熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「ミルク」(原題:Milk)

2009年06月05日 | Weblog
映画を観ることが趣味と言えるほど、多くの映画を観ているわけではないし、映画が好きというわけでもない。それでも、これまでに観たなかで、好きな作品というのはいくつもある。そのひとつに「グッド・ウィル・ハンティング」がある。その監督がガス・ヴァン・サントで、「ミルク」は彼の監督作品ということで観たいと思ったのである。彼の監督作品は他にもたくさんあるのだが、観たのはこれら2作品だけである。二作品だけでこの監督について語ることはもちろんできないが、「ミルク」については期待に違わない作品だった。

興味深いのは、同性愛者としての自分の権利を守ろうと立ち上がった主人公が、政治の世界に足を踏み入れる過程で当初の目的を超越して、人権擁護運動の色彩を帯びてくることである。

もともとハーヴィー・ミルク氏は、自分の性的指向を周囲の人々に認知してもらおうと考えて、同性愛者が迫害を受けずに安心して暮らすことのできる環境作りを目指して社会運動を始めたようだ。それが、同じ悩みを抱える人たちの相談にのっているうちに、同性愛者のみならず、有色人種や高齢者などの社会の弱者を支える運動へと発展、やがて、そうしたマイノリティの利害を代弁すべく政治の世界に入っていくことになる。興味深いのは、自分の利害を守るという意図から始まった活動が、人権擁護という普遍性を持ったものに昇華していくことだ。政治活動が忙しくなるにつれ、ミルク氏とそのパートナーであるスコット・スミス氏との関係がぎくしゃくするようになり、やがて別離に至ってしまう。もともとミルク氏はスミス氏との生活を守るためにこうした運動を始めたはずなのに、その運動が手に負えないほど大きなものになり、2人を引き裂くことになる。

政治にはこの逆のこともよくあるだろう。大きな理想を持って政治の世界に踏み込んだ人が、いつしか自分の名誉と権力に溺れて、当初の理想とは逆の結果を産み出すというようなことだ。

要するに、人というのは独立した存在ではないということなのだろう。その時々の関係性のなかを生きる、かなりヴァーチャルな存在であるように思われる。この映画自体は、ミルク氏の最後の8年間を描いた伝記作品であり、おそらく製作意図としては、困難に立ち向かった英雄伝にあるのだろう。ただ、私には、ひとりの人間がその立場によって本人すらも意図していなかった役割を演じることになるという、人の世とか人生の不思議のようなものが感じられて面白かった。

ただ、最後のところで、登場人物のその後を文字情報にしてスライド形式で流すのは、映画としてはどうなのかと疑問に思う。テレビのドキュメンタリー番組ならいざしらず、映画として表現したいことがあるなら、あのような中途半端な手法は用いずにストーリーのなかに織り込むべきなのではないだろうか。確かに、観客は登場人物のその後に好奇心を抱くだろう。しかし、それにすべて応える必要が映画としてあるだろうか? おそらく、このあたりの感覚が米国と日本との文化の違いにもあるような気がする。