旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

廊下が滑走路のホテル泊

2023-10-25 10:20:34 | 国内
エレベーターを降りると滑走路だった。

羽田空港の駐機場すぐそばに10月17日に開業したホテル。

いちばんのウリは、飛行機好きをわくわくさせるこの廊下(^○^)

デザインの細部にこだわっている。

駐機場側の部屋に入ると窓に向けたデスクとハイチェア

ブラインドをあげると

カンタス機。こんなに近いのか。

ベッドサイドのデザイン

↑ミネラルウォーターとポストカードはお持ち帰りください。
いちばん上は消臭のためのおしゃれな墨玉

↑この部屋は↓

↑トレーニングルームの中にも飛行機(^○^)
**

ルーフトップからも飛行場が満喫できる

飛行場の続きにいるような場所。

写真にはうまく映らなかったが、羽田空港に下りてくる飛行機たちが空で列をつくっているのがよく見えた。
居心地良いソファもあるし、夏の夕暮れにカウンターバーがであると楽しめるだろうなぁ。

↑レセプション階にあるレストランは今回楽しむことができなかったが、また訪れてみたい。
***

翌朝は雨になった。

ホテルの下は京急とモノレール療法の天空橋駅があるので安心。

周囲のテナントはまだ空いているところも多いが、これから便利になっていくだろう。再訪してみたい。


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チンギス・ハーン博物館③通行証「ゲレゲ」、ヴァチカンや日本への書状

2023-10-13 16:15:22 | モンゴル
↓マルコ・ポーロも下賜されていたと書いている「ゲレゲ」

これを持っていればモンゴル帝国のどこのジャムチ(街道駅)でも必要なモノが供給される万能パス↑
国内を安全に移動できたことはパクス・モンゴリア(モンゴルの平和)の大きな成果。
↑書かれているのはモンゴル文字?ウイグル文字?

↑こちらはパスパ文字↑多言語国家モンゴル全土で↑どの言葉も表記しやすいようにチベット僧パスパが開発した表音文字。いわば当時のエスペラント文字。パスパはフビライ(クビライ)の侍僧になった人物。パスパ文字は後のハングル文字にも取り入れられているとガイドさんが検索しておしえてくれた
↑「チンギス・ハーン博物館」に展示されていたこれらはレプリカ
↓「歴史博物館」に展示されていたこれも↓


本家モンゴルでホンモノが展示されていないのではよほど希少なのだろう。
「ホンモノはテンリにあります」と言われて、それが日本の天理であるとしばらく分からなかった。
調べてみると★成吉思皇帝聖旨牌子として収蔵されていた※天理参考館のHPにリンクします
↑天理にあるホンモノは常設展示されているのだろうか。※2022年12月に天理を訪れた時のブログにリンクします
↑天理参考館が所蔵している「ゲレゲ」には漢字が書かれている。
「牌子」が中国語での呼び方。
アルファベット表記では「Paiza」になっていた。モンゴル語ではなく中国語の発音を優先したわけだ。

モンゴル帝国は西へも侵略を続け、1241年には現ポーランド領ワルシュタット(レグニッツァ)でヨーロッパの騎士たちを相手に大勝利をあげた。
危機感を抱いたローマ法皇イノチェント4世が即位すると、モンゴル皇帝への書状をフランチェスコ会の僧に持たせた。
1245年にカラコルムで第三代皇帝グユク(二代皇帝オゴデイの長子)に謁見し、翌年に返書を託された。
そのレプリカがこれ↓※オリジナルはヴァチカンに保管

↑ペルシャ語で書かれている。ペルシャ語はアラビア語と同様に右から左に横書きしかできない。
なので、この書状も横書きで展示した方がよいと思うのだが…。
もし、イラン人がやってきたら「あれ?わかってないなぁ」と思うだろう。
日本語の書状が横書き展示されているのと同じ。

ローマ法皇の書状は残されていないが、この返信の内容からキリスト教への帰依を求めてきたと推測できる。
グユク帝は「天こそが敬うべき最上のものである」と返信しているそうな。
多民族多宗教の広大な領土を統治していたモンゴルの皇帝には、
キリスト教にこだわるローマ法皇の言葉はスケールが小さく感じられたのではないかしらん。

