危うく誤解をするところだった。結局、国家が国民の安寧を指向することなど無いのだから、自分の人生は自分で守るしかない、それがどれほど空しいことであっても、というようなことなのかと思った。ところが、最後の部分が作品全体のおさらいのようになっていて、そこで観客はそれまで観てきたことを振り返ることができるようになっている。特に女性刑事の回想部分は作品の本質にかかわる部分でもある。作り手には伝えたいこともあれば、観る人に委ねたいこともあるだろう。最後のパートが無くても作品としては成り立つだろうが、それがあることで、作り手の想いを噛んで含めるように見せている。それをおせっかいだと感じる人がいないわけでもないだろうが、私にとってはあの部分があることで、気持ちや考えが整理され、すっきりした気分で映画館を後にすることができた。
確かに、おさらい部分を観た後で、そのシークエンスを最初に観た時に、少し考えればわかりそうな背後の関係性に思い至らなかった自分にがっかりするという面がないわけでもない。それでも気楽に「あぁ、あれはそういうことだったのかぁ」と思ってしまう自分を「しょうがねぇなぁ」と愛おしく思う気持ちのほうが勝っている。せめて自分くらいは自分のことを無条件で受けいれてやらなければ立つ瀬がないというものだ。
さて、物語ではクライマックスに向かって、強盗を繰り返す老夫婦は捜査の手に追い詰められていく。もちろん、彼等は自分たちが指名手配されていることも、警察の影がすぐ背後に迫っていることもわかっている。それでも、切迫感が無い。それは、老化によって動作も思考も緩慢になっている所為も多少はあるのだろうが、人生の最終場面に立ち、ごく自然に物事を達観する境地に達しているといこともあるだろう。ただ、切迫しているはずの状況とあまり切迫しているようには見えない老夫婦の動きのズレが、この作品にユーモラスな雰囲気を与えていることは、おそらく製作側も狙っていることなのだろう。
年金だけでは生活ができないとか、信じていた国家が何の頼りにもならないとか、要するに社会の矛盾への批判というような視点は主人公たちには無いと思う。生活費が不足して自分たちが暮らす公営住宅の家賃を滞納し、ついには電気を止められても、何をするということもなく普通に暮らしている老夫婦。無い袖は振れないのだから、どうしようもないのである。ついに滞納した家賃のために差し押さえが入り、妻の大切にしていたダイヤのイヤリングが持っていかれたことで、亭主が立ち上がる。要するに、自分の大切な人の大切なものを取り返す、という単純な動機で郵便局や銀行を襲うのである。実はこれは物事を成し遂げるには重要なことだ。目的が単純であるほうが、その達成意欲は強くなるものだ。
亭主が意を決して立ち上がる時、深夜にそっと家を抜け出す。手には妻が草花に水をやるときに使う如雨露とホース。階下の駐車場にある愛車チャイカに歩み寄り、そのカバーを外す。ガソリンがないので、駐車場にある別の車からガソリンを抜き取るのである。如雨露とホースはそのための道具だ。乗りもしないのに愛車は新車の如くに磨き上げられている。亭主にとっては愛する妻、書斎の本、愛車が自分の世界の全てなのである。亭主は共産党幹部の運転手をしていて、この車は定年退職の時に自分が運転していたものを貰い受けたのである。車の愛好家というのではなく、人生の主要な部分を象徴するものというような意味合いがあるのだろう。今、守るべき自分の世界が外部からの脅威に晒されているから、こうして立ち上がったのである。人の自己というものは、案外このように単純でささやかなものなのかもしれない。最初は警察に協力していた妻も、亭主の思いに気付き、亭主と行動を共にすることになる。
いくつかの郵便局や銀行や宝石商を襲い、妻のイヤリングを取り返したところで所期の目的は果たされた。しかし、今や警察に追われる身。一方で、年金生活に行き詰まった老人の単独犯だというのに、警察は逮捕することができずにいる。そこに人々は正義を見てしまう。生活できないほどの小額の年金、生活に困窮して強盗をはたらくことを余儀なくされた老人、それを大捜査網を敷いて追う警察。逃亡を続けながら強盗を繰り返す老人は、警察に追われる犯罪者という、これも単純な図式のなかにあるのだが、犯罪に至った事情やら周辺情報が加わると、権力によって迫害される弱者、という別の単純な図式にすり替わって見えてしまう。メディアに毎日のように登場する老夫婦は、日々の生活に不満を抱える市井の人々にとっての英雄という色彩を帯びるようになる。
結局、主人公たる老夫婦は、逃避行のなかで自分たちの人生を取り戻したのだと思う。勿論、彼等には良心の呵責もあれば、被害者への同情もある。しかし、ダイヤのイヤリングが象徴するふたりの出会いは、おそらく自分の意志で行動した数少ない経験のひとつなのだろう。我々の生活というのはその殆どが習慣によるものだ。困難に直面したり、大きな岐路に立つというのはそう頻繁にあることではない。だからこそ、自分の意志で何事かをつかみ取ることで、自分自身に生気が宿るような高揚した気分を感じるのだろう。この夫婦はイヤリングを取り戻す過程で自分の人生を生きるという意志を取り戻したのだと思う。81歳と70歳の夫婦に未来があるのか、という見方もあるだろう。人の未来というのは、たぶん、時間のことではない。習慣に流されることなく、自分の意志で生きるということこそが人の未来というものなのではないだろうか。そう考えれば、炎上するチャイカの姿は、単なる習慣に寄りかかって生きてきたことへの決別を象徴しているようにも見える。
