東京オペラシティアートギャラリーで開催中の鴻池朋子展を観てきた。この人がどのような人なのか全く知らなかったのだが、芸術新潮の最新号にこの個展が紹介されていて、その容姿が知人に似ていたのと、たまたま、期限間近のぐるっとパスも手元にあったので、ふらっと出かけてみたのである。
平日の昼間の、しかもそれほどメジャーな美術館とも思われない場所での展覧会の割には、観客が多いと感じた。そういえば、ロンドンでもテート・モダンが市内の美術館のなかでは最も客が多かった。現代美術が人を惹き付けるのは、作り手と客とが同じ時代の空気を呼吸しているから、そこになにかしら響き合うものがある所為ではないかと思う。
この展覧会のテーマは地球の奥深くを覗き見ること。客を誘うのは少女の下肢。それが虫や狼と一体となって、我々を地中の奥深くへと案内する。地中に地層が形成されているように、本展も深度に応じて相の転換が試みられている。相と相の間は身を屈めて潜るようになっている固定されたカーテンで仕切られているのだが、それは茶室の躙り口のようでもある。そういえば、茶室も異空間を象徴している。このあたりの感覚は、日本人として背負っている文化を反映しているのだろうか。
そして地球の核だが、それは赤ん坊の頭部の形をしたミラーボールだ。地球の中心に何を想像するかというのは、その人の想像力が試されているような緊張感を沸き立たせる問いのようにも思える。芸術新潮の記事のなかで鴻池は「地球の中心に<赤ん坊>がいるというのは、想像力の限界かもしれない」と語っていたが、少なくとも「無」のような手垢のついたものではない、意表をつくようなつまらなさ、というところに非凡なものを感じるのである。実際にこの展示会場に立てば、恐らく作者が想定していなかったであろう面白さを体験することができる。少なくとも私は体験した。
各展示区画にはひとりずつ監視員がいる。このミラーボールの部屋の片隅にもガードマンが律儀に直立しているのである。暗い部屋の片隅で、直立不動で地球の中心にあるとされている赤ん坊の頭部型ミラーボールが反射する光の粒を受けている姿が何より印象的だった。地球の核というのは自律的に活動しているものだと無意識に信じていたが、やはり人間に監視されていたのである。そこに我々の社会というものの本質を見る思いがした。
よほど、その監視員に「この現場は何分交代なんですか?」と尋ねてみようかと思ったのだが、やめておいた。
平日の昼間の、しかもそれほどメジャーな美術館とも思われない場所での展覧会の割には、観客が多いと感じた。そういえば、ロンドンでもテート・モダンが市内の美術館のなかでは最も客が多かった。現代美術が人を惹き付けるのは、作り手と客とが同じ時代の空気を呼吸しているから、そこになにかしら響き合うものがある所為ではないかと思う。
この展覧会のテーマは地球の奥深くを覗き見ること。客を誘うのは少女の下肢。それが虫や狼と一体となって、我々を地中の奥深くへと案内する。地中に地層が形成されているように、本展も深度に応じて相の転換が試みられている。相と相の間は身を屈めて潜るようになっている固定されたカーテンで仕切られているのだが、それは茶室の躙り口のようでもある。そういえば、茶室も異空間を象徴している。このあたりの感覚は、日本人として背負っている文化を反映しているのだろうか。
そして地球の核だが、それは赤ん坊の頭部の形をしたミラーボールだ。地球の中心に何を想像するかというのは、その人の想像力が試されているような緊張感を沸き立たせる問いのようにも思える。芸術新潮の記事のなかで鴻池は「地球の中心に<赤ん坊>がいるというのは、想像力の限界かもしれない」と語っていたが、少なくとも「無」のような手垢のついたものではない、意表をつくようなつまらなさ、というところに非凡なものを感じるのである。実際にこの展示会場に立てば、恐らく作者が想定していなかったであろう面白さを体験することができる。少なくとも私は体験した。
各展示区画にはひとりずつ監視員がいる。このミラーボールの部屋の片隅にもガードマンが律儀に直立しているのである。暗い部屋の片隅で、直立不動で地球の中心にあるとされている赤ん坊の頭部型ミラーボールが反射する光の粒を受けている姿が何より印象的だった。地球の核というのは自律的に活動しているものだと無意識に信じていたが、やはり人間に監視されていたのである。そこに我々の社会というものの本質を見る思いがした。
よほど、その監視員に「この現場は何分交代なんですか?」と尋ねてみようかと思ったのだが、やめておいた。