30を過ぎても立ち位置を見つけられず、40を過ぎても迷ってばかりの僕に今必要なのは「立ち位置」なのだというのはなんとなくわかっている。けれども、誰かの顔色を伺ったり、損得を計算したりしているうちにその場所が分からなくなっている。後ろを振り返っても風が吹いているだけならば、ただ前に進んでいくしかない。
『Q10』の5話を観た。Q10の正体を知ってしまった中尾君が、平太に対し秘密を守ることと引き換えにQ10をくれという。それを聞いた事情を知る大人たちは皆、それを受け入れろと平太に言う。宇宙の4%を抱きしめ続けようと思った彼だったが、その本心を小さく折りたたんで心の奥に押し込み、中尾君にQ10を渡す。けれども、本心は抑えられなかったんだね。栗子さんはそのことをわかっていて、自分と平太は立ち位置が違うんだから、自分の思う通りに行動するよう促す。「自分らしく生きる」とは、どういうことなのだろう。
影山くんと河合さん、久保くんと山本さん、栗子さんと小川先生、そして、校長先生とチロちゃん。お互いを繋ぎ止めているのが何なのかということも語られていた。そう、平太とQ10を繋ぎとめるものも。チロちゃんが逃げて行ったのはそのにおいが野獣のそれだったからでなくただ、校長先生ではなくなったと思ったからで、そのにおいが消え元の校長先生に戻ったら帰って来た。終盤、平太は自分の、そして友達たちの存在を立ち並ぶ鉄塔になぞらえた。映像は、空に向かって佇み、そして、細い電線で繋がっているそれらを、第1回の「助けて下さい」と叫ぶ彼らの姿に重ね合わせていた。
強い感情を心の奥深くに押し込んで生きてきた平太に対し、家族も気にかけているというのも、第1回での家族のシーンと繋がっていた。平太の持っていた、マンガで怒りを表現する記号のようなもののシールを見つけたお父さんは、それを平太の頬に貼り付け、「怒ってみろ」と言い、そして平太に足裏を踏ませながら、彼が入院していた時の思い出を語っていた。
平太が、中尾くんが、そして3年B組のみんながそこにいることを、彼らの心音で表現していたシーンで、瀬戸内国際芸術祭でのクリスチャン・ボルタンスキーさんの作品を思い出した。僕も豊島に心音を置いてきた。木皿さんも観に行ったのだろうか。
月子さんは、平太たちにとって観方なのか敵なのか。いや、そんなことを考えること自体がナンセンスなのかもしれない。そう思ったら、がんばって買い物を続けなくてもいいのだろう。彼女の存在が明らかになるとともに、物語は着実に最終回に向かっている。そう、「永遠」などない。
孔子の言葉は頭の中では納得できる。だが、現実の世界はそれとは異なっていて、それでいいのではないかって思う。画面に映る、自分の立ち位置に悩む高校生たちの姿に今の自分を重ねてもいいじゃない。諦めずに歩き続ければいいじゃない…って思いながら、明日も歩いていけばいい。