先日のBの会でこの本のことが少しだけ話題にのぼった。私が、まだ読んだことが無い、と言うと、「読まなくていいよ」という意見と「俺はああいうのだめだけど、熊ちゃんは好きかも」という意見があり、気になったので読んでみた。
おそらく、善意というものを素直に信じることができて、家族とか夫婦というものが特別に親密な関係であるという幻想が成り立っていた時代においては、この作品は読者に強い衝撃を与えることができたのだろう。しかし、親子や夫婦の間で殺し合ったり傷つけ合ったりすることが日常の風景のなかに溶け込んでしまっていて、もはや異常なこととも思われなくなってしまっていると、この作品は純文学ではなくて大衆文学になってしまう。
デジタルカメラで撮影した写真をパソコンに取り込んで整理するとき、画像に加工を施そうとして、いろいろ調節しているうちに、自分のなかでイメージしているものから大きくかけ離れてしまうのはよくあることだ。結局、いろいろいじったものが気に入らなくてデフォルトに戻してしまう。しかし、デフォルト値と極端な値との間は連続していて、違和感のある映像とない映像との境目というのははっきりしていない。しかし、調整の微妙な違いによって同じ映像が全く違った様相を呈するのは、写真の世界に限ったことではない。
人間とか人間関係の正常と異常というのも確たる境目はない。自分の間尺に合わない相手を「変わりもの」とか「気違い」などと判断して、自分の「まとも」な世界を守るのは、いわば人としての当然の防衛反応であろう。結局のところ人は自分の間尺に合う相手としか、健全な関係を維持できないのである。その間尺は、生まれ持った部分もあるだろうし、経験に応じて伸びたり縮んだりもするだろう。親子兄弟姉妹配偶者といえども、重なる経験というのは思いの外小さいのではないか。それにもかかわらず、何故か社会のなかにはこれらの関係をそれ以外の人間関係とは区別して特別扱いをする傾向が強いように思う。その特別という意識と現実との断絶が、時に人を狂わせるのではないだろうか。
尤も、「特別な関係」というものがないと、人間の社会そのものが成り立たなくなってしまうので、類としての防衛反応として、社会というものの核となるような「特別」が無意識のなかに想定されれているのかもしれない。自分のなかでは自分こそが世界の全てだが、世界のなかではその全てであるはずの自分がものの数にも入らない。普段は意識されないけれど、時としてバックリと口を開くその世界との断絶を埋める意志の作用が生きることなのかもしれない。
本作のなかで、ミホが夫トシオの浮気を執拗に責めるのは、自分の世界と現実との断絶を埋め合わせる試みであり、つまり、それこそが彼女の生になっているのだろう。だから、その責めから逃れるようにトシオが自殺を図ろうとすると必死で止めるのである。トシオの死は埋めようとしている断絶が失われてしまうこと、彼女の生が否定されてしまうことだからである。一方のトシオがミホの死を怖れて彼女から眼を離すことができないのも同じ理由である。彼女の死は彼の「特別」が失われることだからだ。
傍目に崩壊している人間関係が、それでも継続していくのは、当事者の「世界」がそこにしか存在しないからだ。自分の世界というものを意識しない限り、そうした崩壊状態から逃れる道は無いのだが、それが容易でないのは、人が変化というものを怖れるからなのではなかろうか。「世界」は容易に変わるべきものではないのである。現実が不確実なものであるがゆえに、その現実と折り合いをつけながら生きていくには、確固とした軸のようなものが必要なのである。本作で描かれている世界は、その必要な軸を求め合う人の営みのように思える。当事者にとっては必死なのだが、傍目には滑稽ですら感じられることがあるのも、我々の実生活のなかにはよくあることのように思われた。
さて、Bの会での話に対する私の答えとしては「読まなくていいよ」に一票投じておきたい。
おそらく、善意というものを素直に信じることができて、家族とか夫婦というものが特別に親密な関係であるという幻想が成り立っていた時代においては、この作品は読者に強い衝撃を与えることができたのだろう。しかし、親子や夫婦の間で殺し合ったり傷つけ合ったりすることが日常の風景のなかに溶け込んでしまっていて、もはや異常なこととも思われなくなってしまっていると、この作品は純文学ではなくて大衆文学になってしまう。
デジタルカメラで撮影した写真をパソコンに取り込んで整理するとき、画像に加工を施そうとして、いろいろ調節しているうちに、自分のなかでイメージしているものから大きくかけ離れてしまうのはよくあることだ。結局、いろいろいじったものが気に入らなくてデフォルトに戻してしまう。しかし、デフォルト値と極端な値との間は連続していて、違和感のある映像とない映像との境目というのははっきりしていない。しかし、調整の微妙な違いによって同じ映像が全く違った様相を呈するのは、写真の世界に限ったことではない。
人間とか人間関係の正常と異常というのも確たる境目はない。自分の間尺に合わない相手を「変わりもの」とか「気違い」などと判断して、自分の「まとも」な世界を守るのは、いわば人としての当然の防衛反応であろう。結局のところ人は自分の間尺に合う相手としか、健全な関係を維持できないのである。その間尺は、生まれ持った部分もあるだろうし、経験に応じて伸びたり縮んだりもするだろう。親子兄弟姉妹配偶者といえども、重なる経験というのは思いの外小さいのではないか。それにもかかわらず、何故か社会のなかにはこれらの関係をそれ以外の人間関係とは区別して特別扱いをする傾向が強いように思う。その特別という意識と現実との断絶が、時に人を狂わせるのではないだろうか。
尤も、「特別な関係」というものがないと、人間の社会そのものが成り立たなくなってしまうので、類としての防衛反応として、社会というものの核となるような「特別」が無意識のなかに想定されれているのかもしれない。自分のなかでは自分こそが世界の全てだが、世界のなかではその全てであるはずの自分がものの数にも入らない。普段は意識されないけれど、時としてバックリと口を開くその世界との断絶を埋める意志の作用が生きることなのかもしれない。
本作のなかで、ミホが夫トシオの浮気を執拗に責めるのは、自分の世界と現実との断絶を埋め合わせる試みであり、つまり、それこそが彼女の生になっているのだろう。だから、その責めから逃れるようにトシオが自殺を図ろうとすると必死で止めるのである。トシオの死は埋めようとしている断絶が失われてしまうこと、彼女の生が否定されてしまうことだからである。一方のトシオがミホの死を怖れて彼女から眼を離すことができないのも同じ理由である。彼女の死は彼の「特別」が失われることだからだ。
傍目に崩壊している人間関係が、それでも継続していくのは、当事者の「世界」がそこにしか存在しないからだ。自分の世界というものを意識しない限り、そうした崩壊状態から逃れる道は無いのだが、それが容易でないのは、人が変化というものを怖れるからなのではなかろうか。「世界」は容易に変わるべきものではないのである。現実が不確実なものであるがゆえに、その現実と折り合いをつけながら生きていくには、確固とした軸のようなものが必要なのである。本作で描かれている世界は、その必要な軸を求め合う人の営みのように思える。当事者にとっては必死なのだが、傍目には滑稽ですら感じられることがあるのも、我々の実生活のなかにはよくあることのように思われた。
さて、Bの会での話に対する私の答えとしては「読まなくていいよ」に一票投じておきたい。