思うままに駄文を連ねたが、愉快な作品だと思った。
確かに、おさらい部分を観た後で、そのシークエンスを最初に観た時に、少し考えればわかりそうな背後の関係性に思い至らなかった自分にがっかりするという面がないわけでもない。それでも気楽に「あぁ、あれはそういうことだったのかぁ」と思ってしまう自分を「しょうがねぇなぁ」と愛おしく思う気持ちのほうが勝っている。せめて自分くらいは自分のことを無条件で受けいれてやらなければ立つ瀬がないというものだ。
さて、物語ではクライマックスに向かって、強盗を繰り返す老夫婦は捜査の手に追い詰められていく。もちろん、彼等は自分たちが指名手配されていることも、警察の影がすぐ背後に迫っていることもわかっている。それでも、切迫感が無い。それは、老化によって動作も思考も緩慢になっている所為も多少はあるのだろうが、人生の最終場面に立ち、ごく自然に物事を達観する境地に達しているといこともあるだろう。ただ、切迫しているはずの状況とあまり切迫しているようには見えない老夫婦の動きのズレが、この作品にユーモラスな雰囲気を与えていることは、おそらく製作側も狙っていることなのだろう。
年金だけでは生活ができないとか、信じていた国家が何の頼りにもならないとか、要するに社会の矛盾への批判というような視点は主人公たちには無いと思う。生活費が不足して自分たちが暮らす公営住宅の家賃を滞納し、ついには電気を止められても、何をするということもなく普通に暮らしている老夫婦。無い袖は振れないのだから、どうしようもないのである。ついに滞納した家賃のために差し押さえが入り、妻の大切にしていたダイヤのイヤリングが持っていかれたことで、亭主が立ち上がる。要するに、自分の大切な人の大切なものを取り返す、という単純な動機で郵便局や銀行を襲うのである。実はこれは物事を成し遂げるには重要なことだ。目的が単純であるほうが、その達成意欲は強くなるものだ。
亭主が意を決して立ち上がる時、深夜にそっと家を抜け出す。手には妻が草花に水をやるときに使う如雨露とホース。階下の駐車場にある愛車チャイカに歩み寄り、そのカバーを外す。ガソリンがないので、駐車場にある別の車からガソリンを抜き取るのである。如雨露とホースはそのための道具だ。乗りもしないのに愛車は新車の如くに磨き上げられている。亭主にとっては愛する妻、書斎の本、愛車が自分の世界の全てなのである。亭主は共産党幹部の運転手をしていて、この車は定年退職の時に自分が運転していたものを貰い受けたのである。車の愛好家というのではなく、人生の主要な部分を象徴するものというような意味合いがあるのだろう。今、守るべき自分の世界が外部からの脅威に晒されているから、こうして立ち上がったのである。人の自己というものは、案外このように単純でささやかなものなのかもしれない。最初は警察に協力していた妻も、亭主の思いに気付き、亭主と行動を共にすることになる。
いくつかの郵便局や銀行や宝石商を襲い、妻のイヤリングを取り返したところで所期の目的は果たされた。しかし、今や警察に追われる身。一方で、年金生活に行き詰まった老人の単独犯だというのに、警察は逮捕することができずにいる。そこに人々は正義を見てしまう。生活できないほどの小額の年金、生活に困窮して強盗をはたらくことを余儀なくされた老人、それを大捜査網を敷いて追う警察。逃亡を続けながら強盗を繰り返す老人は、警察に追われる犯罪者という、これも単純な図式のなかにあるのだが、犯罪に至った事情やら周辺情報が加わると、権力によって迫害される弱者、という別の単純な図式にすり替わって見えてしまう。メディアに毎日のように登場する老夫婦は、日々の生活に不満を抱える市井の人々にとっての英雄という色彩を帯びるようになる。
結局、主人公たる老夫婦は、逃避行のなかで自分たちの人生を取り戻したのだと思う。勿論、彼等には良心の呵責もあれば、被害者への同情もある。しかし、ダイヤのイヤリングが象徴するふたりの出会いは、おそらく自分の意志で行動した数少ない経験のひとつなのだろう。我々の生活というのはその殆どが習慣によるものだ。困難に直面したり、大きな岐路に立つというのはそう頻繁にあることではない。だからこそ、自分の意志で何事かをつかみ取ることで、自分自身に生気が宿るような高揚した気分を感じるのだろう。この夫婦はイヤリングを取り戻す過程で自分の人生を生きるという意志を取り戻したのだと思う。81歳と70歳の夫婦に未来があるのか、という見方もあるだろう。人の未来というのは、たぶん、時間のことではない。習慣に流されることなく、自分の意志で生きるということこそが人の未来というものなのではないだろうか。そう考えれば、炎上するチャイカの姿は、単なる習慣に寄りかかって生きてきたことへの決別を象徴しているようにも見える。
思うままに駄文を連ねたが、愉快な作品だと思った。