子供の頃、8月になると懐メロを特集したテレビ番組が流れていたと記憶している。私の記憶のなかのフランク永井は、懐メロ番組の常連という程度でしかない。だからその曲といえば「有楽町で会いましょう」くらいしか知らなかった。さきほどYouTubeで「公園の手品師」という曲を聞き、なるほどフランク永井という人はすごい歌手だったのだと思ったが、この曲が2度発売されたのにどちらも不発に終わった理由もなんとなく了解できたような気がした。たぶん、普通の人には難しくて口ずさむことができないからだと思う。
今日、草加市文化会館で柳家小三治の独演会を聴いた。「公園の手品師」の話は仲入り後の「小言念仏」のマクラのなかで語られていたのである。マクラでは、売れなかった理由として、愛だの恋だのが歌われていなかったからではないかと語られていた。そのような歌詞の問題もあるかもしれないが、大衆歌謡というものは、誰もが口ずさむことができるというのが売れるための必要条件ではなかったのかと思うのである。過去形にしたのは、もはや時代は大衆歌謡を求めていないように見えるからだ。小三治はコンサートを開くほどの歌唱力の持ち主だから思い及ばないのだろうが、「公園の手品師」のような曲は私が歌うと念仏のようになってしまう。あるいは、そのあたりのことまで読んだ上で、この話を「小言念仏」のマクラにもってきたのだろうか?
小三治の噺はマクラが長いことで有名だ。生で聴くのは今回が初めてだが、文庫で出ている「ま・く・ら」と「もひとつ ま・く・ら」は何年か前に読んである。実際に聴いてみると、マクラの域を超越した確たる世界がそこにあるように感じられた。
古典落語の多くは江戸後期から明治あたりにかけて原形ができあがったものだろう。当然、そこで展開される物語には、現代の生活者には窺い知れない習俗もある。マクラというのは、その噺の世界へと我々を誘う基礎講座のようなものだ。決して単なる口慣らしでもなければ、挨拶代わりのようなものでもない。マクラを通じて、聴き手は無意識のうちに本題の世界の空気に順応するのである。時代を超えて我々の感情に流れる普遍的な感覚を活性化させるという役割がマクラにあるのだと思う。人間というもののなかにある普遍的なものを語るというのであれば、マクラなど振らずに本題だけに賭けるという道もあるだろう。マクラの扱いは、結局のところ、山に登るのに男坂を行くのか女坂を行くのか、というような違いであるように感じられる。大事なのは山に登ること。人間のなかにある普遍的なものの片鱗を感じさせることではないだろうか。
当り前のことだが、落語は生で噺を聴かなければ落語ではない。語るという行為が、全身全霊を総動員したものであり、その語りを聴くという行為もまた、全身全霊を総動員して対峙するものだということを改めて感じた。こんなふうに書くと、難儀なことのように思われるかもしれないが、結局は「公園の手品師」に歌われている銀杏の木のように、状況の変化に応じて、その在りようを自然な状態、無理のない状態に順応させるという双方向性が人間の行為の基本にも通じると思うのである。
今日の演目は以下の通り。
「転失気」柳家三之助
「蒟蒻問答」柳家小三治
***仲入り***
「小言念仏」柳家小三治
今日、草加市文化会館で柳家小三治の独演会を聴いた。「公園の手品師」の話は仲入り後の「小言念仏」のマクラのなかで語られていたのである。マクラでは、売れなかった理由として、愛だの恋だのが歌われていなかったからではないかと語られていた。そのような歌詞の問題もあるかもしれないが、大衆歌謡というものは、誰もが口ずさむことができるというのが売れるための必要条件ではなかったのかと思うのである。過去形にしたのは、もはや時代は大衆歌謡を求めていないように見えるからだ。小三治はコンサートを開くほどの歌唱力の持ち主だから思い及ばないのだろうが、「公園の手品師」のような曲は私が歌うと念仏のようになってしまう。あるいは、そのあたりのことまで読んだ上で、この話を「小言念仏」のマクラにもってきたのだろうか?
小三治の噺はマクラが長いことで有名だ。生で聴くのは今回が初めてだが、文庫で出ている「ま・く・ら」と「もひとつ ま・く・ら」は何年か前に読んである。実際に聴いてみると、マクラの域を超越した確たる世界がそこにあるように感じられた。
古典落語の多くは江戸後期から明治あたりにかけて原形ができあがったものだろう。当然、そこで展開される物語には、現代の生活者には窺い知れない習俗もある。マクラというのは、その噺の世界へと我々を誘う基礎講座のようなものだ。決して単なる口慣らしでもなければ、挨拶代わりのようなものでもない。マクラを通じて、聴き手は無意識のうちに本題の世界の空気に順応するのである。時代を超えて我々の感情に流れる普遍的な感覚を活性化させるという役割がマクラにあるのだと思う。人間というもののなかにある普遍的なものを語るというのであれば、マクラなど振らずに本題だけに賭けるという道もあるだろう。マクラの扱いは、結局のところ、山に登るのに男坂を行くのか女坂を行くのか、というような違いであるように感じられる。大事なのは山に登ること。人間のなかにある普遍的なものの片鱗を感じさせることではないだろうか。
当り前のことだが、落語は生で噺を聴かなければ落語ではない。語るという行為が、全身全霊を総動員したものであり、その語りを聴くという行為もまた、全身全霊を総動員して対峙するものだということを改めて感じた。こんなふうに書くと、難儀なことのように思われるかもしれないが、結局は「公園の手品師」に歌われている銀杏の木のように、状況の変化に応じて、その在りようを自然な状態、無理のない状態に順応させるという双方向性が人間の行為の基本にも通じると思うのである。
今日の演目は以下の通り。
「転失気」柳家三之助
「蒟蒻問答」柳家小三治
***仲入り***
「小言念仏」柳家小三治