
最近特に気になっていることが有ります。
IT句会については昨日も少し触れたのですが、弊害とまでは言いませんが・・
なぜ座の句会が大切なのか?私なりに考え(大いに龍太の書物に影響されているが)
が有ります。それは披講というものがIT句会に無いからです。
日本語の美しさは、文字そのもの(目から入るもの)と音(耳から入るもの)との
両方があると思います。
梅林の誰にともなき薄暮なり 篠原美津子
誰もいぬ土間に葱おく雪解光 誠子
「誰」という文字は一緒でもこの「誰」は竹林と竹薮ほどの相違があると龍太は
言っています。竹林は青い幹の鮮やかさを思わせ、竹薮は繁った全体の姿であり、
ほのかなそよぎを感じる。同じように「だれ」は硬い感じの限定の強い響きがあり
「たれ」はふわっとした柔らかさがある。
前句は「たれ」後句は「だれ」と読んだ方がその句は生かされると思う。
それは披講というもので一層その力を発揮します。
また逆に文字になっていかされるものも有ります。
頬白が鳴いてはげます善き方へ 榎本虎山
この「善き方」は耳では「良き方」と同じ「よきかた」です。
しかし意味においては歴然です。「善き方」には作者の意図する心象が広がって
います。本当の心象はこのように隠れているものです。
折角美しい日本の言葉を使って十七音の詩世界を楽しむのなら、そこまで自分を
高める努力をしていきたいと思っています。

野仏のこうべ撫でいるすすきかな

句会において私だけの特選を見つけることを楽しんでいます。
その一つの目安として韻も大切に考えている。

冬ぐさの露が連れ去るみどりかな 大沼行々子