茶碗は茶を飲むための道具であり、花瓶は花を生けるための器である。茶碗だけが、花瓶だけが仰々しくガラスケースに収められて飾られているというのは、動物の剥製標本のような不思議な空気を醸し出す。
工場での流れ作業から生み出されたものであっても、職人の手でひとつひとつ精魂こめて作られたものであっても、使う人あっての道具である。使い手との関係無しにモノだけが存在することはできない。毎日使わなくてもよい。時と場面とに応じて、季節に応じて、使い手との間に気持ちの良い関係を生じてこそ、そのモノの存在意義があるというものだ。何の周辺知識もなく、ただそのものだけを前にして感じられる親しみや違和感というものもあるだろうが、そのモノについての物語を知ることで一層親しみや違和感が増すこともあるだろうし、違和感が親しみに、親しみが違和感に変化することもあるだろう。
人と人との関係にしても同じではないだろうか。毎日顔を合わせていても決して距離が縮まらない相手というものはいるし、たまにしか会わなくても身近に感じられる相手もいる。血縁の有無というのは相手を理解することに関してそれほど重要なことではなく、もっと影響力のある要素というものが人間関係のなかにはいくらでもあるものだ。肉親だから理解しあえるというも、氏育ちが違うから相容れないというのも、どちらも幻想でしかないだろう。
「夏時間の庭」は、どこにでもありそうな、なさそうな、ある家族の風景だ。母親の誕生日に集まった3人の子供たちとそれぞれの家族。父親は既に亡くなって久しく、話題の中心は近く回顧展を開く予定の画家だった大叔父のこと。フランス語がわからないので、字幕と場面とを注意深く見ていないとわからないのだが、母と大叔父、つまり兄と妹とは単に仲の良い関係ということではなかったようだ。これが「叔父」ではなく「伯父」であったとすると、全く別の話になってしまう。
それはともかくとして、母親は愛する兄の思い出が詰まった空間に家政婦と暮らしている。家屋も、そこにある家具や日用品の数々も、もちろん兄が残したスケッチ類も、美術品として高い価値のあるものばかりだが、おそらく彼女にとってはそんな経済的価値などどうでもよいことだろう。それらのモノを通して兄との愛の歴史を反芻しているのかもしれない。しかし、子どもたちにとっては、事情は違う。大叔父といっても自分たちの幼少の頃に他界しているので、その記憶は殆どない。3人ともそれぞれに独立して安定した社会的地位を得ている。家は確かに自分たちが育った場所という点において愛着はあるのだが、そこへの執着はない。子供というのは成長すれば自然に生まれ育った家を離れ、自分の家を築くものである。成長するということは、それまで自分を庇護していた枠組みから独立して、自分の世界を創りあげるということだ。そういう生活史を何世代も繰り返すことが自然な進歩というものだ。
大叔父の回顧展を終え、展覧会とともに世界各地を回った母親は、その疲労の所為もあり、念願の回顧展を無事終えて心の張り合いの失ったこともあり、突然亡くなってしまう。残された家屋敷と高価な家具や調度品を相続することになった子どもたちに相続税がのしかかる。3人の子供たちの間では、遺されたものを受け継ごうとする意志が全く無かったわけではないのだろうが、少なくとも長女と次男は自分の今ある生活を優先する。長男も結局は現実的な対応をすることになる。母の遺志もあり、相続税の免税措置を受けるという事情もあり、遺された家具や調度品はオルセー美術館に寄贈される。
それだけのことである。この映画には特別な出来事が何もない。美術館に並ぶ絵画や家具や調度品は、かつて生活のなかの道具類であり、人々の生活の一部として生きていたものだということが、特別なドラマのない淡々とした生活を描くことで見えてくるのである。美術館に並ぶ器であろうが、自分が普段使っている器であろうが、そのもの自体に意味があるのではなく、それが置かれた関係性にこそ意味がある。人生の豊かさは関係性の密度と濃淡に負うている。わかってはいるつもりだが、自分自身が浅薄なので、豊かな関係性など容易に築くことができず苦悶している。
工場での流れ作業から生み出されたものであっても、職人の手でひとつひとつ精魂こめて作られたものであっても、使う人あっての道具である。使い手との関係無しにモノだけが存在することはできない。毎日使わなくてもよい。時と場面とに応じて、季節に応じて、使い手との間に気持ちの良い関係を生じてこそ、そのモノの存在意義があるというものだ。何の周辺知識もなく、ただそのものだけを前にして感じられる親しみや違和感というものもあるだろうが、そのモノについての物語を知ることで一層親しみや違和感が増すこともあるだろうし、違和感が親しみに、親しみが違和感に変化することもあるだろう。
人と人との関係にしても同じではないだろうか。毎日顔を合わせていても決して距離が縮まらない相手というものはいるし、たまにしか会わなくても身近に感じられる相手もいる。血縁の有無というのは相手を理解することに関してそれほど重要なことではなく、もっと影響力のある要素というものが人間関係のなかにはいくらでもあるものだ。肉親だから理解しあえるというも、氏育ちが違うから相容れないというのも、どちらも幻想でしかないだろう。
「夏時間の庭」は、どこにでもありそうな、なさそうな、ある家族の風景だ。母親の誕生日に集まった3人の子供たちとそれぞれの家族。父親は既に亡くなって久しく、話題の中心は近く回顧展を開く予定の画家だった大叔父のこと。フランス語がわからないので、字幕と場面とを注意深く見ていないとわからないのだが、母と大叔父、つまり兄と妹とは単に仲の良い関係ということではなかったようだ。これが「叔父」ではなく「伯父」であったとすると、全く別の話になってしまう。
それはともかくとして、母親は愛する兄の思い出が詰まった空間に家政婦と暮らしている。家屋も、そこにある家具や日用品の数々も、もちろん兄が残したスケッチ類も、美術品として高い価値のあるものばかりだが、おそらく彼女にとってはそんな経済的価値などどうでもよいことだろう。それらのモノを通して兄との愛の歴史を反芻しているのかもしれない。しかし、子どもたちにとっては、事情は違う。大叔父といっても自分たちの幼少の頃に他界しているので、その記憶は殆どない。3人ともそれぞれに独立して安定した社会的地位を得ている。家は確かに自分たちが育った場所という点において愛着はあるのだが、そこへの執着はない。子供というのは成長すれば自然に生まれ育った家を離れ、自分の家を築くものである。成長するということは、それまで自分を庇護していた枠組みから独立して、自分の世界を創りあげるということだ。そういう生活史を何世代も繰り返すことが自然な進歩というものだ。
大叔父の回顧展を終え、展覧会とともに世界各地を回った母親は、その疲労の所為もあり、念願の回顧展を無事終えて心の張り合いの失ったこともあり、突然亡くなってしまう。残された家屋敷と高価な家具や調度品を相続することになった子どもたちに相続税がのしかかる。3人の子供たちの間では、遺されたものを受け継ごうとする意志が全く無かったわけではないのだろうが、少なくとも長女と次男は自分の今ある生活を優先する。長男も結局は現実的な対応をすることになる。母の遺志もあり、相続税の免税措置を受けるという事情もあり、遺された家具や調度品はオルセー美術館に寄贈される。
それだけのことである。この映画には特別な出来事が何もない。美術館に並ぶ絵画や家具や調度品は、かつて生活のなかの道具類であり、人々の生活の一部として生きていたものだということが、特別なドラマのない淡々とした生活を描くことで見えてくるのである。美術館に並ぶ器であろうが、自分が普段使っている器であろうが、そのもの自体に意味があるのではなく、それが置かれた関係性にこそ意味がある。人生の豊かさは関係性の密度と濃淡に負うている。わかってはいるつもりだが、自分自身が浅薄なので、豊かな関係性など容易に築くことができず苦悶している。