↓もう一通、モンゴルからヴァチカンに送られた手紙が歴史博物館にあった↓

↑こちらは1302年にローマ法皇ボニファティウス8世に送られたもので原本は同じくヴァチカンに保管されている。
モンゴル語をウイグル文字を使って左から右に縦書き↑
右下の文末に押された印影を拡大してみると↓漢字だ↓

↑あとから調べて「王府定國理民之寶」だと分かった↑
送り主は第七代皇帝のカザン。彼はイスラム教に改宗してイル・ハン国(現イラン、シリアあたり)をスタートさせたとされているが、子供の頃に中国僧によって中国語も学んでいたそうだ。この頃まではモンゴル帝国は分割統治されながらも結束していたのを感じる。
カザンがイスラム教に改宗したあたりから、地域国家に分裂してゆく。

モンゴル皇帝フビライが日本に送った書状のレプリカもあった。
↓フビライがこの書状を送ったのは1266年、つまり前出ヴァチカンへの手紙二通の間↓

↑どこの「写し」を写したのだろう。鎌倉時代のオリジナルは現存していない。
↑日本の国立公文書館にあるものも、東大寺が写したものの「写し」である。
※国立公文書館のアーカイブにリンクします
↑日本の公文書館にあるものと比べると、正直ずいぶん雑に筆写されているように見える。


いわゆる元寇の海底遺構の調査によって近年見つかったものも展示してあった↑

↑モンゴル帝国が広大なユーラシア大陸の東西まで統治できたのは、言語・宗教に寛容であったからなのだ。支配者が自分たちの神を強要する世界は生きにくい。

↑最も強大だった時代のモンゴル帝国を率いたフビライ↑
この肖像でもかぶっている帽子(?)冠(?)のホンモノが展示されていた↓

ちゃんと質問しそびれたのだが、この帽子(?)冠(?)は権力を象徴するもので、皇后がデザインしたと解説されていたような。
今度行ったら確認しなくては。

歴代の継承者が被っているところをみると冠というべきものなのかもしれない。
よくわかりません。

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ローテンブルグの思い出

2023-10-12 11:15:50 | ドイツ
ローテンブルグの街並みにはクリスマスの風情が似合う。
1990年代から四半世紀の間の、個人的な旅の記憶がちりばめられている。

「ロマンチック街道」と名付けられた古代ローマの街道に位置するが、現在の姿になったのは14から15世紀のこと。
↑↓これらの写真の左の塔(市庁舎)は13世紀ごろには建設されていた

↑↓15世紀後半に描かれた祭壇画にも描かれている↓

が、よくみると建物の右半分はカタチがちがう
※このあたりの事情は2019年5月のブログに書いております
**
↓2005年には町全体が人を含めて中世にもどったような「帝国都市祭」に遭遇した

※その時の写真と、「マイスター・トゥルンク」の話などこちらに書いています
***
↓2008年にはデューラーの版画をもとに製作されたリーメンシュナイダーの作品に出会えた

※こちらに詳しく書きました
****
2006年にはビール酒場でこんなこともあったっけ

※こちら旧ブログに書きました

ローテンブルグは海外旅の添乗をはじめた頃から現在に至るまで、
様々な視点から興味を深めていった街。
当時はいろんな資料や本を山ほど抱えて歩きたおしていたが、
今度はゆっくり季節を楽しんで歩きたい。

















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チンギス・ハーン博物館②

2023-10-07 17:15:39 | モンゴル
モンゴル帝国の首都だったカラコルムの遺構はこの亀石しかない。
実物そっくりが置かれている。
※2008年に現地を訪れた時のブログをごらんください

チンギス・ハーンの三男で第二代皇帝となったオゴデイが建設したはじめて城壁都市にあったとされる。

↑草原に埋まっていた都市の存在は
1990年代に衛星を使った調査で確実になった↑写真で下のほうに見える四角が現在のエルデニ・ゾー寺院の城壁※先の2008年のブログに写っております
四角の外側=今は草原にもどった広大なエリアに都市遺跡があったことがはっきり写っている。

↑衛星写真と最新の発掘を反映した復元都市模型↑右下がエルデニゾー寺院
↑池の左に大きな塔が見える↓

↑この塔の遺構は現在発掘中。2024年夏に現地を訪れたい(^^)

復元模型では固定した建物ばかりだが、
一般の人々が住んでいたのは移動式のゲル。
動かない「家」に住んでいる我々の目からみると、
移動式のゲルは「簡易住居」に見えてしまうがそうではない。
モンゴルにおける快適な住居とは、第一に冬の寒さをしっかりと防ぐ構造であること。
ゲル内部の暖かさは夏に滞在する観光客でさえも実感する。
壮麗な建築であっても寒すぎる家には住みたくない。

↓これは19世紀後半のウランバートル中心部の絵↓※ザナバザル美術館展示より

↑一般住民の住居はゲルなのがわかる。

オゴデイがカラコルムを建設しはじめたのは1235年ごろ。
フビライ(=クビライ)が今の北京を占領し「大都」の建設をはじめたのは1267年から。
つまりカラコルム(=ハラホリン)が首都であった時代は三十年ほどでしかなかった。

モンゴル帝国はやがて「元」という中国の王朝となり、
ユーラシア大陸を横断する多民族・多宗教・多言語・多文字の世界最大の国家になってゆく。

↑カラコルムから大都(=現北京)に移動する途中に築かれた街から発掘された瓦には↓

↑(復元模型)不思議な漢字的な象形文字が見られる。

建築はほとんどが中国式の寺院だった
↑モンゴル民族が暮らすのはあくまでゲル。


モンゴル人がゲルで暮らさなくなるのは大都(=現北京)を首都にしてから。

移動しない壮麗な宮殿=故宮を中心とした都市を建設し↑その入口に建設した門が残されている↑「チンギス・ハーン博物館」にはそのアーチ部分が再現してある↓※名前がわかりません


縦書きのモンゴル文字が刻まれている↑

大都を建設させたのは第五代皇帝フビライ(=クビライ)。
ユーラシア大陸を平和に行き来できる、いわゆる「パクス・モンゴリア」を出現させた。
その時代に叔父につれられてヨーロッパからやってきたのがマルコ・ポーロ
※マルコ・ポーロの故郷=コルチュラ島(クロアチア)を訪れた時のブログにリンクします

・・・続く


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2022年に開館した「チンギスハーン博物館」①

2023-10-02 06:03:51 | モンゴル
国会議事堂前のスフバートル広場から見える白いドームがそれ。

国会議事堂の正面に座する三人のいちばん左は↑第二代皇帝となったチンギスハーンの三男オゴデイ。

↑近くに行くと印象的なドームは見えない↑
この場所にあった「自然史博物館」も歴史ある建物だったが完全に壊された。
恐竜の化石がたくさん展示されていたのをよく覚えている。※2008年に訪れた時のブログにリンクします※後半に恐竜の化石をのせています
恐竜の化石は現在かつての「レーニン記念館」に移されている※2023年に訪れたブログをごらんください

↑この正面玄関の前で大統領が開館のスピーチをした。※モンゴルのニュース(日本語版)にその写真があります
↑このニュースの中にも出てくる「旗」が記念プレートに描かれている↓

↑8本の旗があるので、清朝時代の「八旗(ジャン・グサ」」をイメージしているよう。
日本語で「蒙古八旗」と通称される。
現物がひとつだけ現存↓展示してあった↓

↑ホンモノは予想よりずっと大きい↑リンクした「モンゴルニュース」で大統領の後ろに写っていたのとはずいぶんちがう。
↑ヤクの毛は復元する時にすっかり新しくしたのだそうだ↑
**

天井の高い広々としたロビー

↑入館料 
モンゴル人は15000トゥグルク(約600円)
外国人は倍の30000トゥグルク(約1200円)
発展途上にある国はよく「外国人料金」を導入している。
モンゴルはもうすぐなくなるかしらん。
カメラ撮影するなら別に50000トゥグルク(約2000円)
英語個人ガイドをおねがいするなら10万トゥグルク(約4000円)
払って来てくださったのは観光ガイドではなく学芸員さん。ここから三時間半、小松のめんどうな質問にも的確で詳しい説明をしてくださった。
※解説が小松の理解をはるかに超えていたので、ごくかいつまんで印象に残ったところをご紹介することしかできません。
ここは「チンギスハーン博物館」という名前ではあるけれど、紀元前から20世紀初頭までを網羅する総合博物館です。全部の展示を一度に見学するのは無理。今回は下見なので七階全部を訪れたけれど、2024年の旅でどこまで見ていただくべきか、思案しております。
***

QRコードの入場券でゲートを通ると

階段の上にチンギスハーンの肖像画。

↑「鹿石」からはじまるのは、前日訪れた歴史博物館やザナバザル美術館と同じ。
※こちらに書いています

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