昨夜の『Q10』に感じたことを思い出していた。そして、もう一度観ている。
栗子が月子に「何か塗ってる?薬みたいな…」というシーンに、映画『時をかける少女』を思い出した人は少なくないんじゃないかな。ただ、思い出す世代は僕らと同じかそれくらいなんだろう。と、5話の平太と中尾くんのもみ合いのシーンを思い出した。確か、タイムリーブを思わせるシーンだった。月子の「さよなら、2010年」というシーンもそれを思わせる。
冒頭の、深井家の親戚の死、中盤の、久保くんと同じ病院に入院する患者さんの死、Q10が充電用のソケットを持ってこなかったこと、そしてそれを指摘した平太もいつも飲む薬を忘れてきたこと。
岸本校長の娘さんができちゃった結婚をし、その子どもが生まれたこと。藤丘くんが初めて焼いたパンが「明日のにおい」がしたこと。Q10が充電用のソケットではなく小川先生の家のアルバムを持ってきたこと。
死は終わりではなく、子や孫を通じてつながっていく。自分が先祖からつながっているように。亡くなられた患者さんが、結婚もせず子どもも作らず、橋を作っていたことを「まあ、いっか…」と言えたのは、橋を作ることで人と人とをつないでいたことに対する自負なのかもしれない。
さて、僕はこれまで何をつないできて、そしてこれから何をつないでいくのだろう。小川先生の「変身~、リセット」という言葉を、好きな人ができてもつながることができず、好きだったことを「なかったこと」にして平気な顔をして今日も生きている自分の心に重ね合わせていた。
昨日の新聞に池松壮亮くんのインタビューが載っていた。その中に、「病気と共に生きる彼は、自分から大人になることを選ばずにはいられなかった。僕にも似た感覚があります」という言葉が僕の心の奥に共鳴した。父を亡くした後、母は自由気ままな兄ではなく僕を頼るようになっていた。兄が自由気ままであったのはそれなりの理由があったのだと、今になって理解するが、その間僕は、大人でなければならないように育てられ…いや、自分からそうしていた。だが、実際に大人になったのは人間を構成する要素のごく一部であり、本来なら少しずつ育てていかなければならないことの多くを後回しにしてきたのかもしれない。
さて、そんな僕の大事なものはやはり見つからない。次の週末は、それを見つけに出かけてみよう。