ゴッホが1853年3月30日に生まれた家は1903年に建替えられたが、そこが記念博物館になっている↓
↓もとの建物の白黒写真↓
すぐ前は市庁舎↓
こちらは1830年に建てられているので、ゴッホもこれを見ていただろう。
※1965年に一部改修されている
**
オランダの中のベルギー領バールレ・ヘルトフを出て三十分もせずにズンデルト。
遠くから教会が見えた時、「あれがゴッホの父(牧師だった)がいた教会か」と思ったが、実は違うカトリック教会だった↓
かなり立派で、ズンデルトがカトリック優勢のまちだとすぐにわかる。
ゴッホの父が牧師をしていたプロテスタントの教会はずっと小さい↓
そうか、ゴッホ一家はカトリックの街の少数派プロテスタント牧師の家族だったのである。
↓ちょうど葬儀が終わったところ。内部に入ることができた↓
五十人も入れるかどうかという大きさ。
ゴッホが洗礼をうけた洗礼盤↓
建てられた年号1805年とデザインされている天蓋↓
昔の様子がわかる養蜂器具がちかくに展示?されている
***
となりには若い芸術家のためのアトリエがあって、ズンデルト市が彼らを援助している↓
↓観光客を快く迎えてくれた
****
教会建物のすぐ横に19世紀の墓石がたくさんあるのだが、そのうちのひとつにヴィンセント・ヴァン・ゴッホの名前がある↓
これは有名なゴッホの一年前に死産だった同名の兄のもの。
両親は、一年後のまったく同じ日に生まれた次男に死産だった長男と同じ名前をつけていたのだ。
次男ヴィンセントは自分の名前の書かれた墓石を日々見ながら育ったということになる。
ゴッホは死産だった兄も入れると七人兄弟だった。
「孤独な」というイメージのあるヴァン・ゴッホだが、実際には大家族のなかで育っていたのだ。
まぁ、それもたいへんだったのだろうと想像できるけれど。
↓記念館の展示に系図があった↓
日本語のイヤフォンもある↓
分かりやすく、深く解説してくれる。
画商の叔父の紹介でハーグで働きだしたのに長続きせず、三十歳になってもまともな職につかず売れない絵を描く甥ヴィンセント。
経済的に成功した叔父の悩みの種になっていたのかもしれない。
兄弟の中で、すぐ下の妹だけが裕福で安定した結婚をした。
彼女はプライドの高い兄の事をわかっていたのだろう、テオを通じてわからないように経済的な支援をしていた。
↓広くはないが多様なコーナーと解説があり、ぜんぶ聴いていると一時間ぐらいはすぐに経ってしまう↓
ゴッホが本格的に画家を志したのはズンデルトを出てからなので、一般的なツアーでここを訪れることは希だが、この町を歩くとここがゴッホ絵画の原点になっていることが染み込むように理解できてくる。
教会の前にザッキンが製作したヴィンセントと彼を献身的に支えたすぐ下の弟テオが融合したような彫刻がある↓
ザッキンはゴッホが生涯を閉じたオーヴェールにもゴッホ像を設置している。
帝政ロシア時代からソビエトへの激動の時代に、ベラルーシからロンドンとフランスへ渡ったユダヤ系のコスモポリタン。
ゴッホがいつも抱えていた郷愁へのシンパシーがあったのだろう。
↓もとの建物の白黒写真↓
すぐ前は市庁舎↓
こちらは1830年に建てられているので、ゴッホもこれを見ていただろう。
※1965年に一部改修されている
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オランダの中のベルギー領バールレ・ヘルトフを出て三十分もせずにズンデルト。
遠くから教会が見えた時、「あれがゴッホの父(牧師だった)がいた教会か」と思ったが、実は違うカトリック教会だった↓
かなり立派で、ズンデルトがカトリック優勢のまちだとすぐにわかる。
ゴッホの父が牧師をしていたプロテスタントの教会はずっと小さい↓
そうか、ゴッホ一家はカトリックの街の少数派プロテスタント牧師の家族だったのである。
↓ちょうど葬儀が終わったところ。内部に入ることができた↓
五十人も入れるかどうかという大きさ。
ゴッホが洗礼をうけた洗礼盤↓
建てられた年号1805年とデザインされている天蓋↓
昔の様子がわかる養蜂器具がちかくに展示?されている
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となりには若い芸術家のためのアトリエがあって、ズンデルト市が彼らを援助している↓
↓観光客を快く迎えてくれた
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教会建物のすぐ横に19世紀の墓石がたくさんあるのだが、そのうちのひとつにヴィンセント・ヴァン・ゴッホの名前がある↓
これは有名なゴッホの一年前に死産だった同名の兄のもの。
両親は、一年後のまったく同じ日に生まれた次男に死産だった長男と同じ名前をつけていたのだ。
次男ヴィンセントは自分の名前の書かれた墓石を日々見ながら育ったということになる。
ゴッホは死産だった兄も入れると七人兄弟だった。
「孤独な」というイメージのあるヴァン・ゴッホだが、実際には大家族のなかで育っていたのだ。
まぁ、それもたいへんだったのだろうと想像できるけれど。
↓記念館の展示に系図があった↓
日本語のイヤフォンもある↓
分かりやすく、深く解説してくれる。
画商の叔父の紹介でハーグで働きだしたのに長続きせず、三十歳になってもまともな職につかず売れない絵を描く甥ヴィンセント。
経済的に成功した叔父の悩みの種になっていたのかもしれない。
兄弟の中で、すぐ下の妹だけが裕福で安定した結婚をした。
彼女はプライドの高い兄の事をわかっていたのだろう、テオを通じてわからないように経済的な支援をしていた。
↓広くはないが多様なコーナーと解説があり、ぜんぶ聴いていると一時間ぐらいはすぐに経ってしまう↓
ゴッホが本格的に画家を志したのはズンデルトを出てからなので、一般的なツアーでここを訪れることは希だが、この町を歩くとここがゴッホ絵画の原点になっていることが染み込むように理解できてくる。
教会の前にザッキンが製作したヴィンセントと彼を献身的に支えたすぐ下の弟テオが融合したような彫刻がある↓
ザッキンはゴッホが生涯を閉じたオーヴェールにもゴッホ像を設置している。
帝政ロシア時代からソビエトへの激動の時代に、ベラルーシからロンドンとフランスへ渡ったユダヤ系のコスモポリタン。
ゴッホがいつも抱えていた郷愁へのシンパシーがあったのだろう。