今、唐津焼ではたいへん人気のある作家だそうだ。通っている茶道教室では氏の茶碗が数多く使われている。自分にとっては馴染みのある作家だが、茶を頂くのに、茶碗の作者が誰であるかということは意識したことがない。手にとったとき、それがしっくりとくるかこないかだけが感じることのすべてだ。しっくりくる、というのは身体との一体感が得られるということだ。茶碗の品質というのは、結局はそういうことではないのだろうか。
今日観た茶碗は、これまで使ったものとは趣の違うものが多かった。作家というのは常に何かしら新しいものを創り出さなければならないという宿命を背負ている。守るべきものと革新するべきものとの程好い加減というものがあるだろうが、その程好さというものは勿論一定したものではないだろう。作り手も人間なら使い手も人間だ。感性が完全に一致することなどありえないだろうし、だからこそ、良いなと思うものと時々出会うくらいの感覚のほうが信頼できるというものだ。
今日観た茶碗のなかでは大中小3つの茶碗が組になっていて入れ子のようにして収納できるという作品があった。これが好きだ。特に中の焼き締めがよいと思った。
今日観た茶碗は、これまで使ったものとは趣の違うものが多かった。作家というのは常に何かしら新しいものを創り出さなければならないという宿命を背負ている。守るべきものと革新するべきものとの程好い加減というものがあるだろうが、その程好さというものは勿論一定したものではないだろう。作り手も人間なら使い手も人間だ。感性が完全に一致することなどありえないだろうし、だからこそ、良いなと思うものと時々出会うくらいの感覚のほうが信頼できるというものだ。
今日観た茶碗のなかでは大中小3つの茶碗が組になっていて入れ子のようにして収納できるという作品があった。これが好きだ。特に中の焼き締めがよいと思った。