポルトガル王が擁護していたとされる
***

ベレン地区へ来たら食べておきたいお菓子を↓
この老舗、四百席もあるそうだがいつもいっぱい↓

今日は十五分ほどで買えました

さっそく

シナモンをかけていただきます

****
ベレンの塔はもともと川の中にあったとされるが

1755年の地震で陸からの続きになってしまったとされている

*****
発見のモニュメント。先頭をゆくのはエンリケ航海王子

↑二番目に兄のドゥテルテ王、バスコ・ダ・ガマ、ブラジルの発見者カブラル、世界一周したマゼランと続く
↓いちばん後ろにフランシスコ・ザビエル

↓逆の面、最後尾に女性がお一人
エンリケ航海王子の母でイギリスから輿入れしたフィリッパ・ド・ランカスター↓

未知の世界に旅立つ息子たちを激賞した孟母だったとされる
↓このモニュメントの足元にひろがる世界地図のモザイク↓

南アフリカから寄贈されたものでたいへんりっぱ↓なのだが…

↓日本に到達した年号がちっと間違っている↓

******
ホテルにチェックインしてから今晩はファドレストランへ

民族舞踊なども交えて短いステージが続いてゆくすたいる。
後になるほどうまい人が出るのです




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バタリャ、オビドスを経由

2019-05-01 14:29:55 | ポルトガル
バタリャの修道院は突然姿をあらわす

「バタリャ」とは「戦争」という意味。
1385年、ポルトガルの王位を主張するカスタリアの王ファン一世との戦いに勝利したことを記念して建設された。

↑騎馬像はポルトガル側の将軍ヌノ・アルヴァレス・ペレイラ
これに勝って王位を確立したジョアン一世は、ポルトガル史でもっとも有名なエンリケ航海王子の父である。

ぱっと見ゴシックな建物だが細部を見るとロマネスク的な彫刻も多数みられる

↓教会は完成していない↓この部分は巨大な柱だけあるが屋根に至っていない。


現代の戦争記念碑もある

お土産物屋で、庭に水を撒くためのおもしろい「ひまわり」を売っていたので購入されました(^.^)


今日はメーデーで中には入れない。オビドスへ向かう↓
**
オビドスは城壁で囲まれた中世らしい小都市↓

観光客に大人気

昼食予約の時間よりだいぶ早く着いたので、16世紀に建設された水道橋に沿って歩いてみよう↓

約一キロで山につきあたり、さらに先に続いていた。
ローマの建設したものにくらべるといかにも簡素↓



昼食はイワシの焼いたのを


街を一時間ほど散策。



いちばん突き当りにある城は現在ポサーダ(国営ホテル)となっているが、今日はチョコレートフェスティバルの開場だった↓

↑入場券を買う人の行列

こういう街は猫の天国ですよね





****
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする