アールデコ調の塔への階段を上から下へパノラマ撮影してみた↓
阿武山地震観測所は1933年(昭和八年)に完成した当時とほとんど変わっていない。ニューヨークでは摩天楼が建設されていた時期。エンパイアステートビル完成の三年後↓
たどりついた屋上からの眺め。
阿武山の頂上から少し下がった標高218mの地点は平野をかこむ山々をぐるりと見渡せる。
アベノハルカスや奈良の山々まで。
天気の良い日は淡路島や関空まで見えるのだそうだ。
※阿武山観測所ができた当時の写真がそのホームページに掲載されています
遠くから雨がやってくるのがはっきり見えた↓
↓「太陽の塔」の背中が小さく見える
観覧車はそろそろ雨の中だろう↑
これは煙突だった
*
JAFS(アジア協会アジア友の会)主催の阿武山観測所見学に参加した
※JAFSについて、こちらのHPからごらんください
「阿武山観測所は、昭和2年(1927)3月7日発生『北丹後地震』(マグニチュード7.3、犠牲者約3,000人)の後、地震研究を進めるため、昭和5年(1930)、『阿武山地震観測所』として創設」ホームページより。
日本は地震研究を切実に必要としていた国なのだ。ここでは現代にいたる地震計発達の歴史を実物と共に知ることができる。
↑●大森式地震計は1898(明治23年)世界ではじめて常時動いて地震を観測・記録し続ける仕組みをもっていた。それによって初期微動の縦揺れ波(P波)・横揺れ波(S波)の到達速度の違いを発見し、震源地までの距離を測定する公式がつくられた。記録率は20倍※1㎜の揺れ幅を20㎜として記録するということ)
●ウィーヘルト式地震計は1904年にドイツで開発された「精密機器として位置づけられるはじめての地震計」※現地の展示解説より
重さが二トン以上もある。
阿武山では観測所開設当初に設置され、1991年まで六十年以上も現役だった。記録率は170倍、つまり相当微弱な地震も感知できるということ。
しかし、日本では巨大な地震が発生するので精密すぎる地震計では針が振りきれてしまう。
そこで世界に一台しかない大地震対応の地震計が開発された↓
●佐々式地震計は記録率1倍。揺れの大きさそのままが記録紙に描かれる大地震対応の地震観測器↓
1995年1月17日の阪神淡路大震災はこの地震計でなければ全貌が記録できない機会だったはず。
その記録が↓これ
↑あれ?大きな揺れの後、線が途切れてしまってますが?
「地震直後の停電で全部記録できなかったのです」
大災害に想定外はつきものなのでしょうけれど、いかにも残念。
1997年まで現役で使われていた。
現在活躍しているのは2009年に開発された
●満点地震計
↑こんなに小さくてコストも一台七十万円ほどなのだそうだ。
これだけ小さくて安ければたくさんの場所に設置して広域を細かく調査することができる。
地震計もこの百年で飛躍的に進歩してきたのがわかった。
2009年、この辺鄙な場所(失礼)を、「サイエンス・ミュージアム」にしようという再活用計画がうごきだした。
※ツィッターのアカウントがこちらにあります
京都大学の★満点計画の一環になっている。地域と共に自然を学ぶ活動はこの場所をメンテナンスしてゆくことだし、この地に住む人々の防災意識を高めることにもつながるというのだ。なるほど。
**
館内の説明を終える頃、さっき屋上で見ていた豪雨が到達。
番外編の阿武山古墳へ行く予定だったのだけれど、ちょっと難しい状況。
代わりにスライド付きで「ここでしかきけないガイド」をしてくださった。
これ、現場へ行くよりずっと面白い。
阿武山古墳=「藤原鎌足の墓?」は裏山に地震計を設置する穴を掘っている時に偶然見つかったのである。
※こちらに高槻市のホームページがあります
戦前のことで、内務省が「不敬にあたる怖れあり」として埋め戻しを指示し、新たな白い棺をつくってそこに納めて埋めた↓その時の写真がこれ↓
埋めた後に植えられた木々が、今はだいぶん繁っているのだそうな。
もういちどちゃんと調査される機会はくるのかしらん。
高槻市には近年多くの古墳に関する博物館が建設された。
そう遠くない時期に訪れて、この阿武山古墳についてももういちど認識しなおしたいと思う。
今日は、ここまで。