朝9時にチェックアウト。列車の時間までまだかなりあるので荷物を駅のクロークに預けようと駅へ行く。生憎、クロークの前には長蛇の列。このまま荷物を担いで1時まで頑張ることにした。
駅でかわいらしい日本人の女の子に出会った。DSTで昨日ニューデリー入りをして、今日から一人でまわり始めるという。今日はこれからアグラへ行くとのことだった。切符は買ったが予約はしていないというので、リザベーションオフィスへ行くことを勧めておいた。今日これから行くのだから予約など取れるはずもない。でも、インドでは乗車券の他に座席指定が欲しければ改めてリザベーションオフィスへ行く必要があることを教えてあげたかったので、敢えて予約云々と言ってみたのである。ニューデリーではファーストクラスとセカンドクラスのオフィスが別棟になっており、彼女が必要としているのはファーストクラスなのだが、建物が見つからない。仕方なく、先に両替のためにコンノートへ行くことになった。ただ、チェックの発行体が私のはアメックスで彼女のが三菱銀行だったので、同じ銀行では両替できず、コンノートで別れることになった。8日に会った京都のOLさんも三菱銀行だったが全く不自由はなかったという。私のは、マドラスの空港でいきなり両替拒否に遭い、けっこうたいへんだった。銀行で1039ルピーという大金を久々に手にし、このあいだコンノートで会った日本人のグループが言っていた「コーヒーハウス」というレストランへ向かった。名前はいかにも気軽に入れそうだが、構えは高級そうだった。メニューを見ると印刷ミスではないかと思われるほど高かった。そのなかで一番安かったのがマンゴージュースのスモールだった。安いといっても5ルピーである。でも、さすがにおいしかった。ここを出てからまたセントラルパークへ出かけてみた。日本人らしい人はいなかったがバナナ売りが何人か店を出していた。1ルピー分だけ、と言って2ルピー札を出したら3本よこした。適当なところに腰をおろし、バナナを食べ始めると、さっきのバナナ売りが連れていた小さな女の子がやって来た。私が支払いに使った2ルピー札を差し出し、
This is not good.
という。インドでは古くてしわくちゃになった札は受取を拒否されることがしばしばある、とは聞いていたが、自分が経験するのはこれが初めてだった。ポケットからさっき銀行で手に入れたばかりの新札を出したら、その子は飛び上がって喜び、母親のところへ飛んで帰っていった。思わず私の頬も緩んでしまった。
列車の時間まではまだ余裕があったが、やることもないし、暑くなってきたので駅へ移動することにした。歩いていると太ったインド人が日本語で話し掛けてきた。またか、と思ったが商売を仕掛けてくる様子もない。彼の言うには、彼の兄弟の一人が日本人女性と結婚して大阪に住んでおり、たいへんハッピーなのだそうだ。彼自身も4月に日本へ行くという。職業を尋ねたら、カーペットの輸出をしているそうだ。彼の事業が順調であることは、その天真爛漫な顔つきと、腹が雄弁に物語っていた。
駅前の市場でバナナを一房買って駅の待合室に入る。このバナナは今日の昼食と夕食である。待合のベンチに座ってチャイを啜っていると隣のオジサンが話し掛けてきた。
「インドの町はオマエの国の町とずいぶんちがうか?」
「全然違う」
「インドの料理はオマエの口に合うか?」
「たいへん辛いが、おいしいと思う。」
「ほう、そりゃ珍しい。ところでオマエはどこから来た?」
「日本だ。」
「東京か?」
「そうだ。」
「大学生か?」
「そうだ。」
「東京大学か?」
「いや、違う。」
「じゃぁ、どこだ?」
「○○だ。」
「あぁ、そうか、○○か。」
「知っているのか?」
「うん。兄弟が東大で教えているから、東京の大学のことはいろいろ聞いている。」
というような会話だった。インド料理といっても、これだけ大きな国ともなると地域によって様々である。一般に南へ下るほど味付けが辛くなる。このオジサンは人と待ち合わせでもしているのかしきりに時間を気にしていて、ほどなくどこかへ行ってしまった。もう1時なので私もホームへ出ることにした。ホームには既に私の乗る列車が入線していた。自分の乗るコーチは幸いにも階段を下りてすぐのところにあった。入り口に貼られたリザベーションリストには確かに私の名前があった。列車は定刻どおり13時40分に動き出した。
私の寝台は上段だった。どんなに混んでいても寝る場所が確保できるという点では良いのだが、狭くて頭が天井につかえてしまうのと、扇風機に近すぎるのが難である。このコンパートメントは、私と家族連れによって占められているのだが、検札が終わると例によってチケットもろくに持っていないような連中が入り込んできた。気が付けば定員6人のコンパートメントに10人座っているのである。その不法侵入っぽい連中のなかに、ビーチサンダルを大量に持ち込んできた人相の悪いニイチャン二人連れがいた。
インドの列車は何故か駅でもないところでしばしば停車する。今日はたまたま砂糖黍畑の真っ只中で停車した。早速、何人かが列車から畑へ飛び出してゆき、それを見て次から次へと畑へ人が出て行った。そして、誰もが何本かの砂糖黍を手に列車へ戻ってくるのである。みな思い思いにもぎたての砂糖黍をしゃぶっている。汽笛が鳴り、列車が動き始めると、畑から列車へ人々が走って戻ってくる。私のいるコンパートメントのサンダル屋もそうした砂糖黍泥棒の一味である。彼は私の寝台で昼寝をしている相方に1本、自分用に1本、計2本の砂糖黍を持って戻ってきた。昼寝をしていた相方は目が醒めると砂糖黍にむしゃぶりつき、私が寝るはずの寝台は砂糖黍のしゃぶり滓だらけになってしまった。当然のことながら、彼等は後片付けもせず、途中の駅で降りてしまった。インド人の公共心の無さは日本人以上である。
砂糖黍の喰い滓はなんとか片付けたが、さすがにここにじかに寝る気はしない。こんなとき、持参してきたビニールシートが役に立つ。もともと安宿の南京虫対策として持参したのだが、幸いなことにこれまで使う機会がなかったのである。これに包まって寝れば扇風機の風を直接受けることもないので風邪もひかずに済む。まだ外の景色を眺めていたかったのだが、夕方になって寝台を占拠され、寝たいのに寝ることができないという事態は避けたかったので、早々と寝台に上がってしまった。間もなく、少し大きめの駅に着いた。大きな荷物を担いだり引き摺ったりしながら乗客が降りたり乗ってきたりする。車内はたちまち埃にくもり、乗降が一段落した後もモヤモヤしている。そのモヤモヤもおさまった頃、列車は駅を離れた。すると、さきほどの駅から乗り込んできた車内販売のオッサンが営業をはじめた。
彼は大工が使う道具箱のようなものを担ぎ、なにやら商品名を連呼しながらうろうろしている。どうやら「ダヒー!」と言っているようだ。その箱にはダヒーつまりヨーグルトが収まっているのである。寝台の上から他の客が買うのを見ていたら、箱のなかには凍ったヨーグルトの塊と天秤が入っていて、そのヨーグルトを計って1ルピー単位で売るのである。私も彼を呼び止めた。「ダヒー!」手馴れた手つきでヨーグルトの塊を1cmほどの厚さに切りとり、天秤に計って、新聞紙の切れ端に載せ、木のスプーンを添えてよこした。ぱっと見は葛餅のようでもある。これが1ルピーであった。しかも美味。
4時頃から少し眠り、目が醒めたら午後7時を回っていた。周りの人々は食事の真っ最中である。私もニューデリーの駅で買ったバナナを取り出し食べ始める。バナナだけの食事というのも少し寂しいが、毎日というわけでもないので気にしない。
駅でかわいらしい日本人の女の子に出会った。DSTで昨日ニューデリー入りをして、今日から一人でまわり始めるという。今日はこれからアグラへ行くとのことだった。切符は買ったが予約はしていないというので、リザベーションオフィスへ行くことを勧めておいた。今日これから行くのだから予約など取れるはずもない。でも、インドでは乗車券の他に座席指定が欲しければ改めてリザベーションオフィスへ行く必要があることを教えてあげたかったので、敢えて予約云々と言ってみたのである。ニューデリーではファーストクラスとセカンドクラスのオフィスが別棟になっており、彼女が必要としているのはファーストクラスなのだが、建物が見つからない。仕方なく、先に両替のためにコンノートへ行くことになった。ただ、チェックの発行体が私のはアメックスで彼女のが三菱銀行だったので、同じ銀行では両替できず、コンノートで別れることになった。8日に会った京都のOLさんも三菱銀行だったが全く不自由はなかったという。私のは、マドラスの空港でいきなり両替拒否に遭い、けっこうたいへんだった。銀行で1039ルピーという大金を久々に手にし、このあいだコンノートで会った日本人のグループが言っていた「コーヒーハウス」というレストランへ向かった。名前はいかにも気軽に入れそうだが、構えは高級そうだった。メニューを見ると印刷ミスではないかと思われるほど高かった。そのなかで一番安かったのがマンゴージュースのスモールだった。安いといっても5ルピーである。でも、さすがにおいしかった。ここを出てからまたセントラルパークへ出かけてみた。日本人らしい人はいなかったがバナナ売りが何人か店を出していた。1ルピー分だけ、と言って2ルピー札を出したら3本よこした。適当なところに腰をおろし、バナナを食べ始めると、さっきのバナナ売りが連れていた小さな女の子がやって来た。私が支払いに使った2ルピー札を差し出し、
This is not good.
という。インドでは古くてしわくちゃになった札は受取を拒否されることがしばしばある、とは聞いていたが、自分が経験するのはこれが初めてだった。ポケットからさっき銀行で手に入れたばかりの新札を出したら、その子は飛び上がって喜び、母親のところへ飛んで帰っていった。思わず私の頬も緩んでしまった。
列車の時間まではまだ余裕があったが、やることもないし、暑くなってきたので駅へ移動することにした。歩いていると太ったインド人が日本語で話し掛けてきた。またか、と思ったが商売を仕掛けてくる様子もない。彼の言うには、彼の兄弟の一人が日本人女性と結婚して大阪に住んでおり、たいへんハッピーなのだそうだ。彼自身も4月に日本へ行くという。職業を尋ねたら、カーペットの輸出をしているそうだ。彼の事業が順調であることは、その天真爛漫な顔つきと、腹が雄弁に物語っていた。
駅前の市場でバナナを一房買って駅の待合室に入る。このバナナは今日の昼食と夕食である。待合のベンチに座ってチャイを啜っていると隣のオジサンが話し掛けてきた。
「インドの町はオマエの国の町とずいぶんちがうか?」
「全然違う」
「インドの料理はオマエの口に合うか?」
「たいへん辛いが、おいしいと思う。」
「ほう、そりゃ珍しい。ところでオマエはどこから来た?」
「日本だ。」
「東京か?」
「そうだ。」
「大学生か?」
「そうだ。」
「東京大学か?」
「いや、違う。」
「じゃぁ、どこだ?」
「○○だ。」
「あぁ、そうか、○○か。」
「知っているのか?」
「うん。兄弟が東大で教えているから、東京の大学のことはいろいろ聞いている。」
というような会話だった。インド料理といっても、これだけ大きな国ともなると地域によって様々である。一般に南へ下るほど味付けが辛くなる。このオジサンは人と待ち合わせでもしているのかしきりに時間を気にしていて、ほどなくどこかへ行ってしまった。もう1時なので私もホームへ出ることにした。ホームには既に私の乗る列車が入線していた。自分の乗るコーチは幸いにも階段を下りてすぐのところにあった。入り口に貼られたリザベーションリストには確かに私の名前があった。列車は定刻どおり13時40分に動き出した。
私の寝台は上段だった。どんなに混んでいても寝る場所が確保できるという点では良いのだが、狭くて頭が天井につかえてしまうのと、扇風機に近すぎるのが難である。このコンパートメントは、私と家族連れによって占められているのだが、検札が終わると例によってチケットもろくに持っていないような連中が入り込んできた。気が付けば定員6人のコンパートメントに10人座っているのである。その不法侵入っぽい連中のなかに、ビーチサンダルを大量に持ち込んできた人相の悪いニイチャン二人連れがいた。
インドの列車は何故か駅でもないところでしばしば停車する。今日はたまたま砂糖黍畑の真っ只中で停車した。早速、何人かが列車から畑へ飛び出してゆき、それを見て次から次へと畑へ人が出て行った。そして、誰もが何本かの砂糖黍を手に列車へ戻ってくるのである。みな思い思いにもぎたての砂糖黍をしゃぶっている。汽笛が鳴り、列車が動き始めると、畑から列車へ人々が走って戻ってくる。私のいるコンパートメントのサンダル屋もそうした砂糖黍泥棒の一味である。彼は私の寝台で昼寝をしている相方に1本、自分用に1本、計2本の砂糖黍を持って戻ってきた。昼寝をしていた相方は目が醒めると砂糖黍にむしゃぶりつき、私が寝るはずの寝台は砂糖黍のしゃぶり滓だらけになってしまった。当然のことながら、彼等は後片付けもせず、途中の駅で降りてしまった。インド人の公共心の無さは日本人以上である。
砂糖黍の喰い滓はなんとか片付けたが、さすがにここにじかに寝る気はしない。こんなとき、持参してきたビニールシートが役に立つ。もともと安宿の南京虫対策として持参したのだが、幸いなことにこれまで使う機会がなかったのである。これに包まって寝れば扇風機の風を直接受けることもないので風邪もひかずに済む。まだ外の景色を眺めていたかったのだが、夕方になって寝台を占拠され、寝たいのに寝ることができないという事態は避けたかったので、早々と寝台に上がってしまった。間もなく、少し大きめの駅に着いた。大きな荷物を担いだり引き摺ったりしながら乗客が降りたり乗ってきたりする。車内はたちまち埃にくもり、乗降が一段落した後もモヤモヤしている。そのモヤモヤもおさまった頃、列車は駅を離れた。すると、さきほどの駅から乗り込んできた車内販売のオッサンが営業をはじめた。
彼は大工が使う道具箱のようなものを担ぎ、なにやら商品名を連呼しながらうろうろしている。どうやら「ダヒー!」と言っているようだ。その箱にはダヒーつまりヨーグルトが収まっているのである。寝台の上から他の客が買うのを見ていたら、箱のなかには凍ったヨーグルトの塊と天秤が入っていて、そのヨーグルトを計って1ルピー単位で売るのである。私も彼を呼び止めた。「ダヒー!」手馴れた手つきでヨーグルトの塊を1cmほどの厚さに切りとり、天秤に計って、新聞紙の切れ端に載せ、木のスプーンを添えてよこした。ぱっと見は葛餅のようでもある。これが1ルピーであった。しかも美味。
4時頃から少し眠り、目が醒めたら午後7時を回っていた。周りの人々は食事の真っ最中である。私もニューデリーの駅で買ったバナナを取り出し食べ始める。バナナだけの食事というのも少し寂しいが、毎日というわけでもないので気にしない。